知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

見た目が身分制だった時代の話

   実は、見た目で判断するなという人ほど、見た目がそういう格好になっているという実態があります。見た目というと、「らしく」が、基本で、それらしくしていれば、大体そのように相手は判断してくれるという事ですが、服装は視覚で身分を表す方法として長く利用されてきました。実際に身なりで人の社会的地位を判断するというのは今でも普通に行われています。それは、視覚情報が最大の伝達・広報機能であった事にもよります。直接会わない限り相手の事は分からない時代にあっては、会ったときの視覚的情報が自分を守る重要な情報でもありました。ですから、長く服装は身分であり社会的地位であったのです。これは、意外と文化が発達している程に明確な方法となりました。そこには、衣類の原材料による違いもありました。日本で言えば、最上の絹、綿、青苧、植物繊維とはっきりわかるものでした。これが、社会秩序維持に大きく貢献してきました。ですから服装が自由だという事は、一見社会の身分制が薄いという環境にあるという事が言えます。環境として、どんな身なりでもいいと言われる自由さは、身分と言ういわれなき差別をなくした社会とも言えます。しかし、この自由な環境を謳歌するより逆行することで、自らを悪印象にして差別を助長したい人がいます。つまり、敢えて「見た目で判断」してほしいという人もいるという事です。例えば、入れ墨。本来日本では、魔除け、呪術として普通にありましたが、一度入れたら消えないという事から、奴隷や犯罪者を識別する方法として、焼き印や刺青が手軽に行われていました。その為長く犯罪者の象徴とされてきましたが、明治後禁止されたことで、ヤクザが自己主張として飾り彫り刺青を利用したことから今度は、反社会的象徴になりました。最近、はやっているタトゥーとの違いは、肌に入る針の深さで刺青は深く、タトゥーは浅いと言われていますが、言葉としては刺青が正確と言えます。ですから、両者ともいったん彫り物を施してしまうと、消す事は容易にできないという点でも共通しています。外国の人が、彫りが浅いと言えど、彫り物を好むのは、自己表現の一つとして社会的に容認されているからですが、日本では刺青=反社と言う認識ですから、タトゥーであったとしても、自己表現であったとしても、反社の一員ですよと言うアピールになってしまいます。それは、全体としてみればそんなことはないファッションの一部だと言い張ってもそれが社会的に象徴となるような事であれば全体の捉え方としてはバッチに近い効果を及ぼします。例えば、コロナ禍の時、マスク拒否で報道された議員が何人かいますが、その人たちのテレビに出ている服装は、スーツにネクタイと極普通の恰好です。集団の慣習にすべて合わせていながらたった一つマスクごときで粋がっただけで非難を受けました。人は見た目で安心安全を確認しています。ですから、見た目は、自分の自己表現ではなく、相手の感性に対してのアピールであり、安心安全の目明日でもあるという事なのです。身分制度の時代には、見た目で周囲が対応する目明日だったのですが、身分制度が希薄になると、見た目は相手に対しての安心安全のシグナルになったという事です。ですから、自己表現として行っていれば、ヤクザな人で危険と判断されますし、コスチュームプレイの服装をしていれば、そういう人だと判断されます。逆に制服としての服装をしていれば、安心感を持たれるという事もあります。日本には、「見た目で判断してほしくない」と言う意見と同時に実は、「見た目で判断してほしい」と言う自己表現者がいるという事です。社会的に自分が不利な状況に置かれたとしても自己顕示や自己承認として自己表現する人がいるという事です。ただ、その表現が偏見や差別に類似しているならそのように評価されるという事です。その時になって見た目で判断するべきではないと言っても効果はありません。敢えて見た目に挑戦するなら黙らせるだけの力が必要です。例えば天皇ジーパンで出てきても人格まで評価はしません。