知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

「形は変われども心を繋ぐ」が伝統と言うものではありませんかの話

  信濃の国御柱祭(おんばしらさい)は7年目毎、寅と申の年に行われ樹齢200年程の樅(もみ)の巨木を曳建てる日本でも有名な諏訪大社の最大の神事です。その始まりは、804年の頃からとされていますから、1200年にも及ぶ歴史があり伝統と言う名にふさわしい神事でもあります。特に「御柱」と言われる大木は、直径約1m、長さ約17m、重さ10tにもなる巨木が使用され、大切に守っている山から8本切り出し、上社は約20km、下社は約12kmの街道を、木遣りに合わせて人力のみで曳き、各お宮の四隅に建てるもので日本古来からの山や巨木信仰そのものです。中でも、巨木を山の上から落とす時に人が乗る神事は誰もが知ると言われるほど有名です。そんな、ゆるぎない古来からの由緒正しい神事さえも新型コロナの為に、1200年の歴史で初めて、通常の3日間かける「山出し」と言う作法を1日に短縮したり、最重要な「木落し」の神事を中止し、「川越し」と言う神事も形式を変更したという事です。市民がお祭りとして楽しみの氏子の人力による曳行(えいこう)さえ断念してトレーラーで搬送するなど「形を変えて」神事を執行しているという事です。この「形は変われども心を繋ぐ」と言うことが、伝統の神髄だと思うのです。神は時代が変わろうと人間の社会が変わろうと「神」として存在し、その神を恐れ讃える為に人間が作った作法の形などどのように変遷したとしても心が繋がり続けているなら問題ないという事が信仰心の強さだと思うのです。信じるものが強ければ強いほど、人間が作った形よりも神が望むだろう行いの方がはるかに大事な事と決断出来るのだと思うのです。今度の新型コロナウイルスによって、随分何十年もやっているという行事が中止になったり、縮小となったりしましたが、それで神の怒りが起きるはずもありません。逆に、教育では、集団活動やコミュニケーションが成長と発達には絶対必要だとこだわる人たちによって今の学校制度改革が遅々として進まず、適応できない生徒は落ちこぼれであり特別な子供だと自閉症症候群にして特学へ追いやったりしていましたが、みんなが登校できなくても教育学者が大騒ぎするほどの弊害など起きませんでした。新型コロナと言う大義名分があらゆることを飲み込んでしまいました。ですから、様々な問題や課題に、強力に言い続けた人も何も言わないし、強引に進めていた人も責任をとりません。結局集団研修も、グループワークもしなくても問題はない事が明確になりましたがそんなことで飯を食べていた人が、危機だと大騒ぎもしません。明確になったのは、心を繋ぐのは、人間の作った作法ではないことです。伝統の作法は神に対して失礼が無いように人間が一生懸命考えたもので、神の望みではありません。人間の作った作法だから変える事も可能だという事が明確になった事だと思うのです。そして、人間の世界では、作法だけでなく価値観までが大きく変わるときが歴史の中で繰り返されてきました。例えば、毛皮です。人間の歴史の中では、毛皮は有史前より衣類としての役割を果たしてきました。近代でも、富の象徴であった時代もあります。しかし、動物保護という視点から非難を受けて衰退しました。その結果、養殖しているミンクもだめとなり、毛皮のコートを着ていることそのものが非難されるような時代となりました。衣類の原点である毛皮を着用する時代にはもう戻れない情勢ともなってきました。化学繊維に対して畏敬の念など持ちませんから、動物の毛皮を着ていた時の有難味はすでになく、大量に生産し大量に廃棄する事への罪悪感もありません。そこには、身にまとうものへの心は繋がっていないのです。化学繊維と言っても元は石油であり、石油は生物の死骸であり自然の遺産でもあります。感謝してと言う心が繋がっていれば大切に扱う事になるはずなのです。つまり、どんな神なのかは知らなくても、自然を人間に提供し続けている事は事実なのですから、その神を恐れ讃える心を繋ぐことが伝統であると思うのです。礼儀作法で飯を食っている講師がテレビに出てその内容で非難されていましたが、心が繋がらなければ作法なんて飯のタネにはなっても、神への配慮にはならない事が明白なのです。

 

メンタル強い人に会ったことがない

  よく「あの人 メンタルが強い」からと他者を評価する事がありますが、私は、「メンタルが強い」人に会ったことがありません。誰もが、不安を持ち、悩み、自己嫌悪に陥り、頑張ってもいい事がないと感じ、心が波打っていると言う人ばかりです。「メンタルが強い」という表現は、一方で「精神的に打たれ強い」という意味で使う事もありますが、「精神的に打たれ強い」人にも私はあったことがありません。いつもいつも、「精神的。心理的。に強い」個人などいるはずがありません。確かに、個人としてはメンタルが強い日や弱い日があるかもしれませんが、それは個人的な事であって、人同士を比較して「メンタルが強いか弱いか」を考えることは元々意味のない事だと思うのです。まして、それが社会性や社会の対人関係を示す指標になるようなら、社会の害としか言いようがありません。ですから、「メンタルを鍛える」ことは、出来ませんし鍛える必要もないと思うのです。「心に関するさま」はあなたそのもので、他者にはない個性そのもので、精神・心理は、「ずるく」は成れますが、鍛えることは出来ないと思うのです。英語では、メンタルの反対語として、フィジカルが使われ、「肉体的」「身体的」の意味で使用されますが、強い肉体、弱い肉体などと言われて社会性を表すという事などありません。身体も大まかには一緒なので医学が成り立ちますが、固体は一つ一つ個性があり微妙にみんな違っています。それに、「メンタル」も「フィジカル」も外国語でその言葉の背景にある文化や宗教などを考慮せずに直訳で使用すると、日本人的に理解すると違った意味になってしまう事に気を付けなければなりません。ですから、フィジカルの対義語に、「スピリチュアル」と言う言葉もあって、「霊的・精神的なこと」を指す場合があります。時には、メンタルヘルスなどと言う言葉が使用されて、「メンタルトレーニング」などと言うセミナーがあったりしますが、誰でもが日常生活では、精神的にダメージを受けずに過ごすことなど出来ません。メンタルが「強い」人はどんな人かを調べると、①ポジティブで、いつも前向きな心を持っている②平常心を常に保っている③自分をしっかり持っているので、ほかの人の気持ちを察することができる④謙虚で努力を惜しまない⑤いつも周りを見渡すことができ、臨機応変に行動できるという特徴を持っているとされますが、周りにこんな人いますか。こんな「できすぎ君」みたいな人がいたら、私なんかは、精神的にダメージを受けてしまいそうです。逆に、メンタルが弱い人を調べてみると、①他人の目を気にしすぎる②ネガティブ思考③気持ちの切り替えが下手で、いつまでもくよくよ悩んでしまう④自分に自信がなく、他人に依存するという特徴を持っているとされていますが、とても人間的だと思いませんか。

さらに、メンタルが強い人は、自分なりの価値観をしっかり持ち、経験豊富で自信を持っているとか、自分のことをしっかり認識し、必要以上に自信過剰になったり、逆に卑下したりすることがありませんと言われるとどんなにトレーニングしても自分はなれないなとしか思えません。しかし、メンタルが弱い人は、いつも自信のない行動をし、すぐに落ち込んだり、暗い表情でいることが多く、少しのことで動揺したり、おじけづいたりしますと言われると、自分に合っていると感じてしまいます。つまり、よく、メンタルが強い人はポジティブ、メンタルが弱い人はネガティブと言う人がいますが、それは間違っていると思うのです。人間は、常に不安を抱え、ネガティブ思考の中で自然と接してきたのです。明日のご飯は確保できるのだろうかの不安が農耕になっていったのです。「何とかなるだろう」なんてポジティブ思考でいたら、自然淘汰されていたかもしれません。確かに人間社会では対人関係の中で一人一人が、精神と心理の関係で沢山の攻撃を受けるような時代ではありますが、それを精神・心理の強弱で考える必要はないと思うのです。社会性と言うのは、「狡さ」であって「ずるい奴が徳をする」様に出来ているだけですから、社会性が低いと言うのは、「ずるさ」が弱いという事だと思うのです。今社会の言うメンタルが弱い人こそ、普通の人で、メンタルが強い人は、とてもずる賢い人だという事だと思うのです。

 

「俺的にはセーフ」は残念な「アウト」の話

「空気が読めないやつ」と非難する事は、既にハラスメントになったように、対人関係の常識は今一変している過渡期にある事を心掛けなければならない時代に入りました。少し前までは、自分の意見を明確に言う事が推奨されて「自分がどう思うか」を明示する事が対人関係では重要とされました。ところが今度は「自分の言ったこと」を、「相手がどう思うか」と問われる時代へと突入しました。静岡県教育委員会が、公立小中高校生らを対象に実施した2021年度のセクハラ実態調査の結果をまとめ公表しました。調査は21年11月~22年3月、政令市を除く公立小中学校と、県立高校・特別支援学校に在籍する小学5年から高校3年までの計15万6306人を対象に実施した。この中に教職員の言動に関して「セクハラを受けたと感じた」とした回答が97件あり、内訳は、中学校が46件で最も多く、小学校27件、高校21件、特別支援学校3件で、内容別では、不必要な身体的な接触(55件)と不必要な接近・凝視(12件)で、約7割を占めた。具体的には「ほめられた時、頭をなでられた」「部活の指導中に腕を触られた」「体育館で整列していた時、40秒ぐらい肩に手を置かれた」「あいさつをした時、胸を見られた気がした」などの回答があったという事です。この他にも、身体的特徴や性別、容姿などに対する言動として、「身体測定の際、体重を他の児童に聞こえるように言った」「登校時に『太ったね』と言われた子が傷ついた」「特定の児童をちゃん付けで呼ぶ」「男のくせに泣くなと言われて嫌な気持ちになった」などの回答もあったという事です。県教委の担当者は「寄せられた回答のうち、強制わいせつに該当するなど懲戒処分の対象になる事例はなかった。しかし、古い価値観はもはや通用しない」と指摘しましたと報道されました。様々な現場では、「俺的にはセーフ」という考え方がずっとありました。ですから、社会の変化の速さに加害者と言われる職員は自分の基準が通用しなくなった現象に戸惑っていると言うのが現状です。「あなたの時代はセーフ、今の時代はアウト」という事をまず認識しなければならなくなりました。過去には「それぐらい」とか、「指導の行き過ぎ」とか、「熱意のあまり」とか許容されていた時代もありましたが、今日では「アウト」とされます。もう一つ、「俺的にはセーフ」の時代が終わったと言うのは、今のハラスメントと言うのは、「自分の主観」ではなく、「相手の思い」に変わったという事です。ですから、親しい関係で本人同士は何とも思っていなくてもそばにいた人が「不快」に思ったならそれも「アウト」と言う時代だという事です。しかも時代の変化についていけないと無視してもいいのですが、ペナリティーは確実に向こうからやってきて「俺的にはセーフ」と粋がっていてももっと強い権力から「アウト」と処罰される時代になったという事です。この事に対しては様々な意見があると思うのです。相手の気持ちなんて分かる訳がないという事が普通ですし、人権にうるさい欧米だってそこまで言うかと言う内容もあります。それは基本文化的価値観の違いがあるからだと思うのです。東洋的価値観が古く劣化していて、西洋的価値観が正義のような考え方は基本的な間違いですが、例えば日本人の好きな「サムライ」と言うのは古い価値観そのものですが今でも前面に押し出されています。西洋的な人権と言う考え方と東洋的な人の権利に関しては、共有する事と反する事、曖昧な事があって全面的な対立ではありません。しかも世界の主導権を握っている欧米の価値観がスタンダードだと思っていても実際はダブルスタンダードどころか、スリーもフォーもあると言うのが現実で欧米と言っても国ごとに違い一体ではありません。それほどに基準も具体的行為の基準もあいまいな人権定規が突然のように当てられたなら誰だって困惑するのは当然です。だから、ハラスメントと言われても「俺的にはセーフ」と思っていたとしても不当ではないのです。ですが、社会と言うのは、一罰百戒方式で自己規制させる方法を取りますから後で行き過ぎだったとしてもひとつの事例として残念な「アウト」にさせられる可能性は高いのです。委縮する位に追い詰めて標準化が通達されるまでは、「俺的にはセーフ」は残念な「アウト」になる事を認識して言動しなければならないという事です。

 

犯罪歴照合できないは、被害者を泣かすだけの話

「一時保護中の少女にわいせつな行為をしたとして、児童福祉法違反に問われた和歌山県子ども・女性・障害者相談センターの一時保護所(親の問題・虐待被害児童非行児童等保護者から法的に分離して預かる公的施設)の元職員の男(30)(懲戒免職)の初公判で起訴事実を認めた」のですが、検察側の冒頭陳述によって、男は会社員として働いていた2015年7月にわいせつ事件を起こし、退職したという事が初めて明らかになりました。男は、退職5年後社会福祉士の資格を取得し、同年4月に県職員に応募、同センター配属を希望しました。その結果、児童福祉の一時保護施設の公務員による、一時保護少女にわいせつ行為をするという事件が起きました。家庭から分離されて守る人がいない環境の児童の中に、オオカミを入れたことで被害者が出てもオオカミと知らず、裁判になって検察が言わなかったら、誰もオオカミだと分からなかったという事です。こんな、被害者に対して人権を無視した対応はありません。安全地帯の中にオオカミを入れるという事は、採用した県も加害者の一人とも言えます。このようなことが起きるのは、犯罪者の更生に対して前科の証明をしない事で社会の先入観や偏見による差別を生まないようにすることになっているからです。実際に県人事委員会の担当者は、「採用時に犯罪歴を尋ねることは人権上問題があり、把握していなかった。今後は面接でより厳しく資質を見極め、再発防止のための研修も徹底していきたい」と言っていますが、それは現状では不可能であることはみんなが知っている事なのです。何故なら、前歴照合が出来きなければ、今は、調べる方法はないのですから、オオカミに変身したことがあるかは自己申告に頼るしかないのです。就職の面接で、本人が不利な情報を告白するはずはありません。さらに面接で何かありそうだと思ったとしてもそれだけで不採用などには出来ません。犯罪歴が分かっていたなら、人事委員会は、採用せずとしたでしょうし、採用しても本人の希望する一時保護所に配置する事はしなかったと思うのです。でもその不確かな情報で加害者が再犯するのではないかという危惧で不採用にしたなら逆に訴えられて人事委員会の方が不利な時代です。しかし、犯罪の問題で優先すべきは、加害者の再犯を防ぐことが優先されますし、被害者を出さない対応がよく強く優先されます。加害者の人権を守る為に一番弱い子供が被害者になるという事はどうなのかと問いに、加害者人権擁護を唱える法律屋達は、再犯の可能性を認めながらも前歴照合による防犯対応には反対するのです。文部科学省の調査によると2020年懲戒処分などを受けた全国の公立学校の教員のうち、強制わいせつや盗撮といった「性犯罪・性暴力」で処分されたのは133人、不快にさせる性的な言動などの「セクハラ行為」で処分されたのは67人で、合わせて200人に上りこの数字の前後をほぼ毎年推移していると言われています。学校の内訳は、今回から初めて対象となった幼稚園の教員が1人、小学校が64人、中学校が74人、高校が53人、特別支援学校が8人で再犯についての統計は見つけられませんでしたが、幼稚園・小学校・特別支援学校などの被害者本人が声を上げられないような対象者に対して70人もの犯罪者がいるという事です。そして加害者は一人の加害だけで発見されず複数の子供に行っているでしょうから被害者は倍以上になるのです。その事に関して教員の場合は、法律の整備がされ、今後は、免許を失効した教員の氏名や理由を速やかに掲載するデータベースの整備をすると言っていますが、でも前歴照合は出来ないのです。私は、警察は、教育・医療・福祉の分野からの業務の対象者に対して過去に事件がなかったか程度の前歴照合には応えるべきだと思うのです。何故なら、性的犯罪はどんなに本人が反省しても、誘発要因が強いほど再犯する可能性は高いからです。児童の女の子と接する事が多い職場に従事する職員の、理性だけを頼りにしていたのなら、被害者は必ず出てしまうという事です。それは、結果として再犯となり加害者の人権をも守る事にはならないと思うのです。性的犯罪者は、再犯の誘発が少ない環境に置くべきなのです。子どもたちが守られる事が最優先されるべきなのです。そして、性犯罪者には、子どもたちの暮らす学校や施設からの前歴照合があったなら回答するという事を知らせておくべきなのです。前歴照合の全面的不開示は、子どもの被害者を作る事になっていると言う事こそ問題なのです。

eスポーツなんておだてるから見失う劣等感の裏返しの話

 eスポーツというのは、電子ゲームをスポーツ競技として格上にしようと言う試みで、海外では1980年の頃にコンピューターゲームが出来るとスポンサーが付いた大会が開かれる頃から始まったようです。最近では、オンラインタイプのゲームが多く、日本でもスポンサーが付いたことから、プロのゲーム選手なんて成り立つようになったという事ですが、2018年に一般社団法人日本eスポーツ連合が設立されたあたりからただのゲームオタクが表舞台に出てきたと言う感じです。このゲームをオンラインで行っているところが配信される事でお金になると言う仕組みも出来たようです。ですから、自分の部屋で独り言を言いながらゲームをしていたゲーム青少年がスタジオでゲームしているようになったと言う事でもあります。一人で部屋でオンラインゲームをしている限りは独り言で何を言おうとどうでもいい事ですが、スタジオで行うなら相応の作法は必要で本音を出すなら批判、非難は覚悟の上でやるべきです。ゲームであっても勝負事ですから勝ち負けで悪態をつく事など当然で素の自分が現れるという事になりますが、他者を傷つける言葉しか教わらなかった教養のない本性が現れるという事もあります。つまり、相手に下品なヤジを飛ばすような言葉ばかりが身についていると油断すると簡単に化けの皮が剥がれるということです。そもそも、ゲームばかりやっていて勉強しないと散々たたかれてきたコンプレックスのゲーマーが煽てられているのは、スポンサーの金儲けに乗せられているだけだという事を理解していない事に問題はあると思うのです。報道では、ゲーム配信中に不適切発言をしたとして、批判を浴びたeスポーツプロチーム「REJECT」のSaRa選手(20)が、「なんでそこクリアリングすんの? 障害者やろマジで」との発言が配信中に流れ、契約解除となったという事です。もう一例は、プロのたぬかな選手が「(男性の身長が)170ないと、正直、人権ないんで。170センチない方は『俺って人権ないんだ』って思いながら、生きていってください」といいさらに、「…いつもの配信の身内ノリで言葉が悪くなっちゃいました、ごめんなさい~…」と投稿しましたが、非難され契約解除とされました。このたぬかな選手はメディアに登場する機会も多く、『プロゲーマーの社会的地位が向上することを目標にしています』と言っていたという事です。この事に対して記事では、ネットリテラシーに詳しい国際大学GLOCOM客員研究員の小木曽健氏がこんな見解を紹介しています。「例えば、昔から歴史のある芸能界やプロスポーツ、ビジネスといった、分野と比べてあまりにも歴史が浅い業界で、完全にプライベートな時間に、今回のような問題発言をする人がいても驚きませんが、それはオン・オフの使い分けを炎上してしまったプロゲーマーたちは、身に着けることなく、表舞台に立ってしまったのだと思います」としていますが、これも本人たちと同じ内容で間違いだと思うのです。「アマチュアだろうと」「ノリだろうと」「完全プライベート」だろうと、人権感覚は今日基本的な社会性なのです。だから、ゲームしかやっていないから社会の事は分からないなども通用しませんし、一般人相手に商売しているスポンサーは、ゲーマーの置かれている状況ではなく一般人の感覚で企業イメージを大事にさっさと切るのです。スポンサーは、ゲームを応援しているのではなく、販売に利用できると踏んだから投資しているだけだという事が理解されていません。ゲームばかりやっていてと非難されてきたコンプレックス青年が、ゲームでも生活が出来ると言うスポンサーが出てきて、ゲームをしているだけでファンと言う観客が歓声を上げることに勘違いし始めたと言うだけだと思うのです。スポンサーとしては、無作法でどんな態度であっても商売と関連していなければ放置してくれますが、宣伝と言う基準に当てはまらなければ簡単に淘汰してしまいます。誉められたことのないゲーマーがeスポーツなんて煽てられてスポンサーがついて動き始めたならオリンピックと同様にスポンサーの方を向いていなければならない事を知らなかっただけで、歴史の浅さなど関係ないと思うのです。要するに、お金が回っていることの意味など誰もが直接関与していればすぐに分かる事です。自分たちもまた利用されているという事の上で、善意で投資しているのではない事に気づき、プロスポーツとして生き残っていくことを考えなければなりません。使い捨てのプロと言う世界の中に入ったからには、ゲーマー時代の不要として扱われたコンプレックスで粋がるのではなく、一般人の感覚を持たないと次々と消費されるだけだという事に気づくべきだと思うのです。ゲーマーの味方のように解説する偉い人たちもゲーマーを飯の種にしているだけで尊敬などしていない事を知るべきです。スポンサーが付いたという事、プロになったという事が、社会的地位が向上したことにはならないという事も知るべきです。河原乞食と言われた芸能者が、これだけ努力していても社会的地位が向上したのはほんの一部だという事を知るべきです。世の中では、誰でも知っているという事より知らない人の方が権力を握り社会を動かしており、表舞台でライトを浴びている方が実社会では、地位のない使い捨ての兵卒だという事を知るべきです。劣等感の反動で勇み立つと簡単にしっぺ返しをされるという事です。

 

大きいことは良いことだの人たちの話

上納金方式はヤクザと同じピンハネ構造ですが、日本の利益収入のない善意とされる組織では極普通です。多額の寄付者などにより組織を維持する事が多い組織では組織の理念や指針が優先されますが、収入の見込みがない組織は、一人一人の意見を吸い上げ、小さな力を結集して大きな力に対抗するなどと謳い文句を掲げて、会員一人一人から会費を払わせる方式が一般的です。ですから、日本では組織が大きいほど上部組織は贅沢が出来るようになっています。過去には、労働組合の上部組織の専従者が銀座で飲食をしている労働貴族なんてことを言われたように、会員の数さえ大きければ上部にいる人間が贅沢が出来ると言うのが特徴です。今度、京都市PTA連絡協議会(市P連)が、全国組織の日本PTA全国協議会(日P)からの退会を提案しましたが、理事会では、30対5で否決されたという事です。PTAは、保護者だけの会ではなく教員も会員となっていますので、校長まで退会に賛成するなどということはありませんから否決されても誰も驚きはしませんでした。提案文書では「全国組織はPTA会員の意見を広く吸い上げ、国に伝えるとともに、課題を共有し共に考え歩むものだが、そうなっていない。一般会員のための活動となるよう働き掛けてきたが、変化を期待できない」と指摘しましたが、この様な利益の上げられない日本の善意の下部組織は、「労務の提供と資金の提供」しか求められていないという事が理解されていません。下部組織の細々とした様な要望など取り上げられることなどないという事が分かっていません。この退会提案に対して新聞紙上に掲げられていた上部組織の説得内容は、「連合会は行政に物申せる力を持っています。その組織から抜けるということは、行政に意見を述べるチャンスを手放すことと同じです」とまず言います。えっです。民主主義の根幹に関わる選挙制度を教育関係者が否定するような発言です。大きい組織だから、モノ申せて個人ではそのチャンスもないなどと言うのは、いわゆる「陳情団体」としてということですから教育関係者が言うべきことではありません。そんな、圧力団体に所属していなければ行政に物申せないなら独裁国家ですよとしか言えません。さらに、モノ申せると言ったって教育行政に対してPTAとして教育論をまとめる事など出来ませんから結局予算の分捕り合戦に組織が大きいほど有利だと言っているにすぎません。これは教育者たちが、いまだに過去にも圧力団体として、正攻法ではなく、裏で政治的に決着するやり方で、子供たちに教えるべき教育者が行うべきことではありません。こんな組織と陳情団体が政治家と癒着して日本の政治をだめにしている事は周知の事実です。それを具体的に好調が補足するのです。「連合会組織がきちんと機能していれば、エアコン設置を行政に強く要望できます。しかし、要望が実現した時、加盟していない、負担も活動もしていない本校も恩恵を受けることになります。果たして、それでいいのでしょうか? 責任を果たさずに恩恵だけ受けるのは、人の道に反する気もします」と校長の発言とは思えません。こんな間違った考え方の人たちが学校の経営をしているのですから、学校が一番保守的で非民主的だとしか言いようがありません。過去の教職員組合労働組合でありながら政治化してその原点に戻れずに衰退に向かいました。しかし、劣悪な教職員の労働条件、特に給与に関して聖職であっても生活があると戦っていた時、その妨害をした管理職や教員も組合が勝ち取った賃上げを拒否したりはしませんでした。妨害までしたのに給与は上がりちゃんと受け取っています。しかも、その運動をした人は処罰され給与が上がるどころか解雇までされているのに、恩恵だけ貰って人の道に反すると給与の返上や辞めた人は非組合員にはいません。声を上げた人は処罰されてもその声によって改善され反対していた人までもが恩恵を受けるという事は社会では普通にあります。自分の利益の為ではなく、みんなの為に声を上げるという事は普通です。それにもかかわらず校長は、「負担も活動もしていないそれでいいのでしょうか? 責任を果たさずに恩恵だけ受けるのは、人の道に反する気もします」と人の道まで言い出します。組織で圧力団体が得た恩恵はPTAではなく子供たちだという事さえ分かっていません。自分たちが組織して物申すのは子供たちの為ですから、親が運動しようとしまいと子供には関係ありません。得られた恩恵は全ての子供のものだという事さえ分かっていません。しかもPTAのような組織が左傾化しないように、政権はちゃんとお土産を与えて組織維持をしてきましたから、会に入って動員と上納金の提供責任を果たさなくても、エアコンは設置されるのです。校長たちの社会性のなさがPTAをだめにしているとも言えます。今日では、陳情団体の活動方式や圧力団体の裏取引で予算が決まる時代は終わりを迎えようとしてきています。にもかかわらず、確認したところ、平成26年度、日Pに納められた分担金は計約8500万円とのことで、子ども1人10円でも、全国から850万人分も集めればこの金になります。ですから、このお金に群がって利益を得ている人たちは、「もしも、全校がPTAを廃止してしまったら、学校環境に何か問題が起きたとしても、それを改善する手立てを失うことになりかねない。」と脅すのですが、そんなことにはなりません。むしろ自然災害ではない人間が行っている事ですから、もしもの為に大きい圧力団体を維持しなければならない事などありません。陳情団体が8000万のお金を政治家と行政にばら撒いて、エアコンをつける時代は終わったのです。

座敷牢から施設牢なんて管理者辞めろの話

「埼玉、新潟、広島、兵庫各県の公的な知的障害者施設で、一部の入所者を1日20時間以上、外側から施錠した部屋に閉じ込める対応が常態化していることが23日、共同通信の全国調査で分かった。いずれも県立施設や県の外郭団体である社会福祉事業団の運営施設。広島では24時間施錠という人がいるほか、埼玉、新潟、兵庫では長時間の施錠が10年以上続いている例が見られた。『強度の行動障害のため自傷や他害行為があり、安全面からやむを得ないなどと説明している』が障害者を1日23時間閉じ込め、『安全のため』は本当か?」と言う記事が掲載されました。ここで重要な視点は、福祉施設においては誰が利用者を守るかということだと思うのです。入所施設では家族の目が行き届くことはありませんし、現場では何が起きるかは分かりません。障害があって真実を述べられない施設に暮らす利用者の権利と利益を一体誰が守るかということです。どんな目的でどんな人を入所させているのか知っていて現場を指揮しているのは、高い給与を貰っている管理職だと思うのです。現場は、人間同士の営みですから、感情的なアクシデントは多様な形で起きます。それを小さなうちに把握し解決しておくのが施設の管理者の重要な役目だとも思うのです。例えば、生活支援で職員が利用者を注意することは、次には𠮟責になり、次には怒鳴り声にと拡大ないしは激化すると仮定するのは普通ですから、管理者は職員の利用者に対する態度が傲慢にならないように敏感でなければなりません。そうでなければ、利用者の利益を守ることは出来ません。本来は、管理者自身が、個別にちゃんと利用者に会っていれば、長時間拘束されているということなど即座にわかることですし、そんなことは既に虐待になることを職員に指導しているなら、職員もどうすべきかについて問題提起し施設としての課題として検討されているはずです。管理者が利用者の生活の場を巡回、個人面談、聴取をきちんと行っていれば、どんなに重度で言語がなくてもその生活の雰囲気がわかります。服装が乱れて居たり、居室の環境がどうであるかを把握していたなら、管理者としてどんな生活か想像できますし、管理者が巡回しているなら職員の不適切な言動に出会う事も偶然あって注意する事も出来ます。そういった緊張感が施設にあれば、職員も簡単に利用者を閉じ込めておけばいいなどと言う対応などしません。例え利用者が攻撃的な人であっても、簡単に感情が高ぶったからと手を出すことはしません。しかし、何かの機会に手を出したことの振り返りを管理者が対応しないと、後は興奮しなくても手を出すことに対する後ろめたさがなくなっていきます。施設のどんな虐待行為も、初期の段階で管理者が受け止め対応しているなら大事にはならないと思うのです。現場任せで放置するから起きるのだと思うのです。私が言うのは、長時間拘束しているという事実は、虐待に対して鈍感だからできることで、その鈍感な感性を育成したのは管理者の言動であり仕事ぶりだと思うのです。この長時間閉じ込めは、実行していたのは職員ですから加害者は職員ですが、そんな職員を育成している管理者こそ問題だと思うのです。障害が重く家庭にいたときは座敷牢のような生活をしていた人を、支援サービス施設の牢に入れるなんてことを管理者が容認しなければ実現しない事ですだと思うのです。そして、このような新聞報道があっても施設牢を続いているような管理者は辞めさせるべきだと思うのです。障害者を飯の種にして公務員として高給を食むべきではないと思うのです。