知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

地域生活と言う甘い言葉の話

   重度化・高齢化・そして強度行動障害がある人は、家庭や障害者通所施設そして、グループホームでは対応できないから入所施設が必要だと厚労省は言っていながら、障害者入所施設に暮らす利用者に、「地域生活の希望把握を義務化」するという矛盾する政策を行おうとしています。それは、順番待ちで、特養に入った人に地域生活の希望を取るという事と同じです。もともと、障害者は、家庭である地域で生活しています。家族もかわいがっています。しかし、親が高齢となり「親亡き後」どうしようという事で、選択できるのが入所施設しかなかったから利用しています。地域に暮らすことのできる場があるなら利用するはずがありません。ところが厚労省は、国連から指摘された脱施設化のスローガンのためにグループホームでは、支援が困難と言っているのに、適応できない困難な人まで入所施設から追いやる手段としてグループホームを悪用しようとしています。つまり、障害者がどこで暮らすことが適切かと言えば普通に生まれ育った地域ですというのは誰もが答えることです。では施設に暮らす障害者はどこから来たのかと問えば地域です。地域で暮らせないから入所施設へ来たのです。このことから考えるなら、障害者が地域で暮らし続けられる政策が行われれば、誰も施設へは行かないという事が明白です。逆に地域が障害者を排除したのであって排除しない地域が作られれば結果として入所施設は自然消滅するという事です。そこで一番大事な地域生活とは何かを明らかにしなければなりません。厚労省も、今日の入所施設は、重度化・高齢化が進んでいると認め、強度行動障害や医療的ケアの人が住んでいるとも認めています。では、こうした人が安心して暮らせる地域があるのかという事です。厚労省は「地域生活の場は、少人数で支援を受けながら暮らすグループホームなどを想定している」としていますが、その規模のグループホームで強度行動障害の方を支援できますかと言う問いです。重度化・高齢化・そして強度行動障害があって、在宅で暮らせなくなった人が入所施設に入っていると認識しながら、家庭に近い機能のグループホームで障害の重い人が暮らせる条件がどこにあるのかを明示しなければなりません。そんなゆとりがどこにあるのかを。そして今度の政策では、地域で暮らしたいですかと聞かない施設は罰するという愚策を行おうとしているのです。「障害者施設に入所する人が、身近な地域での生活を希望するかどうかの把握を施設に義務付け、実施しなかった施設の公費などによる報酬を減らす」なんて脅しまでかけて、入所施設から追い出そうとする愚策を掲げています。報酬を減らすという事は、現に入所施設を利用している人に不利益がもたらされるだけで法人が困る事ではありません。入所施設は、欧米にもあります。脱施設を目指し、入所施設から出したいのなら現在の施設入所者の利用能力査定をして選別すればいいのです。しかし厚労省は自らの手を汚さない、あたかも、施設が自発的な努力でグループホームへ移行させたという方法をとっています。そこには、施設が利用者を囲い込み退所させないという発想で見ていますが、抵抗しているのは施設ではなく、親だという事が分かっていません。親が数少ない選択肢の中で待ってでも利用せざるを得なかったのが入所施設だっただけです。重い障害者を受け入れる環境や体制が乏しい実態があるからにすぎません。国連は障害者権利条約に基づき、日本政府に対し「親元やGHでの生活のように、障害者本人がどこで誰と生活したいかを選択する権利がきちんと保障されていない」との所見を出しましたがその中核は、障害者が生活の選択や管理が出来ていないというもので、入所施設を無くせではありません。今も12万人以上の障害者が施設に入所し、国際潮流の「脱施設・地域移行」が進まないと言うのは希望しても入所施設以上のものがないからです。GH利用者の4割以上が将来の1人暮らしを希望する一方、アパートなどでの自立に向けた支援には7割のGHが取り組んでいないのもグループホームが入所施設化しているからなのです。入所がダメなら、グループホームで親亡き後を期待しているから、アパート生活を計画しないのです。本来グループホームは、通過地点にすぎませんでした。しかし、今日ではなし崩し的に重度も入れろと言っていますから、グループホーム生活で、自己決定が広がるとか、開放的になるなどの目的が失われかかっています。日本のグループホームには、普通の家に近づけ、その人らしい暮らしを送る場にする条件も環境も整ってはいないのです。