知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

大義なんて歴史の中にあった事は、ありませんの話

   選挙があったり、戦争がある度に、識者と呼ばれる人々が「大義」「大義」と言い立てます。昔から何か事を起こそうとするなら、「大義名分」が必要だと分かったようなことを言います。しかし、これまでの歴史の中で、「大義」など示されたことなどありません。歴史で分かるのは「利害」であってその言い訳として本人が語る建前しかありません。だいたい、誰もが納得する意義がある事ならば「大義」などと上段から構えなくても自然体で通じていくものだと思うのです。そう考えると、明確に批判できる根拠がない時に識者は「大義」を持ち出すとしか思えないのです。歴史を見れば分かる事は、評価の高い明治維新だって「王政復古」が大儀だとしたならその後の進展は大義違反でしかありません。日中戦争だって「大東亜共栄圏」が大儀だとしても散々な結果にしかなっていません。戦後の国政選挙でも「大義」が珍重されますが日本の政界に限定した大義しかありません。高市さんは、私を信任して下さいで解散し選挙に勝ちました。「大義」なんか微塵もなくても権力を握りました。権力は、握り取るものだという事を見せつけました。トランプ氏は、大義なんか関係なくイランに戦争を仕掛けました。ネタニヤフ氏は、自分の利害の為にガザの殺戮を行い、イランの要人暗殺という殺人を自慢しています。そのどこにも「大義」などありません。つまり、今では、政治的評価だけでなく物事を動かすときに、表面的な理由や口実として大義を唱えなくてもいい時代に入ってきたと言えるのです。そして歴史は、「大義」よりも「運」の方が勝っている事を証明しています。歴史は結果論ですからどのようにも解釈できますが、どんなに飾り付けかいしゃくをしても人間の「利害」と「運」によって成り立っている事がわかります。「運」のいい奴が得をして「運」の悪い奴は損をしています。どの歴史を見ても運がいい人が運により勝利していることは間違いではありません。或いは「偶然」という人もいますが、宗教的に言えば神に選ばれた人なのです。どんなに努力しても成果が得られない人と、努力もしないのに果実を手にする人がいるという事です。英雄たちに襲い掛かった危険も運よく逃れられたから英雄になれたと言えます。例えば年齢。もっと長生きしていたなら歴史が変わったと言える人物は沢山います。でも「運」なく亡くなられています。日本の戦後の政治の人物たちを見ても、巷で、実力がある、ビジョンがある、大義があると評価された人は何人もいますが、「運がなけりゃ」ポストには付けていないでいるのです。山田洋次監督の人情喜劇映画『運が良けりゃ』というものがありましたが、「うん」が良ければコロコロ回ると歌っています。にも拘らず、識者たちが未だに適正な批判も出来ずに分からなくなったら、「大義がうんぬん」と言う程度の戯言しか言えないから、日本は少しもいい事のない「運」の無い国になってしまっているのです。大義を語り大義を掲げても天の意思を味方につけなければ、大義は成せないという事がこんなに明確になった時代もありません。歴史の中では、暴君と言われ理不尽な言動をして人を虐げた人間でも「運」のいい人は罰せられることなく他界していますし、悪人なのに何の罰を受ける事もなく人より良い生活をしていい墓に入った人は山ほどいます。時として「運」は宗教に利用されることもありますが、新興宗教も山ほどあって「運」のいい宗教屋だけが大きな教団の頂上に立てるのです。そしていう大義は、神に選ばれたからです。そこにあるのは大義ではなく、人間の利害の中で「運」が良かったからにすぎません。

 

久しぶりに聞いたメタボの話

 太っているだけで「メタボ」とはやされたほど流行語となったメタボリックシンドローム(略してメタボ)が過剰な反応だったと落ち着いて、日常のテレビや報道では聞かれなくなって久しいのですが、人間ドックの検査に行って突然再会することが有りました。2000年代後半ごろより高血圧や糖尿病などの健康と医療費の問題が上がった時にやり玉に挙がったのが肥満で、メディアなどで俗に「メタボ」と軽蔑的に、単に太っていることや、腹囲が大きいだけで、あたかも運動もしない食欲の旺盛、怠惰で生活規律のだらしない人並みの評価がされたものです。それが、誤用だとされるまでには時間がかかりましたが、だんだんに聞かれなくなって忘れていましたが正しい意味の「メタボ」は元気にしていました。メタボリックシンドロームは、単なる肥満ではなく、内臓脂肪型肥満に複数の生活習慣病リスクが重なった状態とされ、早期発見と生活習慣の改善によって疾患予防に効果がある事は間違いないのですが、瘦せろ攻撃のネタにされた時は嫌悪したものです。齢を取ればみんな太って来るさと居直ってもいました。あらためて調べてみると、メタボリックシンドロームは、内臓肥満に高血圧・高血糖・脂質代謝異常が組み合わさることにより、心臓病や脳卒中などになりやすい病態を指すだけで、単に腹が出て足元が見えないだけの腹囲だからメタボとは言わない事だと世間もやっと理解してくれたようなのです。さらに、メタボリックシンドロームの考え方は国によっても異なるらしく、世界的には危険因子の重複を基盤にする考え方が主流なのに、日本では、内臓脂肪を基盤とした考え方を採用しているという事です。ですから、日本で制度として行われている「特定健康診査・特定保健指導」も内臓脂肪が多いとメタボと指摘されてしまうという事です。同じような基準に、BMIというものもあって22を標準体重とし、25以上を肥満、35以上を高度肥満と定義していますが、BMIは、筋肉量や体脂肪量を考慮せず、身長と体重のみで計算されるため、一つの目明日にはなりますが、必ずしも体脂肪の蓄積度を示すものでもない事が少しずつ定着してきています。兎に角、医療は、時には医療制度との絡みでセンセーショナルな広報が行われ健康志向が高いところへ刺激的に投げ込む悪者づくりが行われますから、大袈裟なことまでが医学的に正しい事だと思い込ませます。実際には医学界でも見解が分かれているようなことまでが医療費軽減の為に悪役づくりがなされ肥満はその攻撃の中心に置かれ続けているのです。悪玉コレステロールだって身体維持には、必要な存在ですが多いと問題と言うだけで先入観を持たせる為に名前に悪玉などと付けて脅しにかかります。誰もが健康で長生きしたいからデマのような広報にまで敏感に反応しています。誰だって、適度な運動、バランスの良い食事、体重管理が大切だぐらいは意識しています。しかし、現実の生活では、療養生活をしているものではありませんから、運動不足があったり、過剰なカロリーの摂取が続いたり、「わかっちゃいるけどめられない」という生活をしています。医者や管理栄養士だってそん生活をしているとは思えないのです。実際検診の総合判定をしていただいた医者も十分太っている部類だと思いました。それに、医療費の抑制効果が実際のところどれほど効果があったかは疑問で、医療費は常に右肩上がりになっています。形から非難するのも一つの方法でしょうが、医学内容は正しく現実生活に適応する方法を推奨する方が、実現率を高めると思うのです。

警察通報しかできないなら児相はいらないの話

 有名人の家族問題で流行のチャットGPに相談したら児相が良いと言われ、児相に相談したら警察に通報されて、父親が逮捕され、全国にプライバシーが蒔きちらかされたという事件が起きました。本来児相は、まず「話を聞く」傾聴から初めて秘密は守りますを看板にしています。だから、悩みを抱え込まずSOSを出してもらう事で、社会の最小単位の家族や親子などの問題にも対応できますとしています。民事未介入という警察の原則に対しても、児相と連携する事で家族の問題だと拒否する加害者に立ち向かう事が出来るような整備もしています。その一方で近年、公務員である児相職員は、昼間しか対応しないという仕組みにしてしまいました。あまり知られていませんが、そのほかの時間は民間業者に委託しているのです。今回の事例でも児相の職員は関わらずに、連絡を受けた民間業者の職員が責任転嫁のようにただ警察につなぐという事をしたから発生したと言えます。そもそも、非行であれ虐待であれ発生しやすいのは昼間より夜間です。人目が少ないのも夜間です。「SOS」だって昼間ならより多くのサポートが可能です。にも拘らず、児相の職員は昼間出勤して、夜はいないのです。つまり、専門職として正規職員は、事案が発生するような時間には家で寝ていて、疑似専門職に任せきっているのです。ですから、相談した後の展開をある程度見通して、秘密を守り、相談者の意思が尊重されるという事があやふやで、今回のように、秘密は公開され、相談者が誰かも公開され、懲罰として父親は名声と職を同時に失うという事が簡単に起きてしまう仕組みになっているのです。社会では児相の責任を問う論調より庇う論調ばかりですが、この事例を知って誰が児相に「SOS」を出したら守ってもらえると考えますかと言いたいのです。この事例は児相が普段広報している事が「嘘」だと知らしめたと言うより他に表現できるものではありません。どこに「安心して相談できる」場所だと言えるのだとしか言えません。過去の話になりますが、過去の児相職員はまさに24時間体制で子供たちに接していました。ですからこんな事件が起きたのなら、まず駆けつけて長女の話を聞いたはずです。制度というものは形にすぎません。運用するのは人間です。その運用する人の労働条件が優先されて、弟子しか対応しなくしてしまったのが業務委託制度です。何の権限もない弟子は責任を問われることが怖くて警察に通報しかできなかった事で五日が大きな犠牲を強いられたのに、反省もしない児相を問わない報道もまた若い人が児相に相談しない、児相を信用しない事への加担者になっているとしか言えないと思うのです。相談した結果の大きさに長女を庇う意見は報道されますが、長女をそんな立場にしてしまった児相の業務委託対応という方法が問題ではないかとなぜ問わないのか不思議です。児相への相談は第一に「秘密が守られる」という保障が一番になければなりませんし、「相談者が守られる」という保障が相談者が実感できる者でなければなりません。そして、対応も相談者が加害者や世間から報復や非難を受けないように慎重に処理しなければなりません。ところがこの事例では、全国に拡散し有名にさせてしまいましたから、普通に考えても二次被害が発生することなど誰でも想像がつきます。相談者の境遇は大きく変わり自己を攻めなければならない状況に追い詰めるものです。相談者が、相談しただけで世間に謝罪文迄公表しなければならなかったのは児相の対応が間違っていたからなのに、児相は一度も謝るどころか会見もせずだんまりで責任も反省もしないのです。こんな児相に誰が相談できるとおもいますか。制度があっても心がないなら、「相談してください」なんて言うべきではありません。こんな程度の児相などいらないとしか言いようがありません。

 

逃げるネタニヤフの道連れが戦争だったの話

  イランという国は、数千年にわたる歴史を受け継ぐペルシア人の国として、長い歴史のある国として現代がどうであろうと日本人のように偏屈な歴史観を強く持っていると思うのです。つまり、現代権力者がどうであれ民族として優秀なのだというアイデンティティを持っていると思うのです。それは日本人が日本語について説明は出来ないけれど世界に冠たるものだと確信しているように、イランでは、ペルシア語という独自の言語を保持していることも、大きな特別意識の要素となっていると思うのです。歴史的には、ユダヤ人に対しても優位な感覚を持っており人類の古代文明から始まる民族としての誇りも高いと言えそうです。アーリア人の末裔であり、ペルシア帝国の末裔である我らはという感覚は民族としてのアイデンティティは想像以上に高揚するものだと言えます。ですから長く国を持つこともできなかったユダヤ人が、旧約聖書にすがって、シオニズム運動により「ユダヤ人が祖国に帰る運動」を行っていたことにも冷ややかでしたし、国が出来ても非難的でした。一方、イスラエルの建国も、決して一枚岩ではなく、宗教的、歴史的、 政治的な要因が複雑に絡み合っています。厳格なユダヤ教の教えでは、「ユダヤ人が祖国に帰れるのは、神が遣わすメシア(救世主)が現れたときだけ」とされていますから、メシアが現れていない今、神ではない世俗の人間が祖国を作ったりするからこんなことになるんだと宗教を信じている人が言ったとしても不思議ではないと思うのです。ただ、この戦いは神の意志ではない世俗の宗教戦争なのだとみると簡単な構造ではあると思うのです。つまり、トランプ政権のピート・ヘグセス国防長官は、2020年に「American Crusade(アメリカの十字軍)」と題した著書を出版し、本人の体には、極右が信奉する十字軍時代の象徴である「エルサレム十字」と、十字軍のモットーであるラテン語のフレーズ「Deus Vult(デウス・ウルト、神がそれを望まれる)」が刻まれているのは公表された事実です。仮にイランを降伏させることが出来れば、ヨーロッパから約7~9回行なわれた十字軍が聖地奪還という目標を達成できなかったことからみると、アメリカの十字軍は歴史に残す偉大な聖戦の勝利者となる事になります。アメリカの十字軍が歴史上はじめてその崇高な目的を果たすことになると思うとわくわくしても不思議ではありません。確かに過去の「十字軍(クルセイド)」も略奪や破壊行為ばかりの強盗のようなものでしたから、アメリカ十字軍がイランの国土を無差別に爆撃しているのも同じことかもしれません。アメリカ人に理解できないのは、長い歴史を持つ民族のアイデンティティだと思うのです。どんなに瀕しても迎合できない民族の歴史だと思うのです。それは、内部に大きな矛盾を抱えていても外敵には一丸となってしまう偏屈な歴史観だと思うのです。それは日本人だけでなく、中国人も、ゲルマン人も同じだと思うのです。アメリカが武力だけの評価で戦争を始める時、ネタニヤフ氏が省き隠した一番の悪事だと思うのです。ましてや「聖戦」などと言う宗教戦争にしてしまったら、死して守らなければならないものとなってしまいます。  アメリカ十字軍としてペルシャを成敗するのは素晴らしい事でしょうが日本人が負けても従う事のなかったアイデンティティが復活するだけの事になるだけだと思うのです。これは宗教戦争なんかではなく、ネタニヤフ氏の保身に巻き込まれているだけの戦争でしかないと思うのです。その意味で、アメリカ人、ユダヤ人は、正気に戻るべきだと思うのです。

厚労省が使っていいのか「障害者雇用ビジネス」の話

   福祉の事業者として沢山あった公立公営に対して、職員の給与が高く、職員が多い割には社会福祉法人より効率が悪い、意思決定が遅い、創意工夫が足りない、競争の欠如等々の難癖や言い訳の挙句に多くの公立直営事業所が舞台から降りていきました。そして数年後、今度は社会福祉法人に同じ言葉を投げかけて、民間企業の社会福祉事業への参入を奨励しました。この結果、福祉事業も、「福祉の準市場化と障害者の商品化」が急速に進むこととなりました。福祉事業では、貧困ビジネスと呼ばれる、生活困窮者の生活保護受給費や医療費無料制度の公費援助を悪用した生き血を吸うようなビジネスモデルがあって、公費が、援助者に100%活用されていない事を知っている厚労省が今になって同じことを障害福祉で行っているというのが現状です。貧困ビジネスが成立する背景には、生活困窮、制度の複雑さや情報格差があり、高齢者、単身者、ひとり親家庭などが巻き込まれやすく、こうしたビジネスは、あたかも社会貢献のように装うことで正当化を可能にして、結果として、貧困層は真の支援を受けられず、永続的な困窮状態に閉じ込められることになっています。この様な「搾取型ビジネス」は、社会的支援の制度を拡大解釈したり、行政を手玉に取るような方法を駆使して利益を得る構造を作り出していきます。障害者雇用では企業が法定雇用率は達成したいが、障害者を雇用するのは嫌だという本音を実現できるモデルとして、障害者雇用「代行ビジネス」が営業開始しました。事業者が用意したサテライトオフィスや農園などを企業に貸し出し、そこで働く障害者を紹介・サポートする仕組みは、「場所貸し」雇用とも言われます。厚労省の調査(10月末時点)によると、代行事業者は46社、利用企業は1800社以上、就労する障害者は1万1000人以上にのぼるまで、拡大しています。これらの利用企業の多くは「法定雇用率の達成」だけを目的として、基本障害者雇用には反対であることは明確です。健常者に交じって障害者が働らくことは困難である、障害者の労務管理なんてとても出来ない、障害者は生産の足手まといであり戦力にはならない、等々のこれまでの意識のままに雇用したくない企業の要望に応えたビジネスが繁盛しているという事です。それだけに、このビジネスでは、障害者だけを集めて隔離していると言われる障害者施設と変わらない仕組みですが、給料は働かなくても最低賃金が企業から「捨扶持」のように支払われます。このシステムには、障害者と健常者との共生などと言う考え方などありません。こんな雇用率達成の方法を理念をないがしろにする障害者雇用企業を否定しなければならない厚労省でさえ、「障害者雇用ビジネス」と言わざる負えないほどに急拡大しているという事です。仕方なく、厚労省は、「障害者雇用代行ビジネス」の適正な運営を促す新たなガイドライン(指針)を策定するとしていますが、ある意味、自分が蒔いた種でしかないのに、変種が出てきたから刈り取ろうとしていますが、根は残っている事が問題です。つまり営業を認める事が間違いなのに、「障害者雇用代行ビジネスの適正な運営ガイドライン」などと根絶するのではなく認めるけれど条件を付けるだけという本質をゆがめる対応をしようとしています。もともとこの雇用率は、企業にどれだけ言っても障害者雇用をしないから、法律で罰則までつけて促進せざるを得ない位進まなかったという事があります。ですから雇用は手段であって原点は、「障害の有無にかかわらず共に働く」であり「雇用管理の実践・経験値の上積み」であり「企業側(経営層・従業員等)における障害理解」であり「障害者の就労への機会の拡大」であるはずなのです。ですから、直接雇用しない事は、明らかな法律違反です。そんな違反行為を認めてしまう厚労省は貧困ビジネス同様に障害者ビジネスの片棒を担いでいるという事です。企業は、障害者雇用のハードル(職務の選定・開拓、採用、合理的配慮の実施、育成等)が高いと、罰金を払ってでも採用しない方法をとってきました。その延長上に、「障害者雇用ビジネス」がある事は明確です。雇用契約を締結しながら、雇用企業の業務内容・就業場所が全く違うというのは明らかな脱法行為です。これさえも是正できない厚労省は、貧困ビジネスを容認し、障害者雇用ビジネスを奨励し、競争の原理を働かせると福祉事業をビジネスとして、人間の商品化を推し進めていると言えます。

 

福祉の研修は、発表会に代わった。だからひ弱ですの話

  障害福祉では人材育成と何十年にも渡って会議のテーマに上がっていますが達成したことなど一度もありません。それは、人材がいないのではなく、人材が育つ環境も体制も未来もないに等しいからです。そして福祉の現場では、法人経営者の世襲や目立ちたがり屋や自慢屋が経営者に簡単になれるだけで、真の福祉従事者は使い捨てられているからです。実際人材育成として公費を随分つぎ込んできましたし、公的な研修、関係部会の研修も沢山実施してきましたし今もしています。では、その研修は事業所として蓄積されたり積み重ねられて重層になってきたかと云うと何にもありません。研修に行った職員が「良かった、よかった」と言いながら発表会はしますが、事業所としてまとめられ蓄積されるわけではないのです。そして、職員は、数年でやめていくのです。最近の障害福祉の事業者を見ると、約6割が「株式会社・合同会社」で障害福祉の主体だと思っていた「社会福祉法人」は2割を切っているのです。日中活動・就労では、「株式会社・合同会社」が5割で、「社会福祉法人」は3割を切りました。居住でも、「株式会社・合同会社」が4割、「社会福祉法人」が4割と制限がかかっている営利企業が既に非営利の社会福祉法人より社会福祉事業の担い手になっている事を示しています。社会福祉法人が大勢を占めていた時代には、絶対に認められないとしていた「福祉サービスの市場化」「福祉サービスの商品化」が急激に進んでいる情勢なのです。こんな情勢がありながら、未だに人材育成として研修会を開こうとしています。しかも、研修会では、「批判しない」「討論しない」の発表会方式ですから、仲良しグループの井戸端会議を超えることが有りません。すぐそこに「営利可」「利益可」という変幻自在の事業者がそこまで来ているのに「戦うための理論」さえ磨こうとしていない研修を目論むのです。福祉は「みんないい人」なんて虚構の時代はずっと昔に終っているのに、社会福祉法人が9割担い手だった時代の人材育成や研修を夢見ているのです。今必要なのは、福祉事業の担い手として福祉を語り実践している物申す福祉事業の後継者たちなのです。つまり、福祉事業に対しての「一家言」なのです。本来利益の出ないとされる福祉事業で利益が出せるという事は「拡大解釈」し「都合の良いところだけ流用」する事に通ずる方法を多用するしかないのです。だから、障害者を商品の如く扱う事業者に待ったを掛けられるだけの一家言を持つ発言力ある社会福祉法人が必要なのです。福祉事業の公金性は変わらず、制度も変わっていないのに「利益」が出るとしたなら社会福祉法人と言う「非営利法人」がネコババしていたとか、出ていた利益が職員や社会に還元されることなくどこかへ消えていたとしか言えないのです。そうでないなら「営利会社」が適正に利益を生み出せる仕組みを発見したのか明確にすべきことなのです。しかし、そんな特許のような方法ではなく誰にでもできる方法で利益が出るから福祉ビジネスに参入する事業者が多いというのが現実です。社会福祉法人は、少数派になっているのに、未だに研修では職員の質向上が必要であると社会福祉法人が福祉事業の主たる担い手であるかのように振舞って上目目線で研修を企画しています。つまり、一般社会で、民間企業の職員研修を公費で行う事がありますかと問いたい研修企画なのです。もう福祉事業は、社会福祉法人の時代は終わったのです。福祉事業の、「経営上の困難」「利用者の確保」「職員の確保」のどの項目をとっても社会福祉法人は、営利法人より劣るのです。過去に公立公営が社会福祉法人より効率が悪いと非難されたように、今や社会福祉法人が営利事業者より効率も質も悪いと非難されるという状況に入っているという事なのです。もし、職員研修を行うのなら、「営利事業者」と公然と論争できる社会福祉法人職員の育成なのです。ところが研修なんて今では完全に「発表会」という方法で悦に入っているのです。衰退というのはこうして自然にやってくるのかもしれません。

 

AIは、チンパンジーまではいけるの話

 進化とは、世代を経るごとに集団内に起こる遺伝的な変化と言われます。正に、AIは世代を経るごとに進化しています。このままいけばSFにあるコンピューターが暴走して人間を支配するという空想が現実味を帯びてきたと思う人が増えてきたとしてもおかしくないほど情報が溢れています。AIが作曲した曲がヒットしたり、映画が作成されたりもしています。それだけに、AIの進化が面白く妄想を膨らませている人もいると思うのですが、AIは、チンパンジーまではいけても、人間まではいけないという意見に私は同調しています。進化の解明そのものがまだ人間の力では出来ていない内容で、自然選択とか突然変異の遺伝的変異など様々な論もありますが、良く分からないが現状です。つまり、進化の謎はまだまだ神の領域でわからないことだらけですが、AIの進化は、確実に人間が行っていることが明確になっています。もつと明確なのは、突然変異の出来ない機械であるAIには、人間の関与なしに進化する事は困難だという事です。AIの身体的機能は人間の作り出した機械でしかなく生命体として卵一つ分の機能も持ってはいません。しかも、AIの原資は人間の過去の記録されたものだけを頼りにしていますから、記録されなかった多くの真実は加味されていません。つまり、人間の歴史の中で保存されているデーターは人類歴史上のほんの一部で解明されていない様々な人間の要素は含まれていません。さらに、保存されているデーターの信憑性をAIは、自ら検証することが出来ません。何故なら、人間の研究分野が多方向多様にあるように、解明されていないことの方が多いからです。つまり、人間の断片的な不正確なデーターを原資としているAIから生成される内容は、正確ではないという事です。ここで言われている事は、進化と発達の違いとされています。進化は時代を超え世代を超えて行われますが、発達はその人一代で行われます。ですから、AIが今の能力をフルに発揮したところで限界があり、能力に未知の領域が残されていません。ですから、「進化」はしても「発達」はしないのです。現人間は、進化していません。ホモサピエンス、クロマニヨンズから進化していないのです。出現からずっと、一つの発達を引き継ぐことで現在に至っています。この視点からすれば、AIは、人間同士の悪事には多用される要素をたくさん持っていますから、AIを使った犯罪というよりも「騙し」の社会が広がって、AIによる防御機能さえも人間は信じられなくなり混乱する社会が出現するかもしれません。実体と虚像がAIによって混濁される事で、人間性が混乱する社会が現れる可能性は非常に高くなると思われます。今度はそんな情報の真意が混乱する社会になった時人間の脳はどんな発達をするかがAIコントロールの妙手になるかもしれません。つまり、AIを人間は悪用して人間同士の不幸を繰り返す中で、人間の脳は不安と恐怖から抜け出すための発達を選択すると思うのです。人間は、抽象と具象の行き来が出来ますが、AIには出来ません。そこに発達の偉大さがあります。人間とチンパンジーの脳は数パーセントしか違いません。しかし、人間の発達は現状では無限なのです。人間と他の動物の違いは、発達なのです。そして、人間が作り出すどんな機械も発達は出来ないという事です。進化以上に、発達は神の領域なのです。