知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

「もうついていけない」を笑うの話

 職員が退職したい理由として「もうついていけないという」事がありますが、普通に「えっ 誰についてきていたの」と聞きたくなります。何故なら、今時会社や上司についていっている職員などいないと思うからです。「従っている」とか、「一目置いている」なんてことはあるでしょうが滅私奉公の時代でも、永年勤続の時代でもなく、社会人として自立しているなら、転任も異動も退職もあるこの時代に、たまたま就労した会社や上司に「ついていく」なんて酒の席でなら言ってもいいでしょうが自分の去就で言うのはほどほどにした方が良いと思うのです。今日ほど、世代間の働き方や生き方の価値観が違う時代はありません。ですから、労働法と契約に基づく労働の提供を淡々と求める関係で、「俺についてこい」なんて言ってしまうと大変な責任が付いて回る時代となりました。「飲みにケーション」とまで言われた勤務後の飲み会的絆つくりが日本社会のポイントの様に言われていましたがコロナ禍によって大した要素でもなかったことも判明しました。仕事の延長で飲むことより娯楽としての飲酒であることの方が精神にはずっと効果があるという事の証明でもあります。第一、飲み食いしながら相手の事を探りあったとしても業務上のコミュニケーションになる訳がありません。どんなに飲み食いを一緒にしても、「そんなこと言わなくてもわかるだろう」という関係になるほどに仕事上で共有できるのは上司の悪口ぐらいで、「そんなこと言われないとわからないよ」という関係以上にはならないのが現代の対人関係だと思うのです。例えば、上司の悪口で多いのに「ころころ言う事が変わる」がありますが、上司の立場からすると何度言っても分からないやつという事だってあります。自己学習しないから一つの事でも、事例や教訓を含めて色んな方向から話せば話すほど、分からないやつには「前と言っている事が違う」という事にさえなってしまいます。とにかく今日のように人手不足で「辞めてやる」が上司への脅しにもなる時代に、教えたから感謝されるなんてことは無くなりました。仕事が出来ないとしたならそれは「教え方が悪い」と言い切られる時代なのです。「挨拶さえも満足に出来ない」などと嘆いている上司に対して、自分を上司の被害者に置きたがり、辞めるとなった時に同僚に「あの上司にはついていけない」と言うのです。でも、辞表を出したら「わかりました」と受け取られるような関係では、部下の職員が思っている程に上司はあなたを評価していなかったという事でもあるのです。仮に部下が優秀なら、ダメな上司にとってみれば優秀な部下が手柄を上げてくれるなら自分の教育の賜物と手柄に出来ますから手放したくはありません。まして自分に共鳴してついてきていると思えるなら自分の利益の為に引き止めます。人が流動化する時代には、人は使い捨ての時代でもあります。経営を考えるなら昔は、一人の労働者の定年までの給与計算をして昇給を決めたりして数十年後の人件費を計算していましたが、数年で辞めることがあれば初任給だけ高くしおけば数年後には新陳代謝する事になります。それは中間管理職にも言えることで、過去には辞めさせることに苦労した人事が大きく変わりました。「こき使いやがって」と職員が愚痴を言うぐらい使える中間管理者も今はなく、年功序列・終身雇用のご褒美もなく、人手不足と言う環境の中で、労務管理も大きく変わりました。転職サイトがより高いところへ行けますよと語り掛けられて自分評価を誤ると前職よりも悪い条件に落ちていきます。労働管理の転換期のなか、人間らしい生活などと言った最低限の生活要求で戦った労働者もなく、賃金に見合う労働の提供であるかどうかさえ分からなくなってきました。この様な労務環境では、自己弁護だけは御得意で、上司を悪者にしてでも自分は頑張っている主張しかしない奴から、「お前にはもうついていけない」と宣言されても「それではさようなら」としか言えない状況もあるのです。仕事を通じて人間は成長しますが、仕事は人生の通過点でしかありません。退職理由に他人を巻き込むようじゃあなたについていく人はいませんよ。 

 

野次馬人間遭遇記の話

第1の巻 ドアが閉まりますと言うアナウンスがあったのに閉まらない。どうしたのかと思っていると「お見送りの方は黄色い線の外に出てください」とアナウンス。迷惑な奴がいるもんだと学生か、会社員かと想像しているのに閉まらない。悪質な奴らだなと勝手に思っていると、開いたドアの向こうを車掌が先頭方向へ走っていく。乗客の誰もがスマホと付き合っている中、野次馬としてはここは座っている場合じゃないと車掌の走って行ったホームへ出てみる。見るとどう見ても電動車いすと言うより、老人の電動カートのような車が電車に向かって止まっている。車掌が横で話しかけているのが見える。バッテリー切れかと思っていたら、階段を勢いよく駆け上がってくる駅員がふたり、三人になって話し合っていると思うと、車掌が走って戻ってくる。アナウンスは、ホームの安全確認を行いましたため、6分遅れとなっていますだった。動き出した電車の窓の向こうに電動カートと二人の駅員が電車を見送っていた。

 

第2の巻  待ち合わせの場所についてみると、止まっている消防車の一部が見えた。ぼやでもあったかとわざわざ出ていくと、「ブぁーン」「ブぁーン」「ブぁーン」「ブぁーン」「ブぁーン」とAEDが作動している音が鳴り響いている。救急隊員の水色の制服に白のコロナ対応不織布を着た人が4人。側に茶髪の女の子が二人、初老の男と、初老の女、駅員が一人。ぐるりと回りに立っている。よくよく見るとその中に誰かが寝ているのがうっすらと分かる。屈んでいる二人の救急隊員は、その人の体に触れているようだ。じっと見ると、腹部の肌が見えた。非常に大きい音が駅への入り口横で発報されていて、周りを取り囲む人がいて、地面には人が倒れている、この状況でも人はちらりとは見るけれど立ち止まることなく通り過ぎていく。野次馬で留まってみているのは我1人。AEDが作動して電気が流れ左腕がふぁーと上がって落ちて見えなくなった。救助する人、見守っている人、野次馬、そして通行する人の画面の中で生死をさまよっている人がいた。

 

第3の巻  電車が混んでいたのですが、子供が何か話している声が聞こえてきます。気になってそっちを見てはいたんですが中々立っている人で見えません。とある駅で人が降りると5~6歳と思われる男の子が独り言を言いながらうろうろしているのです。障害があるなーと思ってみていると駅に止まるたびに開いたドアのぎりぎりに立って閉まるドアを楽しんでいるのです。周りの大人も見てはいるのですが声をかけるのは躊躇しています。電車が動いている間もドアのある空間を独り言を言いながら動いています。迷子かな、所在不明状態なのかと少し不安になって目が離せません。6か所ほどの駅を通り過ぎて立っている人がまばらになった時、その子が一人の女性のところに行ったので母親がいたんだと気づきました。何故なら福祉の関係者ならとても事故の危険が高くてここまで自由にはさせられないと思い親ならだなと感服したからです。

 

第4の巻  電車で座った場所がちょうど開いているドアの対面端で、開いているドアはほぼ階段の前でした。出発のアナウンスがあってホームには「ドアが閉まります」とアナウンスが流れ、ドアが閉まり始めたところへ階段から勢いよく女性が駆け込んできました。間一髪と言う感じで女性は、滑り込み閉まるドアを背中に感じて、まるで達成感のような笑みを浮かべているような顔をしていました。にもかかわらず、すぐに腰をちょっと傾斜しながら周りをじっと見まわすのです。しかも、足を引きずるように座席に座る乗客に訴えるかのようなを見渡すのです。今度は身体の不自由な不幸なおばあさんのような顔目つきをしながら前を年老いた体の不自由な人ですと言わんばかりのしぐさをしながら歩きまわるのです。ところが最近の傾向として寝たふり以上にスマホ閲覧やゲームが多くて誰も気が付きはしないのです。目を合わせた途端に襲い来るある恐怖をみんな簡単に避けられているのです。駆け込み乗車が出来る位なら立っていればいいと文句の一つでもと思う前に、誰も気づかず席も譲る事もないのです。女性は次の車輛へと移っていきました。

 

第5の巻

 始発電車の駅なので、乗ってからも時間はあります。そして、空席もあります。にも拘らず優先席の端に30代の青年がドカッと座り足を組んで余計に場所を取りながらスマホに専念しています。発車時間が迫るに従って座席が埋まっていきます。そこへ老夫婦が乗り込んできました。明らかに妻の方はよろよろしていて夫が支えていなければならない状態です。荷物を持ちながら成年の隣の優先席に向かうのですが実に痛々しいぐらい、ゆっくりと向かうのです。初めに端に妻を座らせて、荷物を置いて一服する様にしてから、荷物を持って膝の上に乗せる様にして座りました。その間、この青年は何の行動もしません。優先席という事すら感じていない様にしか思えません。せめて体を縮める位の言い訳めいたしぐさもないのです。足を組んだママなのです。でも、今日注意するなんてことはご法度です。そんなことをしたらとても危険な日本になったのです。

中国とインドはどこへ行くの話

    一応民主主義の国に入っているインド、専制主義の国と言われる中国、この二国は領土問題を抱えるアジアの大国同士です。人口でも双璧で歴史も長い古豪と言っても間違いのない大国でもあります。今のロシアとウクライナの戦いで欧米はこぞって、民主主義を守る戦いだと言っていますが、ウクライナ社会主義国家に属し様々な事があった国で民主主義国家と言えるのかと言えば今は、そっちの仲間入りを目指している国家だという事の方が正確だと思うのです。仲間に入れてくれと言われた途端に「あなたも民主り主義国家だ」なんて言い出す、民主主義の国とは何なのかと思い国連の現在の国家を見るならば民主主義の国の定義など実に曖昧だという事が良く分ります。実際に権力の移譲もなく専制国家ではないのかと疑うような国家も民主主義の国家に名を連ねている場合さえあります。南米の大国ブラジルは汚職が酷くても権力争いが酷くても専制国家とは言われません。専制国家として騒がれる中国も国家が貧しい時は開発途上国として援助金を受けていて冷戦はありましたが脅威としては低いものでした。むしろ商人たちは10億人を超える人口に向かって1個一円で売れたって10億円だと中国へ売り込みを望んでいました。「清」の時代にヨーロッパが食い物にした中国が開放政策出開かれたなら、柳の下の二匹目のどじょうではと狙って一斉に近づきましたが、返り討ちのようにあっさりと中国に出し抜かれて世界経済の中での台頭を許してしまいました。当てが外れた商人たちは何とか挽回しようと政治まで巻き込んでいますが、どうして「清朝」のようにはいっていません。一方イギリスに食い物にされて、民主主義の国として独立しているインドは、10億人を超える人口がありながら貧冨の差が激しくて国が貧しいという事だけで、資本主義的投資が少なく中々世界の大国への道が出来ていません。ここで分かる事は、民主主義の陣営だと言っても貧乏国は「後進国」の名の元手下にされて国民は世界の下層民として暮らさなければならないという事です。単純に言えば、先進国でバスの運転手は、自分の家があり車も持っています、同じバスの運転手でも後進国なら10時間働いても長屋で生活に追われて暮らしていると言う格差が世界にはあるという事です。この格差は、民主主義の名の元、資本主義経済を武力を含めて制覇した欧米の既得権保護によって成り立っています。強い国が強い権限で自分たちに有利なルールを世界に押し付けているから成り立っています。例えば、ノーベルは、ダイナマイトの発明で財を成したのではなくそれを武器として販売する事で財を成しました。しかし、この200年来強権国の既得権制度の前は、鉄の発明であれ、製紙の発明であれ、黒色火薬の発明であれ伝搬と言う形で模倣され世界に広がっただけで独占的、専制的な利益を生むことは出来ませんでした。つまり今日の、先に発明した者が特許権と言う権利を与えられるルールになった時に、たくさん発明が出来る環境にあった富める国がいつまでも利益を得て、後から来た者は、全く違う方法にしなければ製品のどこかで特許に触れて利益の上前が盗られてしまうという制度体制が出来ているという事なのです。そこには、ヨーロッパの契約と言う過去が反映しています。民主主義と言っている人達の価値観は、キリスト教と言う排他的で攻撃的な背景を持っていることによります。キリスト教は国家権力と宗教が硬く結びついている宗教です。ですから、布教は国家戦略でもありました。中国の道教儒教民族宗教は思想性は高いので攻撃性は低いものです。逆に理を優先する傾向がありますから理屈っぽい感じで権力そのものになろうとはしません。インドのヒンズー教も同様に権力にまとわりつくという事があまり見られません。現代の社会は、過去のような領土の奪い合いよりも、資産によって、お金を生み出していくということが主力ですから、資産を流動的に動かすことに先にたどり着いた者がその利益を確保するためにルールを決めて、従わなければ「経済制裁」を含めた「懲罰」と「仲間外れ」にすることで権益と地位を守っています。つまり、清国もムガール帝国も攻撃性がなかったために食い物にされてしまいました。中国とインドは、カシミールなどの国境・領土問題を抱えていますから仮に戦争になった場合、民主主義国家は、インドの側について民主主義を守ると武器援助し、専制国家の中国に今のウクライナとロシアのようになるかと言えばならないと思うのです。でも、インド商人と中国商人が組んで世界に乗り出すと言い出すと大きな妨害攻撃を始めると思うのです。つまり、世界は民主主義などと言う曖昧な事で動いているのではなく、支配する国と支配される国の力関係で動いているという事です。その力関係が大きく変われば、今の世界秩序のルールも変わってしまうという事です。

相談支援員の相槌は不愉快だの話

 事例が、少ないと言うのは事実ですが、相談支援の電話対応を聞く機会が何回かあって感じた事です。それは、相談員が電話の向こうで話している相談者に「うん、うん、うん、うん、うーん……………」と相槌を打っているのが聞こえたことです。「うん」ではなくて「はい」でしょと子どもの頃注意されて来た者としては、とても耳障りにしか聞こえないのです。気になった切っ掛けは、同乗していた車の中で運転していた方が身内の事で相談支援事業所の相談員と話していたのを聞いた時です。運転中でしたから、ハンズフリーで車内に音声が出ていたので聞こえていたのですが、とにかく相槌の「うん」が多くて雑音状態なのです。しかも、聞こえてくる声は明らかに運転者より年下としか思えないのです。とても、熱心そうに聞いている感じですが、部外者からすると「分かっているのかな」と疑りたくなのような「うん」の連発なのです。その時は変わった個性の人だなと思っただけだったのですが、今度は年配の相談支援員が、相談者と電話で会話しているところに出くわしたらやっぱり「うん」を連発しているのです。同じだと思っていたら、30代の方もやっていて、これは「業界用語」になっているのかと思ってしまいました。通常の会話でも、「頷き」と「相槌」はとても重要な表現方法ですが、「頷き」と「相槌」にも礼儀と作法があるぐらいは業界だとしても配慮すべきだと思うのです。相談員としては、基本、傾聴するとされていますが、無反応・無表情では話が進みませんから「頷き」や「相槌」など小道具として役立てると言うのは技能でもあると思うのです。しかし、この「頷き」と「相槌」はとても厄介で相手に誤解と錯覚を与える元凶言語動作でもありますから「うん、うん」と言って頷いていると相手は全て了解されていると誤解・錯覚してしまいます。ですから相手は、話し終わってから否定的な事を言われると、より強い反発心や不信感につながります。逆に、頷きも相槌もないと「不安感」持たせることが出来ます。つまり、会話の中では「潤滑油」のように活躍しますが相手にとってはエンジンオイルだったり、ブレーキオイルだったりと変換できてしまうものでもあると思うのです。この変換が大きいと感情的になり易いのです。表現動作・言語は、心理的な作用が強いので、頷きも相槌も丁寧に行わなければ事実が正確に把握できなくなると言う欠点があります。交渉と言う場面では相当重要な表現とされているのに、福祉のような場面ではこんなに安直に使われているのかと感じてしまいました。どんな会話でも、相手が同意していると心地よいもので、反対に否定的だと不安になります。ですから、相槌や頷きは、会話の武器とも言えるものですし、対人関係の重要な表現方法です。それだけに相談支援と言う言葉で対応する職業者は、表現方法でもプロになる必要があると思うのです。普段の会話そのままに「うん、うん」と一生懸命聞いています態度は、言葉を通じた職業とはとても思えないのです。日本には、「話芸」があったり「言霊信仰」があるように言葉に対しての拘りがあります。性別、時代背景、生活歴などによって人は全く違った価値観を持っています。例え福祉の援助を必要とする人であってもそれは変わりません。相手に。対する敬意が有るなら、相談者のペースで「うん、うん」相槌を打っているのはあまりにも軽薄だと思うのです。自身の経験では、相談支援員の資格取得研修を受講し批判したために東京都に排除されましたが人の人生に関わる福祉の相談員のレベルが低いのは会話技法すら教えない資格研修にもあると思うのです。耳障りで不愉快な、「うん、うん」を聞きながらでも相談しなければならない人々はつらい事だと思うのです。

加害者が被害者にすり替わり新たな被害者を生んだ話

       中途採用の新任の職員が、研修中に断りもなく他の部署にチョイ抜けを一日に三回ほどしました。抜けて来られた部署が嫌がって上司に報告した事でこの新任職員は注意されました。すると今度は当日研修担当だった別の職員に猛烈に因縁を付けました。初めは相手をしていた職員も先輩として勤務中だからもう自分の持ち場に帰れと言い自分もその場から離れようとするのですが、追いかけてくるので手で制止しそれ以上来るなと言ったのですが、新任職員は制止した手が体に当たり押されたと110番通報をしました。やってきた警察官は、モニター画像を確認したうえで終了としてしまうのですが、新任職員は暴行を受けた被害者と納得せず警察に被害を訴え続けます。そして、新任職員は被害届を出すのです。しかも強硬に今度は警察に食らいついて被害を訴えるのです。被害届が出されれば、警察は一通りでも捜査しなければなりませんし、先輩職員に同情しつつ捜査をして検察に送付しなければなりません。検察もいわゆる書類送検されれば起訴するかどうかの検討はしなければなりませんから、当然先輩職員は検察にも呼ばれます。この事案の流れを見ていくと、加害者としか第三者的には見えなくても居直ったら方が被害者かのような振る舞いをして押通る現代を表していると思うのです。何故なら、自分が勝手に新任研修中に短時間とはいえ中抜けして出かけた先の職員が嫌がって通報されたことなのに、勤務中に当日の研修担当者に文句を言った挙句に、反論されると執拗に追い掛け回すので仕方なく制止したにも関わらず、「押された」と被害者になって警察を呼ぶのです。まるで昔のヤクザの手法としか言いようがありません。「とにかく手を出したらだめ」と言われますが、相手が興奮していて迫りくれば無抵抗ではいられない場合はあります。そんな時、経験でもあるのか触られるのを待ってましたとばかりに警察を呼んで被害者へとすり替わるのです。昔のヤクザはそこで金銭要求をしていましたが、この新任職員は一体何を目指していたのか分かるすべもありません。上司から注意されたことへの意趣返しであっても、職場で勤務中に警察を呼ぶなんてことまですればそれこそ多くの職員の不評を買う事は明白で自分の就労継続に大きな弊害になる事など普通に分かると思うのです。それでなくたって新任職員がトラブルを起こして目立つことは他の職員から「あぶない奴」と偏見を持たれる事は推測できる事です。個性としても、そもそもの原因が業務上の怠勤の事ですから本来なら恥ずかしい事と思っていただきたいのに、自己主張をおおっぴらにされると周りは困惑してしまいます。せめて新任研修中ぐらい普通に勤務して欲しいと誰もが思うのですが興奮してこれだけ全体のバランスを欠く対応をすると就労は困難だと思わざるを得なくなります。結局、判断されたのは試用期間中の本採用取り消しでした。すると今度は、労働基準監督署に出向いて、暴行するような職員がいて対応していただけなのに解雇としたことは不当だと訴えたのです。権利の主張としては理解できますが、これでは周りを巻き込んで大騒ぎにして一体どこで終着点を見つけたいのか、トラブルを収束させる気はないのかと不安になってしまいますし、事態の成り行きに益々困惑してしまいます。話し合いと言っても、採用には及び腰になっていますし、相手は「こっちは生活掛かってるんだ」となってしまでしょうから、とても設定の使用がありません。とにかく、他の仕事はそっちのけにして資料を持って労働基準監督署に出向くしかありません。この一連の流れの中で、本人は試用期間中の解雇となりますし、先輩職員は暴行罪で警察の事情聴取を受け、有休をとって検察の聴取のため検察庁へと引き回されます。事業所はと言うと労働基準監督署に呼ばれそれとなく注意を受けます。労基に提出する資料を作成したり本人への文書を作成する事務担当者は、多忙であっても他の業務そっちのけで優先してやらなければなりません。本人が抜け出した原因となった部署の女性は何かされるかもしれないので通勤が怖いと言いだす始末です。誰も良い事のない事態です。なんでこんなところまで拡大しちゃうのかなと関係者はくたびれただけでした。そして、この事案で思う事は、自分の行為が出発点なのに、居直って権利の主張を強くするなら、周りをどんなに振り回しても加害者の主張に合わせて事態が進むと言う事です。自分の思い込みで因縁をつけている様な事でも、被害者の如く振舞う事を誰も是正できないという事です。この様な人に関わると、何をされるか分からないから何もしない事が一番安全だという事に落ち着いてしまう事です。この一連の騒動でも、誰も良い事がなかったとしか言いようもなく、関わらない様に避ける技能が必要だとなってしまったら研修なんてできるはずもありません。加害者の暴走さえ抑制できない位の権利社会なのかもしれません。

無人販売の窃盗被害ネット動画は犯罪者を誘導した罠仕掛け宣伝ではの話

 冷凍餃子の無人販売所を運営する会社が防犯カメラの映像をインターネットに流して怒りを強調したり、肉の無人販売所が同じように窃盗被害現場映像を晒して、犯罪者の画像をテレビにまで流させていることは、案外「宣伝の為」わざとやっているのではと疑われても仕方のない事だと思うのです。それは、商売をしている人が、世の中を善意あふれる社会で万引きなどありえないなんて思っている訳がないのに、テレビのインタビューで怒っているのにはもっと違和感があるのです。盗みは古来から人間社会の犯罪として存在してきたことは誰もが知っている事です。人の物を盗まないは小さい時から延々と諭されている事項でもありますが、現実には延々と続いている犯罪でもあるのです。だから、商売をする人は盗まれない様に店員と言う投資をしています。つまり、通常の商売では防犯費用を払う事で、商品を守っているのです。ところが冷凍餃子屋さんも肉屋さんも何を勘違いしているのか販売と言う商売を行っているのにこの防犯費用を負担しなくてもいいほど善意に溢れた社会だと思っているのです。そんなわけありません。落し物が届けられる社会であると言うのは商売ではないからで、商売として「利益」を求める限り「不利益」に対応するのは商売者の責任で行う事は当然のことです。犯罪として窃盗がある限り商品の防衛は社会の法律と共に自己責任も伴うという事を認識しなければならないと思うのです。近年では、農作物の窃盗がネットに流れている事から同様な被害者感覚になったのかもしれませんが、農作物に対しての生産物管理と商売品としての商品の管理は異なるのです。簡単に言えば、農作物は流通経路がある程度確立していますので販売は簡単ではありません。個人として盗むとしても、成育の状態などが見極められなければ盗んでも価値ある物とはなっていない場合もあります。商品は、既に完成したものですから、自分で食べることも、知人等へ転売しても可能な価値を持っています。又、無人販売と言う方法は、農産物で市場には出荷できないようなものを都市部に近く住宅地の中の農家が、「小遣い稼ぎ」的に発生したもので商売としての範囲ではありません。最近の「道の駅」などの農産物販売は明確な商品としての販売で、それなりの商品として流通させていますから一緒には出来ない事です。さらに人ととしての関係性では、生産者の農家と地域の購入者と言う顔見知りの関係での無人販売で、不特定多数の見知らぬ人を対象とした商品の無人販売ではありません。野菜の無人販売は、冷凍餃子や肉などと違い、販売価格においても、販売総額においても店員の人件費どころか自分が店番する事の方が効率が悪い程度の金額だから無人販売なのです。それでも万引きや窃盗が気になる人は、支払い箱に鍵を付けたり、ロッカー方式で現金を入れると鍵が開くなどの工夫をしています。商品を商売として利益を求めて販売するには、必要経費として商品管理や支払金の管理などに支払うべき負担は当然のことで、それを行わなければ不利益が生じても仕方のない事です。逆に言うなら、相当の価値あるものを無人で置いておくことの方が犯罪を誘導する不適切な行為としか言いようがありません。普通に店員がいたり、自動販売機のように現金を投入しなければ商品が出てこない様に投資しているなら、万引きしようと言う感情など生まれません。しかし、お金もなく腹が減っていれば転売してでも空腹を満たしたい人には魅力的な場所になってしまいます。そんな人を引き寄せるような対応は「罠」を仕掛けて被害者を装って宣伝しているのかと疑われても仕方のない事です。人には「出来心」と言う日常ではやらない事も、環境と条件が整っていると犯罪を犯してしまう事があります。そのような誘導となるような行為を行う事は、本来慎むべきことなのです。それを敢えて行った挙句に、誰も無人では盗難に遭うと想定出来た窃盗が発生した途端にその画像を公開するような行為は、被害者になって商品の宣伝しているのではないかと疑われても仕方がない事だと思うのです。無人販売では、普通に万引きは発生しています。それでも「憐れみ」から不問にしている事でもあることを知るべきだとも思うのです。それが出来ないのなら、誘発行為となる無人販売など行うべきではないと思うのです。

福祉そして相談支援のレベルの話

     知的障害者の相談支援制度そのものに批判的な意見を持っているのですがこんな事例を見聞しました。知的障害者グループホームのサービス管理者がそこを利用する若い女性に衣類のプレゼントをしたりして最後は性的関係を成就しました。女性はその事はグループホームの管理者にも話していましたが、管理者は毅然とした対応はしませんでした。女性は就労先の福祉事業所でその事を話し妊娠していたら困ると相談しました。就労先の福祉事業所は、直ちに性的虐待に当たると通報しました。通報による調査が行われているときも、加害の男性は女性に対し、同意だったと言うようにとメールを送っていました。女性は結婚してもいいと言い出していましたが、加害のサービス管理責任者の男性にはそんな気はありません。結果として被害の女性は他の施設へ緊急入所となり、加害のサービス管理者は解雇されましたが逮捕されたわけではありません。実際人手が足りないと言われる今日の福祉事業では、サービス管理責任者は確保しなければならない地位ですから資格を持っていれば、働く場所は引く手あまたです。犯罪歴にはなりませんから資格は有効で、本人が言わない限りこの事が発覚する事はありません。仮に発覚しても、誘われたと言い訳する事も可能ですし、同意だったという事も一方的に言えますから、就労に不利な条件とはならないと思われます。それに、この様な事例では被害者が特定されない様に、再就職先からの問い合わせがあっても関係者は回答しないマル秘扱いとなってしまいますから、実際には加害者の方が保護されてしまうのです。ですから加害の男性が再び就労した事業所で知的障害の女性に性的虐待となるような事をしても初めてと主張することだって可能なのです。福祉事業所に暮らすことになる若い女性は家庭的に何らかの問題を抱えている事が見られます。つまり、家庭的に問題がなければ若い女性を家族がリスクを考えて福祉事業所での暮らしを検討しないという事があります。それだけに、恋愛ごっこに仕立て優しくまとわりつけば知的障害の女性など何十歳と年が離れていても簡単にだますことは可能です。だから保護が必要なのです。だから、管理者も必要なのです。職員の善意だけでなく、組織としての管理体制による保護が必要だから公金を使用しているのです。この事例では、障害者を守る為の福祉事業所で、組織として対応しなければならない管理者が、自分の部下である現場責任者が障害者を守ることなく性的欲望の対象者として関わっている事を認識しながら制止したり適正な対応をしていません。通報されたことで、現場責任者を解雇しましたが、管理者は自分の責任は何も感じていません。さらに、知的障害者が福祉事業所を利用するには、相談支援事業所を介入させる必要がありますからこの女性もこのグループホームの入居を紹介した相談支援事業所の登録者として、今後の身の振り方についてこの相談支援事業所が行う事になります。その相談支援事業所の女性職員は、被害を受けた女性に対して、新しいグループホームを検討すると言いながら、元のグループホームに戻る事も選択肢の一つと提案したのです。その理由は、グループホームの管理者は苦労して事業を立ち上げ努力しているとてもいい人だからという事なのです。性的被害で一番鈍感なのは同性なのですが、この相談員には同じ女性として性的被害とは何かが全く理解できていません。いい人という事が障害者を守るという事ならこんな事件は起きなかったはずなのです。自分が雇用した現場責任者が起こした案件ですから、その責任を感じているなら具体的な対応策や見通しなどを提案し今後は大丈夫と言う事ならまだしも「苦労しているいい人」だから戻りませんかと安直に被害者に提案できる軽さなのです。相手の管理者としては、被害の女性も客の一人ですから、新しい客を探すより慣れている本人に戻ってくれることが経営的に楽です。だから、戻って欲しいと希望するのは当然ですが、相談員がそれに安直に乗るのは人の人生に対してあまりにも無責任だと思うのです。恋愛に関心の高い世代の女性は過敏で心情不安があってサポートが難しい場合がありますから人的環境はとても重要です。それを確認せずにグループホームの選定をして空いているからと提案しそうな感じなのです。しかし、この相談員が問題かと言うと、このレベルが福祉では普通なのです。知的障害者は、言葉に左右されやすい特性がありますから、相談員に人の人生に関わっていると言う自責の念などなくても適当に何とかなってしまうのです。身体障害者精神障害者のように相談員に苦情や反発をしたりはしない事を良い事に井戸端会議の感覚で対応を考えてもまかり通ってしまうのです。老人の介護保険制度と同じように保険制度へ障害者施策も持っていきたくて相談支援制度を政府は導入しているのですが、その実態はお粗末すぎるほどなのです。その証明が知的障害施設の虐待報道だとも思うのです。何故なら、相談支援員は、モニタリングと称して公金を貰って本人に会って色々聞いていますし確認もしています。ここで、相談員が気が付かなければならないのです。自分のケースが虐待されていたとしたなら怒らなければなりませんし、虐待のあるような福祉事業所を紹介した自分の責任を自覚しなければなりません。まして事件のあった元の場所に戻す提案など出来るはずもありません。自分が、紹介した福祉事業所で虐待が発見されたなら知らなかったでは済まされないという事さえ自覚されていません。相談者として金銭を貰って仕事として行っているのにこの相談員のように預けっぱなしを反省も出来ず、自分が知的障害者を守れなかったと言う自責もなく、結局は加害者との関係を是正できなかったことを失敗とも認識できていません。そして事件が発覚すると相談員は守護者の如く振舞うのですが、相談者のあなたがその一端を握っていたから今回の事案が発生したと誰も責めることがありませんから、他人事のような処理しか出来ないのです。虐待事例だけでなく、今の福祉の現場は、株式会社の登場を含めて、人材としても、このレベルだという事に落ち着くしかないのです。