知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

イナゴは食えてもコオロギは食えないの話  

 日本では、稲作の害虫であるイナゴが大発生しないように、子供たちが捕獲して佃煮にして食べるとか、柴刈り等の入会地での脅威となるスズメバチの駆除もかねて、蜂の子が食されていました。今日では、米などの穀物では摂りきれない栄養分を確保していたと昆虫食を説明することもありますが、当時は栄養なんて概念はありませんでしたから、そんなたいそうな事ではなく食べられるものは何でも食べただけだと思うのです。そして、その中で、気に入ったものが残っただけと思うのです。何故なら、簡単に取れる、コオロギ、トンボやカブトムシ、セミなど、飢饉の時には確実に試食していたのに、郷土食としても残っていないからです。栄養補給と考えていたのなら、カエルやトカゲなど食べるものは他にもありましたが常食に加えなかったことからも、栄養補給なんてことではなく空腹で食べていただけだと思うのです。栄養学が後付けで評価するほどの思えないのは、昆虫食が一般化していない事やウサギ、イノシシ、シカ、鳥など結構肉食をしていたことは判明しています。ただし、常食ではなく体力回復の滋養強壮としてだったとも言われています。つまり、人間は栄養の事を考えて行動しているのではなく、食べられるものは何でも食べてその上で常食の選別をしていると思うのです。先日の報道で「食用コオロギ会社倒産」と言う記事がありました。この会社は、「クリケットファーム」と言って、2021年に設立し、環境に配慮した次世代フード『コオロギパウダー』を配合した食品などを販売するとして、諏訪信用金庫および日本政策金融公庫より4100万円の協調融資を受けたベンチャー企業です。しかし、販売は伸びず倒産しました。今日ではSDGsなどと散々言われていますから、牛や豚によるたんぱく質確保より、昆虫食は食糧危機を救う貴重な食材であるにも関わらず、国民は関心を持たず営利事業として成り立たなかったという事です。昆虫食そのものは、13年に国連食糧農業機関(FAO)が食料問題の解決策に有効と報告書を発表し、15年の国連サミットで推奨され大いに取り上げられ広報されました。無印良品の「コオロギせんべい」が話題となりました。しかし、食糧危機に備えてという発想もありますが、だいたい危機に備えて食生活を変えるなんて人はいません。危機がやってきてこれしかないという段階まで人は簡単に今の食生活を変えません。例えば、肥満している人も、例えば糖尿病の人も、例えば肉好きな人も、何かのきっかけがなければ簡単に食生活を変えません。それほど食生活と言うものは個性と感性にあふれているものです。栄養学がどんなに力説しても、医師が警告したところで「わかつちゃいるけどやめられない」が食生活です。それだけに、SDGsごときで変わる人はもっと少ないと言えます。ただ、世界的には、昆虫食の市場が拡大しているようですから食料自給率の低い日本では否応なく食べなければならないときがやってくるかもしれません。では、なぜ、イナゴは食えてもコオロギは食えないのかという事です。和食の基本の色に「五味五色」があって「黒」「白」「赤」「黄」「青(緑)」の食材を指すのですが、黒の代表としては海苔、そして黒豆、黒米、黒ゴマ、ひじき、茄子と言ったところ、緑は、葉物を汲めて沢山あります。ではコオロギはと言うとこげ茶と言うより黒光り、一方イナゴは緑で、蜂の子は白ですから、極端な違いはありません。ただ、食えると言っても地域限定感は否めませんから、昆虫全体はどうかと考えてみると、はっきりしてきます。ゴキブリは、大嫌いどころか触るのさえおぞましいという感覚が日本には蔓延しています。そんな感覚の人がコオロギを見るなら、確実に、色とあの光具合からゴキブリの親せきとしか見えません。ゴキブリに対する、嫌悪感は、「汚い」に統一され、それが全体として昆虫は不衛生で触るものではないという事が浸透しています。当然ハエやカ、アリ・クモと言った身近にいる昆虫は、害虫しかいません。せいぜい、カブトムシを見るぐらいなら許容範囲としか言えません。汚いゴキブリと大人になるまでにしっかりと植え付けられた日本人にとって、昆虫は、総体として不衛生で汚いものと認識されています。その昆虫、ましてゴキブリと同様なコオロギを食べるというのは危機が来てこれしかないという時まで、食べたくない食材だと思うのです。

 

人権はお金で買うものだの話

  福祉施設で永く働いている人は、逃げ遅れた人です。福祉は、ほっとけないから始まって、逃げ遅れた人が逃げることも出来ずに続けている奇特な流れがある一方で、貧困ビジネスまがいの利益追求の人の不幸で飯を食らう人がいます。私が勤めた頃の福祉の現場は、1年以内に辞めていくと言うのが常識で長く残っている人は変人の世界でした。過去の福祉の現場では、それほど劣悪な職場でした。それは、福祉が、人の生活に必要な制度として認められていたのではなく、社会の安全装置の一つとして、「脅しとしての福祉」でしかなかったからです。社会として、障害者に対する不安感や不信感が貧困などと共に複合的に重なって、社会の騒動に至らないようにする最低限の安全装置の時代だったからです。それは、社会の安全に対しての「脅しの福祉」ですから、人権や権利としての福祉ではありません。そして福祉の業界も税金を投入させるために、「脅しの福祉」を自らも行っていました。保険に入る動機は、自分が事故や病気に遭遇する可能性があるという事を想定した時の備えとしてですが、人は誰でも年老いやがて自立度が失われボケて社会に迷惑を掛けるかもしれない。核家族の社会で親世代が老いたとき介護が必要になっても妻のパート代が生活費に組み込まれている家族は介護は出来ない。働き手に迷惑をかけないようにするには介護施設が必要だし、一人ひとりばらばらにするよりまとめてやった方が効率がいい。働く世代に迷惑をかけない効率よい介護にはまとめた方が良いと大規模な施設を含めて老人介護の制度は核家族の働き手を守る保険として成長してきました。同様に障害施設も、障害者も指導訓練すれば社会に迷惑をかけない人になると「社会復帰」を目指した施設を作り続けました。そんな老人施設や障害者施設での介護・支援が批判されるようになったのは、北欧の福祉を「脅しの福祉」に利用した、人権福祉が大いに活躍したからです。貧困が人権を侵害するように、人権の確保には、実際はお金が必要であるのに、金持ち先進国の模倣をして福祉の転換を図りましたが、人権を買うだけの国力もなく資金の限界はすぐにやってきました。人権はお金で買うしかないにも関わらず、人権を脅しにした福祉は費用だけが拡大して、税金としての福祉は、すぐに限界はやってきて、膨らんだ人権、金で買えなかった人権は、現場に押し付けられて、現場が疲弊することになったのです。今日の、虐待をはじめとした問題の根源もそこにあります。老人施設は、死亡と言う回転がありますから、困難な事例でも我慢すれば解消する場合もありますが、障害者は施設に入れても20年、30年と長生きしますし、死なない努力が払われていますから、一人にかける税金としては、同じ障害者であっても税金の負担に大きな格差が出てきます。在宅の障害者と施設利用者では税金の違いが結果として施設職員の給与としかなっていないという論理も成り立ち、偏りと効率の悪さと言う非難が、障害者施設の回転率向上を目指して脱施設化を強く推しています。既存の施設から何人退所したかが数字目標とし、数字目標が達成されなければ罰までありましたから施設利用の障害者からすれば人の人生に対しての対応としては、人権無視もいいところです。翻弄されるのは障がい者ばかりで、障がい者のための脱施設施策と言いながら障害者の生活が振り回されるのです。一方 脱施設化の流れの中であっても障害者の親には、「親亡き後」と言う命題は解消されていませんから、結果としてグループホームにしがみつかなければならなくなりました。入所施設より金を絞ったグループホームでは、条件がさらに劣化しますから、ますます買える人権が少なくなっているとも言えます。もともと曖昧な自立という言葉で、障害者施設の回転率を上げようとしても、底辺で希求されているのが親亡き後の終の棲家ですから、回転率や自立なんて関係ないのです。しかし、脅しとしての福祉で、障害者の自立の為に施設が必要だと脅してきましたから、終の棲家とするわけにはいかないのです。脅しの福祉は、選択肢を作るという事が出来ませんでしたから、日本の福祉事業全般に、選択肢の無い単一施策しかないのです。ですから障害の違いによる選択肢もないのです。そして、人権を保障するだけの資金の投入も出来ないから、現場が困窮し疲弊して、働く人も逃げ出して慢性的な人手不足が生ずる事に為るのです。

オオカミは悪者かの話

       物語には悪役が必要です。そして悪役は凶暴で強くないと物語のメリハリが薄くなります。ところが悪人となる凶暴な動物を探して見ると意外といないことに気が付きます。凶暴である肉食獣の、虎やライオンは紋章にも使われるほど畏怖されて、強さの象徴になっている場合の方が多いという事に気づきます。ですから、強い者の象徴にはなっていますが、案外悪役にはなっていません。日本の食物連鎖とされた頂点は、ニホンオオカミですが、明治時代までは神の使いとして崇められていました。逆に農作物を荒らすイノシシやシカと言った動物を駆除してくれるとして悪役としての物語には出てきません。ツキノワグマも神の一人として出てきません。鳥獣戯画は、平安から鎌倉にかけての動物の画ですが、猿やウサギ、馬・牛・鷹・犬・鶏・山羊といった身の回りの動物だけでなく、豹・虎・象・獅子・麒麟・竜・獏まで出てくるのに、オオカミは出てはきません。その一方でキツネは神の使いなのに、騙す役で出てきます。騙す役は、キツネとタヌキが有名ですが、凶暴な悪役としては出てきません。なのに、なんとなく「オオカミ」は悪役と言うイメージが日本には蔓延しています。悪役としてのオオカミのイメージはどこから来るのかと言うと子供の時に読んだ、「おおかみと七匹の子やぎ」「赤ずきん」「三匹のこぶた」などからだという事が分かります。どれも日本の話ではなく欧州の話なので、ヨーロッパの童話を調べたという人の文で確認すると、欧州でも悪役としてのオオカミの童話は上記の三作品程度で全然少ないというのです。日本より、牧畜が盛んな欧州では、家畜を狙うオオカミは害獣のはずですが、悪役として描かれているのは極少数だという事です。まして、冷酷無残な知能犯としては出てこないという事なのです。農耕文化の日本では、家畜は、牛馬鳥ですが、牛馬は人家の中で飼われることが多いし、鳥はキツネが狙う事の方が多かったと思うのです。日本では、家族集団で行動するオオカミは、人間と同居する牛や馬を襲う事は危険でしたし、シカやイノシシが山にはいたのですから敢えて近づく必要もなかったのではないかと思うのです。最近はクマが出没して被害が出たり、戦った人の武勇伝が出ていますが、明治時代に絶滅したオオカミのことなど誰も遭遇したことがありませんから、日本にはオオカミがいたと言われてもどんな生活だったのかを想像できないのが実情です。ですから、オオカミが怖いという事にはなっていません。むしろ、上の童話でのオオカミ像しか知らないというのが実情だと思うのです。そして、歳を重ねて童話を過ぎると日本ではオオカミに育てられた子供の話の方が大きくなります。ですから、ジブリの「もののけ姫」には山犬に育てられた子供が出てくるのですが、誰も違和感を感じません。昔々の英語の教科書には、ローマを建国した王が、オオカミに育てられたというものもあり、英雄チンギス・ハーン蒼き狼と聞いている日本では、オオカミは凶悪な悪役にはなれないのです。ところが、漢字では、オオカミはすごい事に為るのです。狼藉・餓狼之口・狐狼盗難・虎狼之心・周章狼狽等々で、強欲で残忍な性質やこの上なく危険で人に害をなすものとして悪役そのものの言葉が並びます。そうです。中国では家畜に害をなすオオカミを「餓狼」と呼び、忌み嫌っていたという事なのです。それは、中国では盛んだった食肉用の家畜である豚や羊と言った動物がいたからです。豚や羊は、身体的にもオオカミにとっては狩猟しやすい対象ですし、大量に飼われており人の管理が疎かな部分が狙いでもあったと思うのです。特に北方の遊牧民にとっては森林にすむ虎などと違い草原に住むオオカミは害獣だったと思うのです。つまり、草原の無い日本では農耕に適した牛や馬は飼育されましたが肉食としての豚や羊は飼育されなかったことからオオカミの狩猟対象動物が人の周りにはいなかったという事だと思うのです。ですから日本人は漢字からオオカミは怖いという先入観を得ていると思うのです。それは、青龍、白虎、鳳凰の類と同じことだと思うのです。明治になって簡単に絶滅させられたという事を考えれば、日本のオオカミは、怖いどころかとてもひ弱だったことが分かります。

 

地域生活と言う甘い言葉の話

   重度化・高齢化・そして強度行動障害がある人は、家庭や障害者通所施設そして、グループホームでは対応できないから入所施設が必要だと厚労省は言っていながら、障害者入所施設に暮らす利用者に、「地域生活の希望把握を義務化」するという矛盾する政策を行おうとしています。それは、順番待ちで、特養に入った人に地域生活の希望を取るという事と同じです。もともと、障害者は、家庭である地域で生活しています。家族もかわいがっています。しかし、親が高齢となり「親亡き後」どうしようという事で、選択できるのが入所施設しかなかったから利用しています。地域に暮らすことのできる場があるなら利用するはずがありません。ところが厚労省は、国連から指摘された脱施設化のスローガンのためにグループホームでは、支援が困難と言っているのに、適応できない困難な人まで入所施設から追いやる手段としてグループホームを悪用しようとしています。つまり、障害者がどこで暮らすことが適切かと言えば普通に生まれ育った地域ですというのは誰もが答えることです。では施設に暮らす障害者はどこから来たのかと問えば地域です。地域で暮らせないから入所施設へ来たのです。このことから考えるなら、障害者が地域で暮らし続けられる政策が行われれば、誰も施設へは行かないという事が明白です。逆に地域が障害者を排除したのであって排除しない地域が作られれば結果として入所施設は自然消滅するという事です。そこで一番大事な地域生活とは何かを明らかにしなければなりません。厚労省も、今日の入所施設は、重度化・高齢化が進んでいると認め、強度行動障害や医療的ケアの人が住んでいるとも認めています。では、こうした人が安心して暮らせる地域があるのかという事です。厚労省は「地域生活の場は、少人数で支援を受けながら暮らすグループホームなどを想定している」としていますが、その規模のグループホームで強度行動障害の方を支援できますかと言う問いです。重度化・高齢化・そして強度行動障害があって、在宅で暮らせなくなった人が入所施設に入っていると認識しながら、家庭に近い機能のグループホームで障害の重い人が暮らせる条件がどこにあるのかを明示しなければなりません。そんなゆとりがどこにあるのかを。そして今度の政策では、地域で暮らしたいですかと聞かない施設は罰するという愚策を行おうとしているのです。「障害者施設に入所する人が、身近な地域での生活を希望するかどうかの把握を施設に義務付け、実施しなかった施設の公費などによる報酬を減らす」なんて脅しまでかけて、入所施設から追い出そうとする愚策を掲げています。報酬を減らすという事は、現に入所施設を利用している人に不利益がもたらされるだけで法人が困る事ではありません。入所施設は、欧米にもあります。脱施設を目指し、入所施設から出したいのなら現在の施設入所者の利用能力査定をして選別すればいいのです。しかし厚労省は自らの手を汚さない、あたかも、施設が自発的な努力でグループホームへ移行させたという方法をとっています。そこには、施設が利用者を囲い込み退所させないという発想で見ていますが、抵抗しているのは施設ではなく、親だという事が分かっていません。親が数少ない選択肢の中で待ってでも利用せざるを得なかったのが入所施設だっただけです。重い障害者を受け入れる環境や体制が乏しい実態があるからにすぎません。国連は障害者権利条約に基づき、日本政府に対し「親元やGHでの生活のように、障害者本人がどこで誰と生活したいかを選択する権利がきちんと保障されていない」との所見を出しましたがその中核は、障害者が生活の選択や管理が出来ていないというもので、入所施設を無くせではありません。今も12万人以上の障害者が施設に入所し、国際潮流の「脱施設・地域移行」が進まないと言うのは希望しても入所施設以上のものがないからです。GH利用者の4割以上が将来の1人暮らしを希望する一方、アパートなどでの自立に向けた支援には7割のGHが取り組んでいないのもグループホームが入所施設化しているからなのです。入所がダメなら、グループホームで親亡き後を期待しているから、アパート生活を計画しないのです。本来グループホームは、通過地点にすぎませんでした。しかし、今日ではなし崩し的に重度も入れろと言っていますから、グループホーム生活で、自己決定が広がるとか、開放的になるなどの目的が失われかかっています。日本のグループホームには、普通の家に近づけ、その人らしい暮らしを送る場にする条件も環境も整ってはいないのです。   

 

“悪名は無名に勝る”でも先入観は長く続くの話

      現代ではとにかく売り出さないと金にならないからと、悪評であったとしてもマスコミやインターネットに取り上げられるなら、知られていないよりずっとましだとばかりに犯罪ぎりぎりでも目立とうと言う人がいます。それも手段だと割り切っている人もいるのかもしれません。ことわざも、“悪名は無名に勝る”と言うことがありますから、まず有名になることと言うのは悪い事ではありません。しかしそれなりの覚悟が出来ていないと、今日の情報の中では、イメージ転換が容易に出来ないという事を知らなければならないと思うのです。現実には、悪名で有名になると「先入観」と言う額がぴったりとはまって、強い印象があるほど延々と付きまとうと言う事です。昔は、「人の噂も七十五日」と言って時間がたてば忘れられるというのが世間でしたが、現代のインターネットは、いつでも見られるようになっていて忘れてくれない状態にあります。ですから不祥事を過去に起こした芸能人が他者の不祥事にコメントすると過去の話を持ち出されて非難されたりもしています。今では本当に反省して人間が変わっていますと周りがどんなに応援していてもネットには現在と同時に過去の事が並列で並べられて晒されます。人のうわさも今日では一つのイメージとして成立すると周りがそれに拘って本人を縛りつけてしまうという事さえも見られます。それはまるで一度プリントされたものには、消しゴムはないと言われているかのごとしです。内容的には単語的な単純なイメージが形成され、移り変わりの激しい情報の垂れ流しの中ですぐに速い流れの中に巻き込まれて見えなくなってしまうように思いますが、淀みにいつまでも残っているというのが現状です。そこでは、人間には様々な面があるという見方より、目立った面が全体だとしてしまう傾向が現代では強くなり印象は変更されずに、本人の意志にはかかわらず継続される傾向にあります。イメージ戦略として昔から様々な方法が行われる中には、悪役のイメージで売り出して本当は優しい人でしたという事もありますが、それは組織力を使って変更戦略をはじめから組み込んで行っていますから、ちゃんと着地点まで持って行ってくれますが、ネットなどを通じた個人での表現ではとてもそんなところまで計画は出来ません。ですから、着地点が有名になった地点という事になって、悪名はそのまま続いてしまうのです。確かに、世に知られることは困難で普通に生きる事だけではとても知られる存在にはなりません。それに、優秀な人も、出来た人も、誠実な人も、頑張る人も世の中にはぞろぞろと居て地域で有名な人はもっといると言うのが現実です。そんな中でネットなどは投資もほとんどせずに一発当てることが出来ますから一度は試してみたくなるのも大いに推奨できることだと思うのです。しかし、大手広告会社だろうと個人だろうと人に受け入れられるには個性的なイメージの定着が必要で、単純なほど受け入れやすい傾向にありますが、単純だから受け入れやすいが抜けにくいという事もあります。有名人になりたい人は、承認欲求が強いなどという事もありますが、個性として他にはない何かを表現しなければなりませんから、世間の先入観を打ち破る言行が出来なければなりません。そうなると、なかなか正攻法ではライバルが多すぎて大変なので、「悪名も有名」と一撃突破を図る人もいるのですが、突破した先には深い崖だったという事に為りかねません。有名になりたい、人の支持を受けたいは人間の本能ですが安易な言動は、青春の蹉跌では済まない事にもなることを知るべきです。

 

見た目が身分制だった時代の話

   実は、見た目で判断するなという人ほど、見た目がそういう格好になっているという実態があります。見た目というと、「らしく」が、基本で、それらしくしていれば、大体そのように相手は判断してくれるという事ですが、服装は視覚で身分を表す方法として長く利用されてきました。実際に身なりで人の社会的地位を判断するというのは今でも普通に行われています。それは、視覚情報が最大の伝達・広報機能であった事にもよります。直接会わない限り相手の事は分からない時代にあっては、会ったときの視覚的情報が自分を守る重要な情報でもありました。ですから、長く服装は身分であり社会的地位であったのです。これは、意外と文化が発達している程に明確な方法となりました。そこには、衣類の原材料による違いもありました。日本で言えば、最上の絹、綿、青苧、植物繊維とはっきりわかるものでした。これが、社会秩序維持に大きく貢献してきました。ですから服装が自由だという事は、一見社会の身分制が薄いという環境にあるという事が言えます。環境として、どんな身なりでもいいと言われる自由さは、身分と言ういわれなき差別をなくした社会とも言えます。しかし、この自由な環境を謳歌するより逆行することで、自らを悪印象にして差別を助長したい人がいます。つまり、敢えて「見た目で判断」してほしいという人もいるという事です。例えば、入れ墨。本来日本では、魔除け、呪術として普通にありましたが、一度入れたら消えないという事から、奴隷や犯罪者を識別する方法として、焼き印や刺青が手軽に行われていました。その為長く犯罪者の象徴とされてきましたが、明治後禁止されたことで、ヤクザが自己主張として飾り彫り刺青を利用したことから今度は、反社会的象徴になりました。最近、はやっているタトゥーとの違いは、肌に入る針の深さで刺青は深く、タトゥーは浅いと言われていますが、言葉としては刺青が正確と言えます。ですから、両者ともいったん彫り物を施してしまうと、消す事は容易にできないという点でも共通しています。外国の人が、彫りが浅いと言えど、彫り物を好むのは、自己表現の一つとして社会的に容認されているからですが、日本では刺青=反社と言う認識ですから、タトゥーであったとしても、自己表現であったとしても、反社の一員ですよと言うアピールになってしまいます。それは、全体としてみればそんなことはないファッションの一部だと言い張ってもそれが社会的に象徴となるような事であれば全体の捉え方としてはバッチに近い効果を及ぼします。例えば、コロナ禍の時、マスク拒否で報道された議員が何人かいますが、その人たちのテレビに出ている服装は、スーツにネクタイと極普通の恰好です。集団の慣習にすべて合わせていながらたった一つマスクごときで粋がっただけで非難を受けました。人は見た目で安心安全を確認しています。ですから、見た目は、自分の自己表現ではなく、相手の感性に対してのアピールであり、安心安全の目明日でもあるという事なのです。身分制度の時代には、見た目で周囲が対応する目明日だったのですが、身分制度が希薄になると、見た目は相手に対しての安心安全のシグナルになったという事です。ですから、自己表現として行っていれば、ヤクザな人で危険と判断されますし、コスチュームプレイの服装をしていれば、そういう人だと判断されます。逆に制服としての服装をしていれば、安心感を持たれるという事もあります。日本には、「見た目で判断してほしくない」と言う意見と同時に実は、「見た目で判断してほしい」と言う自己表現者がいるという事です。社会的に自分が不利な状況に置かれたとしても自己顕示や自己承認として自己表現する人がいるという事です。ただ、その表現が偏見や差別に類似しているならそのように評価されるという事です。その時になって見た目で判断するべきではないと言っても効果はありません。敢えて見た目に挑戦するなら黙らせるだけの力が必要です。例えば天皇ジーパンで出てきても人格まで評価はしません。

ぼんやり魂の話

 「魂」「霊」「精神」「心」「命」「気力」などなど、生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると人間が考えた事を言葉にしたものです。過去から人間は、肉体を支配するものにこだわってきました。そして、それは不滅にあるものだと、見えないけれどあるものだと考え、それを表現する言葉を考えてきました。例えば「霊(れい)」は、人間だけでなく、肉体を持つすべての生物に宿るとして、肉体の死後も、肉体から離れさらに活動を続けていくことのできるものとまでしています。それが、輪廻転生という事にもなるのですが、死後の世界から戻ってきた人はいませんから本当のところはわかりません。そして、日本人は、宗教だけでなく、文武から文化・技能に至るまで修行すれば「魂」が肉体に取り込まれると考えますから、「入魂」という事が好きです。その為「一寸の虫にも5分の魂」として、なんでも「魂」を付けたがります。サムライ魂、ヤマト魂、町人魂、学生魂、会社魂、云々とどこでも見られます。ところがそれは一体何かと言うと、勝ち抜く程度の精神力や戦い抜く気力程度のホラの様なものでしかありません。踏まれても、踏まれても立ち上がっていく様を「雑草魂」っていう事があるのですが、この場合でも実態は、「踏まれた雑草は立ち上がらない」が真実だと言われています。実際人間が歩いた後に道が出来るというのは、雑草が立ち上がって復元しないからにすぎません。踏まれた雑草は、傷を修復して横へ伸びてから太陽に向かいます。人に踏まれたならなにくそと立ち上がる雑草などいないという事は明らかで、雑草が繁茂するのは、世代を超えて繁殖を繰り返しているというだけにすぎません。人間の生き方について、人間は自然界の状態を教訓に利用しようとすることが沢山ありますが意外とその中身は間違えていることも多くあります。ですから、ぼんやりとしているとなんにでも「魂」がつけられて、がんばれがんばれという事になります。しかし、雑草は、自分が生きることよりも種を残すこと、次の世代を残すことが優先ですから、人間が希望するように踏まれても踏まれても立ち上がろうという努力はしません。つまり、人間の意地みたいなものや見栄や格好には全く関係なく雑草の魂は、目指すべき種の継続に向けて対応していて、人間が望むような、無理して頑張ってはくれないのです。肉体は「魂」の支配下にあるのだから魂の修練をすれば強くなれると魂があれば修行が出来ると励まされますが、逆にそんな簡単に魂が変えられるものなら人間はもっと誰かれなく偉大になっているはずですが、みんな普通です。墓や仏具を使用する前に僧侶が読経して、「魂入れ(こんいれ)」をする様に、目に見えず、「これがそうだ」と言い切ることができないにもかかわらず、有るかの如く扱われるのが魂です。そんな魂に依存したところで何も変わることなどありません。時には、ろくでもない習慣や理不尽なルールまでが魂の表現として使われてしまいます。鼓舞するだけなら、それでもいいのですが、そんな魂により、精神や肉体を傷つけられたり、強制や押し付けられて自分の魂が委縮されてしまう方が危険です。「魂」「霊」「精神」「心」「命」「気力」などなど、肉体を超えたところにあるはずの何かを求めてもありません。生きものの体の中に宿っている物質はすべて物質にすぎません。思考さえも電子反応で確実に物質が存在しています。空気を掴もうとするような、魂に頼るのではなく、ぼんやりと自分の魂は、自分と共に歩んでいることを自覚した方がずっと有効だと思うのです。あなたがいるからあなたの魂がある、それはどんな魂より大切であると。