知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ぼんやり魂の話

 「魂」「霊」「精神」「心」「命」「気力」などなど、生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると人間が考えた事を言葉にしたものです。過去から人間は、肉体を支配するものにこだわってきました。そして、それは不滅にあるものだと、見えないけれどあるものだと考え、それを表現する言葉を考えてきました。例えば「霊(れい)」は、人間だけでなく、肉体を持つすべての生物に宿るとして、肉体の死後も、肉体から離れさらに活動を続けていくことのできるものとまでしています。それが、輪廻転生という事にもなるのですが、死後の世界から戻ってきた人はいませんから本当のところはわかりません。そして、日本人は、宗教だけでなく、文武から文化・技能に至るまで修行すれば「魂」が肉体に取り込まれると考えますから、「入魂」という事が好きです。その為「一寸の虫にも5分の魂」として、なんでも「魂」を付けたがります。サムライ魂、ヤマト魂、町人魂、学生魂、会社魂、云々とどこでも見られます。ところがそれは一体何かと言うと、勝ち抜く程度の精神力や戦い抜く気力程度のホラの様なものでしかありません。踏まれても、踏まれても立ち上がっていく様を「雑草魂」っていう事があるのですが、この場合でも実態は、「踏まれた雑草は立ち上がらない」が真実だと言われています。実際人間が歩いた後に道が出来るというのは、雑草が立ち上がって復元しないからにすぎません。踏まれた雑草は、傷を修復して横へ伸びてから太陽に向かいます。人に踏まれたならなにくそと立ち上がる雑草などいないという事は明らかで、雑草が繁茂するのは、世代を超えて繁殖を繰り返しているというだけにすぎません。人間の生き方について、人間は自然界の状態を教訓に利用しようとすることが沢山ありますが意外とその中身は間違えていることも多くあります。ですから、ぼんやりとしているとなんにでも「魂」がつけられて、がんばれがんばれという事になります。しかし、雑草は、自分が生きることよりも種を残すこと、次の世代を残すことが優先ですから、人間が希望するように踏まれても踏まれても立ち上がろうという努力はしません。つまり、人間の意地みたいなものや見栄や格好には全く関係なく雑草の魂は、目指すべき種の継続に向けて対応していて、人間が望むような、無理して頑張ってはくれないのです。肉体は「魂」の支配下にあるのだから魂の修練をすれば強くなれると魂があれば修行が出来ると励まされますが、逆にそんな簡単に魂が変えられるものなら人間はもっと誰かれなく偉大になっているはずですが、みんな普通です。墓や仏具を使用する前に僧侶が読経して、「魂入れ(こんいれ)」をする様に、目に見えず、「これがそうだ」と言い切ることができないにもかかわらず、有るかの如く扱われるのが魂です。そんな魂に依存したところで何も変わることなどありません。時には、ろくでもない習慣や理不尽なルールまでが魂の表現として使われてしまいます。鼓舞するだけなら、それでもいいのですが、そんな魂により、精神や肉体を傷つけられたり、強制や押し付けられて自分の魂が委縮されてしまう方が危険です。「魂」「霊」「精神」「心」「命」「気力」などなど、肉体を超えたところにあるはずの何かを求めてもありません。生きものの体の中に宿っている物質はすべて物質にすぎません。思考さえも電子反応で確実に物質が存在しています。空気を掴もうとするような、魂に頼るのではなく、ぼんやりと自分の魂は、自分と共に歩んでいることを自覚した方がずっと有効だと思うのです。あなたがいるからあなたの魂がある、それはどんな魂より大切であると。