選挙があったり、戦争がある度に、識者と呼ばれる人々が「大義」「大義」と言い立てます。昔から何か事を起こそうとするなら、「大義名分」が必要だと分かったようなことを言います。しかし、これまでの歴史の中で、「大義」など示されたことなどありません。歴史で分かるのは「利害」であってその言い訳として本人が語る建前しかありません。だいたい、誰もが納得する意義がある事ならば「大義」などと上段から構えなくても自然体で通じていくものだと思うのです。そう考えると、明確に批判できる根拠がない時に識者は「大義」を持ち出すとしか思えないのです。歴史を見れば分かる事は、評価の高い明治維新だって「王政復古」が大儀だとしたならその後の進展は大義違反でしかありません。日中戦争だって「大東亜共栄圏」が大儀だとしても散々な結果にしかなっていません。戦後の国政選挙でも「大義」が珍重されますが日本の政界に限定した大義しかありません。高市さんは、私を信任して下さいで解散し選挙に勝ちました。「大義」なんか微塵もなくても権力を握りました。権力は、握り取るものだという事を見せつけました。トランプ氏は、大義なんか関係なくイランに戦争を仕掛けました。ネタニヤフ氏は、自分の利害の為にガザの殺戮を行い、イランの要人暗殺という殺人を自慢しています。そのどこにも「大義」などありません。つまり、今では、政治的評価だけでなく物事を動かすときに、表面的な理由や口実として大義を唱えなくてもいい時代に入ってきたと言えるのです。そして歴史は、「大義」よりも「運」の方が勝っている事を証明しています。歴史は結果論ですからどのようにも解釈できますが、どんなに飾り付けかいしゃくをしても人間の「利害」と「運」によって成り立っている事がわかります。「運」のいい奴が得をして「運」の悪い奴は損をしています。どの歴史を見ても運がいい人が運により勝利していることは間違いではありません。或いは「偶然」という人もいますが、宗教的に言えば神に選ばれた人なのです。どんなに努力しても成果が得られない人と、努力もしないのに果実を手にする人がいるという事です。英雄たちに襲い掛かった危険も運よく逃れられたから英雄になれたと言えます。例えば年齢。もっと長生きしていたなら歴史が変わったと言える人物は沢山います。でも「運」なく亡くなられています。日本の戦後の政治の人物たちを見ても、巷で、実力がある、ビジョンがある、大義があると評価された人は何人もいますが、「運がなけりゃ」ポストには付けていないでいるのです。山田洋次監督の人情喜劇映画『運が良けりゃ』というものがありましたが、「うん」が良ければコロコロ回ると歌っています。にも拘らず、識者たちが未だに適正な批判も出来ずに分からなくなったら、「大義がうんぬん」と言う程度の戯言しか言えないから、日本は少しもいい事のない「運」の無い国になってしまっているのです。大義を語り大義を掲げても天の意思を味方につけなければ、大義は成せないという事がこんなに明確になった時代もありません。歴史の中では、暴君と言われ理不尽な言動をして人を虐げた人間でも「運」のいい人は罰せられることなく他界していますし、悪人なのに何の罰を受ける事もなく人より良い生活をしていい墓に入った人は山ほどいます。時として「運」は宗教に利用されることもありますが、新興宗教も山ほどあって「運」のいい宗教屋だけが大きな教団の頂上に立てるのです。そしていう大義は、神に選ばれたからです。そこにあるのは大義ではなく、人間の利害の中で「運」が良かったからにすぎません。