知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

大きい方が素敵に見える感性で習慣がついているの話

 花は、一つ一つを見るなら一輪でも驚くほどきれいです。そんな花でも、1本咲いているより100本咲いている方が誰もが感動します。雑草ばかりであっても、草原となれば雄大と感じます。ススキだって河原に一面咲いていれば評価されます。つまり、きれいな花でも、そこらの雑草でも、同じものが一面に、くまなく何処もかしこも、所嫌わずどこまでも隈なくあっちこっち遍く端から端までなら、人は感動する習慣がついています。それは、小さいものより大きいもの、少数より多数の方を評価する様に感性が育成されているからです。無いより有った方がいい多い方が、大きい方がいいと言う感じ方を繰り返し習熟する様に生活しているから言えます。ですから、人間関係でも自分は多数の側にいると錯覚していますし、多数の側に居たいとも望んでいます。それを人間の社会的行動であると説明したり、集団行動を人間の特性と説明したりもする偉い先生もいますが、それは作られ習慣化されたものであって、人間の行動の本質とは言えません。集団の中が安心するかの如く説明もされますが、実際は家族単位ぐらいしか安心感なんて持てません。それに、集団が個を大切にするなどという事はありません。近代以前の世界の常識は、集団は個人に優先するもので、集団の一部としての個が存在すると言うものですから、身体で言えば細胞の一つが自己主張したとすれば、病気に他ならないと判断されました。細胞としての個人は存在しても、身体としての集団の一部であるから集団の中での役割も所属も決まっており、指や腸や皮膚が独自の行動など出来ないと言うのが常識です。ですから、集団が大きい事は良い事とされても、個が大切にされると言うような感覚など全くありません。むしろ、数が大きくなるほど個は抑圧されてきたのが人間の歴史です。人間は集団に安定を求めているように訓練されているだけで、本質は違うのです。日常的に、繰り返し、小さい集団より大きい集団が良いと訓練され、固定されているにすぎないのです。その結果として、生活のすべてを比較して何事も判断する様になっただけなのです。人間は孤独も小さい事も平気ですし、本来比較ばかりするような本質など持っていないのです。本質にない事をやるから、差別や選別や区別が苦しめる手段になってしまうのです。その感性は、社会に大地の如く定着していて、労働者が少ないとどんなに優秀な企業でも零細企業と言いますし、過疎の村というのは、どんなにすごい事をやっていても衰退して行くと言うマイナスのイメージ表現とするのです。品物でも、1点ものと高額に評価されるものは、多数あるとの反転としての希少価値で、少ない事が評価されているのではなく、希望者は多いが品が少ないという事にすぎません。つまり、希望者が少なければ、1点ものとしての価値もないのです。大は小を兼ねると言うことわざがあるように価値としても大きい方が優で小さい事は劣である事が繰り返されてきました。お金も能力も、風景も自然も大きい方が良いとされる感性が、生まれたときから醸成され続け、大きさや多さでしか判断できない様に脳が固定されているのです。こんな脳の固定を柔軟に出来る人は、歴史の中でも極少数です。人間の理解力は、簡単に時代を超えられませんし、自分の先入観を超えることも非常に大変です。特に先入観は、人間の言動を固定させる大きな力となります。繰り返され順応された先入観は、対人関係において非常に悪い影響を及ぼすことが良くあります。中でも、視覚的先入観はその人の言動を固定させます。ですから、大を評価する感覚の中では、右肩上がりのグラフしか評価されません。しかし、仮に、小さいほうがいいという時代が来て、今の人間が、せめて2分の1スケールになれたのなら、今の地球を苦しめている様々な問題を解決する事も出来るのです。大きさは安心ではありません。集団は安心ではありません。孤独も個性も人間には重要な要素で、大きい方が素敵に見える感性から、抜け出すことが出来れば、見えてくる視界は大きく違ってくるはずです。人間の、大きい方が素敵に見える感性は、地球にとってはガンみたいなものだとも言るのです。