知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ゴミ拾いが偉いのか、捨てる奴がズルいのかの話

  フットボールのこぼれ話として、日本のサポーターがスタンドのゴミ拾いをして帰ることの賛否が載っています。同じ様に、海岸のゴミ拾いがいい話として報道されることもあるように、ボランティア活動の一つの定番でゴミ拾いというのもあります。公園清掃という事もあります。昔は地域の活動として公共とされている道路の清掃活動というものもありました。しかし、日本では、少し前まで、一斗缶やドラム缶、ブロックを含めた焼却設備を場所さえあれば設置していました。家に庭があればその場で、学校にはドラム缶並みの立派な焼却炉があって生徒が当番で燃えるものなら何でも燃やしていました。それが、大気汚染だと言われ、ダイオキシンが発生すると言われて各自で燃やすことが一斉に禁止されました。ついでに野焼きも禁止されて雑草を刈った刈草も、集めた枯葉も、剪定した枝葉も、燃やす代わりに行政が集めて高品質な焼却炉で燃やすことが法律となりました。ですから、過去には、草肥となった除草の雑草も、木の枝や枯葉を燃やした木灰も野焼きが禁止されましたから作ることは出来ません。除草の草も、剪定の枝も、木々の枯葉も、行政のゴミ収集車に乗せてもらわなければなりません。ゴミ収集にはルールがあって、提出する場所の指定と廃棄物を入れるビニール袋を購入しなければなりません。つまり、勝手に燃せなくなった時から、ごみ処理は自己責任の時代に入り、自分で出したゴミは自費で処分しなければならなくなったのです。その結果として、ごみを少なくしようとする人だけでなく、ゴミを無断で放棄する人も現れたのです。最近の駅にはゴミ箱がありません。有ったとしても、赤い字で「家庭ごみ投下禁止」とか廃棄口を出来るだけ小さくしています。コンビニのゴミ箱には、家庭のゴミを入れさせまいと、過去には、外に並べられていたのに、外に置かず店員の見える位置に置くことが増えています。自販機などでは、回収箱を自販機の裏に隠したり、入れにくくする工夫が頻繁に行われています。つまり、少しでも捨てられそうな場所があるならルールなど簡単に無視する行為が、不法投棄と言う認識なくお金を掛けたくないだけでまかり通る時代となつたのです。特にひどくなったのは山林の道路沿いで拾いようがない程に繰り返し廃棄されて、山水の汚染をしています。当然刑事罰もあるのですが摘発はごく一部に限られています。不法投棄が行われているのは、ごみ処理にお金が掛かるからです。ですから、ごみ拾いをするのは簡単ですが、集めたごみをどうするかは別問題が今はあるのです。しかし、美談の話になれば、自治体もむげな対応は出来ませんから、無償奉仕による美化活動という事を広報されたなら無償の受け入れを行う場合もあります。でも考えてみればそのごみはどこから来たかが問題です。そのごみは不法投棄されたものです。その原因は、人間がいつでも自由に捨てることが出来た生活から、物品を得る事と同じ様に廃棄するにもお金が掛かる社会システムになったからです。典型的なのは上下水道です。過去は、きれいな水道は購入しますが、汚い下水はドブにただ流されていました。そのドブと河川の汚染から排水にも下水道代がかかる時代へと移行しました。つまり、取得も廃棄も同じこととなったという事です。違うのは取得の物には複雑な商品過程がありますが、廃棄のプロセスには行政が関わっているだけで簡便な関りしかありません。廃棄に関してもそのプロセスに利益が出るシステムに代えていかなければ、不法投棄と言う「ズルい」人たちの行為が美談のネタにしかならない事が増えてしまいます。廃棄すべきものをリサイクルするという不要なものに価値を見つけようという考え方は捨てるべきと思うのです。廃棄物そのものが価値あるものに、廃棄物そのものが商品として流通するものにしなければ不法投棄と言うズルを無くすことは出来ないと思うのです。例えば江戸時代の糞便は売買されていました。ですから、廃棄物である限り収集は市町村が行う事と義務づけられている事が問題で、自治体から切り離し、民間企業が買い取る方式へと変えていくべきだと思うのです。ゴミではなく、お金が絡む利益の物品にすることで、不法投棄を無くすズル人対策をすべきと思うのです。

この若者こそ1人前なんですの話。

 

     7月の午後


1時過ぎの列車の中にこんな風景がありました。靴を座席に乗せていますから「アウト」であることは誰でもが思う事です。早朝・深夜ならば飲酒での事情を考えることも出来ます。しかし、午後一番の明るい真っ盛りですから同情すべき事は何一つありません。しかし、この若者も起こせば大人としての会話も可能でしょうし自立した意見も明確にあると思うのです。事実としては、名も知らぬこの若者が一方的に作法違反そのものと言えますが、声掛けて起こせば素直に坐りなおすだろうという事も推測できます。つまり、悪い子ではないのです。覚醒すれば自己弁護も自己主張も出来ると思うのです。この行為についても証拠写真を突きつければ謝罪も反省の言葉も得られると思うのです。でも、悪い子ではないこの子は、いい子でもなく、こんな「無様(ぶざま)」で「無礼」な行為を繰り返し行う人でもあると思うのです。推理の範疇ですが、外見の服装は若者らしく、仲間内ではそれなりに格好つけた振舞いが出来ると思えます。通常この様な7人掛け車席で誰も坐っていなければ、知らない誰かが座り嫌な思いが半減する端座席を選びがちですが、どう見ても真中に座ったようなので、他人との距離感を気にしないタイプと見えます。自己中心的とまでは言えなくても、周囲への気配りをしないタイプであるとも言えます。自由な行動をする傾向があり自己主張もしますが社会性と言う面では逸脱する事への自制心は劣ると思われます。逆の考え方としては、人と接触する機会が増えても適切に対応できる自信もあり脳の刺激を適切に処理できるタイプかもしれません。ただこの寝方からするなら、自分のスペースを広く取りたい(自己中心的)タイプと思われます。そして坐ったまま眠り横に倒れていっただけのように思うのです。そして、こんな風に周りの状況がどうあろうとも自分の作法と言うものを誰が見ていようと貫きたいと思う人よりも、何も考えずに流されるままにその状況の中で自分のスペースさえ確保できるならその中で生活しようとするタイプが今や多数派になってきたと感じるのです。この若者が特別ではなく、今の日本の国力はこうした「無様(ぶざま)」で「無礼」な一人一人が集まってできているという事だと思うのです。その原因は、徳を説き、作法を指示し、偉そうに成果をアピールしながら「何かあった時は責任回避しかしない老害の上級国民」が増えてきたからと思うのです。先導する上級老人の無責任が蔓延しすぎているこの時代、下々としては、模範となる人物がいないのですから自分を守るためには「流される」事が処世となっても仕方がない事とも言えます。逆に言えば、この若者こそが日本を代表する1人前の国力の一人だという事だと思うのです。戦争反対と言いながら、戦備を拡大するし、説明責任と言いながら都合の悪い事は論戦もしない。少数者の意見を聞くのが民主主義と言いながら多数決が最優先する多数者の幸福追求の現実にさらされたなら、流れに沿えることが一番の常識となってしまいます。社会の情勢が次の世代を育成すると言うように大人の無責任が次の世代を育てているという事だと思うのです。

 

 

タヌキとキツネの子育てから考える事

 タヌキは、雑食で離乳したなら子ダヌキも直ぐに親と一緒に餌を探し自ら食すると言います。キツネは、ネズミなどが主食ですから、子ギツネが一人で狩りが出来るようになるまで餌を親が巣穴でもっていかなければなりません。ですから、子ダヌキは、乳離れしても親と行動を常に一緒にしていますが、食に関しては自立してしまいます。一方、子ギツネは、親がいない間、カラスや他の動物の餌にならない様に自己防衛に関しては自立していますが、餌のネズミ捕りは出来ませんから食に関しては依存しています。親離れが自立という事なら、子ダヌキは、食に関して自立しても家族で過ごすので防衛に関しても家族で対応しますから自立しているとは言えません。つまり一人暮らしが自立とするならタヌキは自立しません。一方子キツネは、食の自立は別離であり親離れとなります。一人で狩りが出来る技術をマスターしたなら親の縄張りから追い出されます。つまり、キツネの自立とは自分の縄張りを持つことになりますから、自己防衛を含めて戦う事が生活の基本です。同様に、狩猟民族は家族を残して狩りに出かけますから、残されたものは自己防衛としての手段と闘う防衛力の自立が必要です。一方遊牧民や農耕民は家族は一緒にいますから、家族の中で自分の役割が出来る様になることが自立となります。つまり、人間の側に生息する同じイヌ科の動物の暮らしを見ても「自立」の意味が大いに違います。自分自身を他からの攻撃から守る事が自立になる民族と集団の中で役割が出来る事が自立となる民族では、自立観は全く違っているという事です。キツネ型の西欧キリスト教の価値観で日本人の自立度を測ると低くなるのは当然です。日本人は、タヌキ型の役割を担えることが自立になります。人権という意識も同様で、権利を勝ち取ってきたという西洋の意識と権利をみんなのものと言う日本では権利の行使という事に大きな違いがでます。そしてこの様な違いのある価値観を押し付けても、社会制度として出来上がると真意とは違ったものが出来るという事を知るべきだと思うのです。現実に日本の明治維新も、戦後も西洋を真似ながら全く違った独自の発展をしています。価値観と言うものは、成育歴の中で個別個人的に育成されますが、環境的影響は大きいにもかかわらず、何が影響したかを確定することが出来ないものです。例えば、宗教、親が熱心でも子供は必ずしも同調せず反発する事もあります。生活習慣でも同じ環境に思えても兄弟では価値観に違いが出る事もあります。それだけに意識的に教育として教えても価値観は多様に育ちます。成人になってからの変革は本人のみが持つ感覚によります。それほど得体のしれない価値観を一つの国に押し付けたとしても背景となる宗教や伝統や生活の違いからは押し付けた者の考え通りには決してならないと思うのです。日本の福祉は長く、北欧に憧れ、西洋に憧れてきましたが日本独自の制度となっています。しかも、基本はタヌキ型と言えます。それをキツネ型の国連が評価する事にそもそも間違いがあると思うのです。

 

 

一人暮らしを勧めるキリスト教の価値観の押しつけに立ち向かおうの話

 これは定かではありませんが、キリスト教の教えでは、神の前では大人も子供も同等の子であるとされていますから、子供も早く自立させることを重視し、添い寝などをせず赤ん坊の頃から親離れしやすい環境を作るために、別々の部屋で寝ることが奨励されていると言われています。しかし、親子が別々の部屋で寝ることが子供の独立心を育むかどうかについて、科学的な研究では相関関係は見つかってはいないとも言われています。自立心と言うのは、西洋文化が個人主義を重視している大事な事で、「自立は、権威を否定して個人の権利や自由を尊重する原点」ともなると言われます。個人が至高の価値を有するというキリスト教の伝統が、西洋の道徳原理の起源となって個人主義の形成となっているととも言われます。その反対の、集団主義的とは、個人よりも集団や社会全体の利益や調和を優先する考え方や傾向を指し、個人の意見や利益よりも、集団の目標や利害を優先することが特徴とされています。この様な仕訳をした場合、日本は集団主義的とされていますから自立という事の考え方が西洋とは違い、政策も違って当然の事です。つまり、添い寝をするかしないかは、その後の親離れをどのようにしていくかの問題だと思うのですが、社会全体の価値観の違いですから、西洋の方法に日本が合わせなければならないという理由は見つける事は出来ません。親が側にいるほど親に依存して親離れが出来なくなると考えるか、本人が自然に親離れするまでは自由にさせるかはそれこそ自由で、強制されるものではないと思うのです。日本では狭い家なので、基本的に幼少期には親子が一緒に寝ることが普通な生活スタイルとなっています。しかし、西洋圏からすると、このような子育てスタイルでは子供の独立心が育たないと本気で考えられているという事ですが、子供の独立心が損なわれたという証明はされていませんから単なる子育ての方法論の違いの範囲です。逆に、幼少期に親子がずっと一緒に過ごしている子供の方が、協調性が高い事の方が証明されているといいますから、社会がどんな構成員を望むかの問題と言えます。子育ての文化は地域によって異なるものであり、それぞれのスタイルには長い歴史があるのですから、それを一方的に押し付けるのは違うと思うのです。2022年09月国連障害者権利委員会は、日本の知的障害者の施柵に関して、「脱施設化」を要請しました。そこでは「障害者の施設から他の者との平等を基礎とした地域社会での自立した生活への効果的な移行を目的として、障害者団体と協議しつつ、期限のある基準、人的・技術的資源及び財源を伴う法的枠組み及び国家戦略に着手すること」とされています。そして、今の日本のグループホーム方式さえ否定して、アパート一人暮らしを推奨するのです。兎に角親から離し一人で生活する事が自立の優先事項としているのです。西洋では、自立を促す教育をするため早く家を出て一人で生活する子供が多いとされていますから、西洋の考え方では、「添い寝」は虐待になりかねませんが日本の考え方では、「一人寝」は放置という事になりかねません。つまり、親子の距離感は、文化の違いが大きく、神の子として血筋に拘りが少ない西洋的価値と、血筋に拘る日本的価値では社会の作りが違うという事です。にも拘らず、国連と言う舞台は基本キリスト教の価値で成り立つていますから、その価値観による障害者施策を評価・批判する事になるのです。では、育児の違いが、その後の発達において「親離れ」に大きな違いはあるかと言うと、その社会のでは問題の無い事です。つまり、自立心や自立はその社会で生活する上でその社会に適応していればいい事で、違う社会から矯正されるものではないという事です。日本と言う国は、西洋風に憧れていて、明治維新には葬儀の礼服が白だったのに西洋に合わせて黒にしてしまいましたし、血筋として重要だった夫婦別姓を180度転換するなど価値観を一転させる事の出来る民族です。それは、戦後の民主主義も同じです。つまり日本人の価値観なんて外圧さえかければひっくり返ると思われています。同様の事が、障害者の福祉事業においても、西洋キリスト教自立観の押しつけが国連の名のもと行われています。その根幹が、親離れ観で、親と同居している限り自立していないという考え方です。日本人は、環境として一人暮らしをしなくても自立心も自立も獲得しています。当然今の社会福祉事業であっても自立心を失う事をしていません。国連と言う紋章を使ってキリスト教の価値観を押し付けるやり方には立ち向かわなければならないと思うのです。

 

こざかしい原子力関係者の知恵は未来に笑われるの話

   フランス沿岸から約1000km離れた北東大西洋海域の水深約4700mに、フランスを含む欧州各国が1950年代から1980年代にかけて海中投棄した、20万本を超える放射性廃棄物入りのドラム缶が最近の調査で、腐食し、漏出し始めているけれど、どんな被害が出るかは考えられないという記事がありました。当時の科学者が、「深海に沈めてしまえば拡散して薄まる」から大丈夫と云うからと国際的なルール、合法だとしてしまった海中廃棄です。科学者たちが勧めた、海洋投棄の結果がたった50年も経たずに間違いだったことが実証された記事だと思うのです。これが科学の限界なんです。歴史を見れば明確ですが、今今の最先端の科学が、10年後、50年後にも鮮やかに先端である事の方が困難で、反転されたり否定されることは普通にあるという事は科学者の方が既に分かっていた事です。にも拘らず、どんな自信で当時の最先端の科学者だと自認していたのか分からない人々が深海に廃棄すればいいなどと言ったのか、本当に「こざかしい」と言う言葉がぴったりです。つまり、10年後、50年後の科学に匹敵する現代科学なんてないという事を知っているのに嘘をつくべきではないのです。と言うのは、この教訓すら知ろうとしない原子力関係者が、自分たちの科学の限界によって処理できない「原子力の放射性ゴミ」を今度は、地下深くに埋めればいいと言い出しているのです。ゴミの処理も出来ない程度の科学ならもつと謙虚でいればいいのに、自分たちが最先端だなどと思い込んでいる、こざかしい原子力関係者は、、放射性廃棄物の新しい不法投棄先として、地下500mを推奨しているのです。地下500mまで縦抗を掘って、横穴トンネルの先に保管室を作り、そこに容器に詰めた「核のごみ」を入れて放置しようという方法の実験を始めているのです。方法として、人が近くに立つとわずか20秒で死亡するという放射能レベルの高い廃液をガラス原料に溶かし合わせて厚さ19㎝のステンレス金属容器の中に固め、保障の無い「何重にものバリア」をして、人体に影響がなくなるまでの最長10万年にわたり放置しておくという計画です。その為にまず、放射性物質を閉じ込めておく容器が長い期間でどれくらい傷みが進むかなどを調べる実験を開始したというのです。現代の科学から、100年後さえ分からないのに10万年後までタイムカプセルとしてごみを埋めとこうというのです。考えてみれば、ヒマラヤ山脈だって海底にあつたという事があるのは分かっていても、地殻変動や活断層で地下がどう動くのを現代の地震科学では分からない程度なのです。今の科学では、地震の予測も出来ないし断層の動きを止める事も出来ない程度の科学力なのです。海底深くなら大丈夫だと言い切った科学の無知が、放射性物質が海底で、大きな災害を引き起こすかもしれないという教訓を学ぶことなく、海がダメなら地下があるさと、原発で出た使用済み核燃料からの、高レベル放射性廃棄物である「核のごみ」を長期にわたる地下での保存を計画しているのです。自然界の貝を捨てた貝塚とは違い、便利だとしたプラスチックでさえ捨てられてみると、マイクロプラスチックになつて危険とされている様に想定できない不幸を科学が利便性の反対にもたらしている事への慎重な判断は求められていると思うのです。今は危険だけど将来の科学でならなんとかしてくれるだろうと危険な厄介者を未来の科学の進歩に委ねようとする安易な対処法は科学的ではないと思うのです。こんな酷いやり方でも、判断した科学者は、死んでしまえば未来から賠償請求されても大丈夫ですが、海底投棄の様に、早々に不備が出てきて、50年も経たないうちに、子孫が被害者になる事になった時、「ごめんなさい」では済まない事を知るべきだと思うのです。原子力発電も必要だろうが、原子力関係者はもっと未来に対して責任を持つ対応をすべきだと思うのです。

 

指示待ち職員なら上等の話

 コンサルタントの売れる本には、指示待ち職員が増えていると警告を鳴らして、指示待ち職員を作らない職場の解説をします。そして、ボトムアップでモチベーションをあげて、やる気を育成しなければ、「言われた通りにやれば良い」「指示を待っていれば良い」という受動的なスタンスが定着してしまうとも言います。なるほどと思いがちですが、それはおかしな指摘です。何故なら、言われた通りに出来るのなら、指示通りに出来るのなら、現代はそれで十分なのです。現代の労働状況では、「言われてもやらない」「指示しても従わない」「勝手な事をやる」と常識や規範の解釈がそもそも違うという職員が増えているという事に目が向いていません。優秀な人材や選抜で選び抜かれた人材しか採用しない会社なら職員の自主性を語ってもいいのですが、経験も価値観も能力も違う職員しか採用できない職場では、今や指示待ち職員は上等と歓迎される対象だと思うのです。逆にモチベーションの高い職場で、次々に提案があったとしたならそれを検討し体制に移行し、継続している事は逆に疲労していくという事です。人間の行為には限度と言うものがあって、過去のモーレツ社員の様に24時間戦えますかでは、ロクな提案など出来るわけがありません。日本企業では戦後、年功序列や終身雇用の制度と共に組織全体を統制しやすいピラミッド型組織を長く維持して長時間労働による方法で経済成長を支えてきました。その為、業績が悪化すると組織の在り方を見直すという事は行っても労働者の労働の在り方への取り組みは遅れました。にも拘らず、いまさら、労働者のやる気、モチベーションが上がればと労働者に依存する体制で再び乗り越えようとしています。しかし、ワンマンでもいいから会社を発展させて給料を上げてくれた方がいいというのが普通のサラリーマンの意見です。何故なら、年功序列や終身雇用が無くなった会社に、辞めるかもしれない会社にすでに人生を掛けるつもりはないからです。組織の中では、評価されることを継続できたとしても疲弊して自分が疲れ切った時に今どきの組織が面倒見てくれることなどないという事を知っている職員にすれば搾り取られるだけと言う事しか思っていません。コンサルタントの言う職員の主体性が高く、モチベーションの高い社員で、次世代のリーダー育成が出来るなどと言う経営者に都合のいい会社など出来るわけがありません。むしろ、そのような会社で怖いのは、ピーターの法則と呼ばれる困った上司の方が増えてしまう事です。ローレンス・ピーターさんが言ったのは「人は能力の限界に達するまで昇進し続ける」というもので、会社人間は、仕事ができる人ほど昇進し、やがて“自分がうまくできないポジション”にたどり着き、無能な上司になる」というものです。事例で言うと、営業でトップ成績を出していた人が昇進を続け営業ではない管理職のポジションに着くと人を動かすことが出来ずに無能と非難されてしまうという事です。それは、営業として「売ること」には優秀であっても管理職として「人を動かすこと」は優秀ではなかったからです。つまり、有能さは「職務によって変わる」のですから、昇進すればするほど、求められる能力は変わります。現場では「技術力」管理職では「マネジメント力」経営層では「戦略思考力」となりますからこの切り替えができない人は、ピーターの法則によって不得意なところで“無能化”していくというのです。つまり、自主的でモチベーションが高い人は独立してしまう傾向がありますから組織は、常に人材不足状況にあります。少しでも出来ると思われる職員がいたなら、「昇進」という方法で人材確保を組織はしますから、ピーターの法則によって残念な結果になる人もいるという事です。ボトムアップが出来るモチベーションの高い、やる気のある職員が沢山いて昇進し上司になった暁には、ダメ上司がぞろぞろいて優秀な人材程逃げていくという事です。ですから、「言われた通りにやれば良い」「指示を待っていれば良い」職員の方がはるかに必要な人材となるのです。現代の日本の労働者にとっては、一生を託す組織のリーダーにであえる可能性など「夢のまた夢」です。優れたリーダーがいない現代の日本では、職員は自由に自分の職場を評価し、「巡り出会った」その職場で「価値ある経験」が得られるなら会社の望む人材育成の対象者になどなりたいとは思わないのです。会社の組織が、ワンマンであろうが民主的であろうが、給与と自分の人生のバランスで働きを決めていくのです。今や、会社が職員を選ぶのではなく、職員が会社を選ぶ時代に、会社都合の人材育成など無駄以外の何物でもありません。

差別表現さえも金になるという話

 例えば指を立てる行為が攻撃的なサインだとしても、相手が知らなければ威嚇行為にはなりえません。サインは、共通の理解が必要です。何のことか意味を知らなければサインとしての機能はありません。サインは共有する集団にとっての認識ですが、他の集団に向けられるものでもありません。ところが、近年は、小さな集団のサインでもネット等の拡散によって広く認識させることが可能です。ですから、周知されていないサインを、差別サインだと知らなかった事自体が差別意識が希薄だと言われてしまう事は、言葉狩りの手法並みで適切だとは思われません。今日の膨大な情報の中で差別サインを選別し認識するのは困難です。さらに、差別に関するサインも次々に生み出される今日のグローバル社会の中で、知らない事が自らの偏見や他者の人権への無関心の表れと受け止められるのも過大な被害者意識の対応としか思えません。「目をつり上げる」のは東洋人への差別表現となると知らされたのもミス・フィンランドのネット問題からですが、これは中国人差別のサインで何時から東洋人になったんだとしか言えないものです。中国人差別の発端は19世紀末から20世紀初頭のアメリカの「中国人排斥法」にみられる反中感情によるものと言われています。当時アメリカは労働力が不足し中国人労働者が必要だったので流入を勧めながら、一方で脅威としての「黄禍論」も起きました。そんな時にハリウッド映画「フー・マンチュー」の悪役キャラクターとして「つり目」の中国人を誇張して登場させたことで「細くつり上がった目」が差別サインとして広がったと言われています。ですから、アメリカ人と中国人の事として、日本人は「つり目」が自分も含めた差別サインだなんて知る人ぞ知るクイズ並みの事なのです。そんな程度なのに、ミス・フィンランドのネツトに同国の国会議員3人がつり目をSNSに投降した事から「東洋人差別」と拡大解釈され、フィンランド首相が謝罪するという過程で東洋人差別サインとして広められてしまいました。途端に知ったかぶりの知識人がテレビに出てきて得意げに解説した挙句に、差別は悪意だけから生まれるのではなく、無知や無関心もまた差別を支える重要な要因などと言います。差別されている事を知らなかった日本人にもっと差別について勉強した方がいいというのですがそれは流石に違うと思うのです。例えばOKサイン。親指と人差し指で丸を作るこのサインを手を下げて行うとWP(ホワイトパワー)と言う白人至上主義者たちの間で取り交わされる合図ではないかと言われることが有ります。仏教ではこの仕草は「ヴィターカ・ムドラ」と呼ばれ法輪(達磨の輪)を表します。瞑想や精神修養に使われます。米国では親指を立てる・下げるは、承認や不承認の合図として一般的ですが、イスラム圏やアジアでは、侮辱や無礼として一般的です。例外的なのは、中指を立てるは侮辱として世界的に認識されているぐらいです。こんなことを誰もが知っている必要などありません。手のポーズなど限界がありますからどのような意味かはその集団が知っていればいい事でそれをあえて取り上げる事の方がグループサインの広報拡大につながる事だと思うのです。それは、顔も同様です。連続動作ではないサイン表現で相手に侮辱を与えると解釈し対応すること自体を、受け取る側が無視すべき事だと思うのです。ネツトへの掲載は、自己満足の為に自己顕示欲で行っているのでしょうから、つり目で何をしようと、ほっておくほうが適切だと思うのです。兎に角、炎上するほどアクセス数があれば金になるという時代ですから、どんなあくどい手段を使ってでも結果としてお金になればいいとしか思っていない人には善悪などどうでもいい事だと思うのです。フィンランドの事がネツトで大騒ぎになった後に、インターネットで、稼いでいるという日本人が、朝鮮人を侮蔑する動作として「つり目」をしたことで批判を受け謝罪と削除をしたという事がありました。つまり、つり目のサインは自分にも向けられたものではないと他人を差別するサインとして使ったら、その無知と差別感に攻撃を受けましたが、目的のアクセス数は確実に増えたという事です。良くても悪くてもアクセス数が全てのネツトの中では、差別表現さえも金になるという事です。差別や侮蔑を、安易にアクセス数を増やす手段に使用したい人がいるのですから、正義感で非難するより無視する方がいいと思うのです。