知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

警察通報しかできないなら児相はいらないの話

 有名人の家族問題で流行のチャットGPに相談したら児相が良いと言われ、児相に相談したら警察に通報されて、父親が逮捕され、全国にプライバシーが蒔きちらかされたという事件が起きました。本来児相は、まず「話を聞く」傾聴から初めて秘密は守りますを看板にしています。だから、悩みを抱え込まずSOSを出してもらう事で、社会の最小単位の家族や親子などの問題にも対応できますとしています。民事未介入という警察の原則に対しても、児相と連携する事で家族の問題だと拒否する加害者に立ち向かう事が出来るような整備もしています。その一方で近年、公務員である児相職員は、昼間しか対応しないという仕組みにしてしまいました。あまり知られていませんが、そのほかの時間は民間業者に委託しているのです。今回の事例でも児相の職員は関わらずに、連絡を受けた民間業者の職員が責任転嫁のようにただ警察につなぐという事をしたから発生したと言えます。そもそも、非行であれ虐待であれ発生しやすいのは昼間より夜間です。人目が少ないのも夜間です。「SOS」だって昼間ならより多くのサポートが可能です。にも拘らず、児相の職員は昼間出勤して、夜はいないのです。つまり、専門職として正規職員は、事案が発生するような時間には家で寝ていて、疑似専門職に任せきっているのです。ですから、相談した後の展開をある程度見通して、秘密を守り、相談者の意思が尊重されるという事があやふやで、今回のように、秘密は公開され、相談者が誰かも公開され、懲罰として父親は名声と職を同時に失うという事が簡単に起きてしまう仕組みになっているのです。社会では児相の責任を問う論調より庇う論調ばかりですが、この事例を知って誰が児相に「SOS」を出したら守ってもらえると考えますかと言いたいのです。この事例は児相が普段広報している事が「嘘」だと知らしめたと言うより他に表現できるものではありません。どこに「安心して相談できる」場所だと言えるのだとしか言えません。過去の話になりますが、過去の児相職員はまさに24時間体制で子供たちに接していました。ですからこんな事件が起きたのなら、まず駆けつけて長女の話を聞いたはずです。制度というものは形にすぎません。運用するのは人間です。その運用する人の労働条件が優先されて、弟子しか対応しなくしてしまったのが業務委託制度です。何の権限もない弟子は責任を問われることが怖くて警察に通報しかできなかった事で五日が大きな犠牲を強いられたのに、反省もしない児相を問わない報道もまた若い人が児相に相談しない、児相を信用しない事への加担者になっているとしか言えないと思うのです。相談した結果の大きさに長女を庇う意見は報道されますが、長女をそんな立場にしてしまった児相の業務委託対応という方法が問題ではないかとなぜ問わないのか不思議です。児相への相談は第一に「秘密が守られる」という保障が一番になければなりませんし、「相談者が守られる」という保障が相談者が実感できる者でなければなりません。そして、対応も相談者が加害者や世間から報復や非難を受けないように慎重に処理しなければなりません。ところがこの事例では、全国に拡散し有名にさせてしまいましたから、普通に考えても二次被害が発生することなど誰でも想像がつきます。相談者の境遇は大きく変わり自己を攻めなければならない状況に追い詰めるものです。相談者が、相談しただけで世間に謝罪文迄公表しなければならなかったのは児相の対応が間違っていたからなのに、児相は一度も謝るどころか会見もせずだんまりで責任も反省もしないのです。こんな児相に誰が相談できるとおもいますか。制度があっても心がないなら、「相談してください」なんて言うべきではありません。こんな程度の児相などいらないとしか言いようがありません。

 

逃げるネタニヤフの道連れが戦争だったの話

  イランという国は、数千年にわたる歴史を受け継ぐペルシア人の国として、長い歴史のある国として現代がどうであろうと日本人のように偏屈な歴史観を強く持っていると思うのです。つまり、現代権力者がどうであれ民族として優秀なのだというアイデンティティを持っていると思うのです。それは日本人が日本語について説明は出来ないけれど世界に冠たるものだと確信しているように、イランでは、ペルシア語という独自の言語を保持していることも、大きな特別意識の要素となっていると思うのです。歴史的には、ユダヤ人に対しても優位な感覚を持っており人類の古代文明から始まる民族としての誇りも高いと言えそうです。アーリア人の末裔であり、ペルシア帝国の末裔である我らはという感覚は民族としてのアイデンティティは想像以上に高揚するものだと言えます。ですから長く国を持つこともできなかったユダヤ人が、旧約聖書にすがって、シオニズム運動により「ユダヤ人が祖国に帰る運動」を行っていたことにも冷ややかでしたし、国が出来ても非難的でした。一方、イスラエルの建国も、決して一枚岩ではなく、宗教的、歴史的、 政治的な要因が複雑に絡み合っています。厳格なユダヤ教の教えでは、「ユダヤ人が祖国に帰れるのは、神が遣わすメシア(救世主)が現れたときだけ」とされていますから、メシアが現れていない今、神ではない世俗の人間が祖国を作ったりするからこんなことになるんだと宗教を信じている人が言ったとしても不思議ではないと思うのです。ただ、この戦いは神の意志ではない世俗の宗教戦争なのだとみると簡単な構造ではあると思うのです。つまり、トランプ政権のピート・ヘグセス国防長官は、2020年に「American Crusade(アメリカの十字軍)」と題した著書を出版し、本人の体には、極右が信奉する十字軍時代の象徴である「エルサレム十字」と、十字軍のモットーであるラテン語のフレーズ「Deus Vult(デウス・ウルト、神がそれを望まれる)」が刻まれているのは公表された事実です。仮にイランを降伏させることが出来れば、ヨーロッパから約7~9回行なわれた十字軍が聖地奪還という目標を達成できなかったことからみると、アメリカの十字軍は歴史に残す偉大な聖戦の勝利者となる事になります。アメリカの十字軍が歴史上はじめてその崇高な目的を果たすことになると思うとわくわくしても不思議ではありません。確かに過去の「十字軍(クルセイド)」も略奪や破壊行為ばかりの強盗のようなものでしたから、アメリカ十字軍がイランの国土を無差別に爆撃しているのも同じことかもしれません。アメリカ人に理解できないのは、長い歴史を持つ民族のアイデンティティだと思うのです。どんなに瀕しても迎合できない民族の歴史だと思うのです。それは、内部に大きな矛盾を抱えていても外敵には一丸となってしまう偏屈な歴史観だと思うのです。それは日本人だけでなく、中国人も、ゲルマン人も同じだと思うのです。アメリカが武力だけの評価で戦争を始める時、ネタニヤフ氏が省き隠した一番の悪事だと思うのです。ましてや「聖戦」などと言う宗教戦争にしてしまったら、死して守らなければならないものとなってしまいます。  アメリカ十字軍としてペルシャを成敗するのは素晴らしい事でしょうが日本人が負けても従う事のなかったアイデンティティが復活するだけの事になるだけだと思うのです。これは宗教戦争なんかではなく、ネタニヤフ氏の保身に巻き込まれているだけの戦争でしかないと思うのです。その意味で、アメリカ人、ユダヤ人は、正気に戻るべきだと思うのです。

厚労省が使っていいのか「障害者雇用ビジネス」の話

   福祉の事業者として沢山あった公立公営に対して、職員の給与が高く、職員が多い割には社会福祉法人より効率が悪い、意思決定が遅い、創意工夫が足りない、競争の欠如等々の難癖や言い訳の挙句に多くの公立直営事業所が舞台から降りていきました。そして数年後、今度は社会福祉法人に同じ言葉を投げかけて、民間企業の社会福祉事業への参入を奨励しました。この結果、福祉事業も、「福祉の準市場化と障害者の商品化」が急速に進むこととなりました。福祉事業では、貧困ビジネスと呼ばれる、生活困窮者の生活保護受給費や医療費無料制度の公費援助を悪用した生き血を吸うようなビジネスモデルがあって、公費が、援助者に100%活用されていない事を知っている厚労省が今になって同じことを障害福祉で行っているというのが現状です。貧困ビジネスが成立する背景には、生活困窮、制度の複雑さや情報格差があり、高齢者、単身者、ひとり親家庭などが巻き込まれやすく、こうしたビジネスは、あたかも社会貢献のように装うことで正当化を可能にして、結果として、貧困層は真の支援を受けられず、永続的な困窮状態に閉じ込められることになっています。この様な「搾取型ビジネス」は、社会的支援の制度を拡大解釈したり、行政を手玉に取るような方法を駆使して利益を得る構造を作り出していきます。障害者雇用では企業が法定雇用率は達成したいが、障害者を雇用するのは嫌だという本音を実現できるモデルとして、障害者雇用「代行ビジネス」が営業開始しました。事業者が用意したサテライトオフィスや農園などを企業に貸し出し、そこで働く障害者を紹介・サポートする仕組みは、「場所貸し」雇用とも言われます。厚労省の調査(10月末時点)によると、代行事業者は46社、利用企業は1800社以上、就労する障害者は1万1000人以上にのぼるまで、拡大しています。これらの利用企業の多くは「法定雇用率の達成」だけを目的として、基本障害者雇用には反対であることは明確です。健常者に交じって障害者が働らくことは困難である、障害者の労務管理なんてとても出来ない、障害者は生産の足手まといであり戦力にはならない、等々のこれまでの意識のままに雇用したくない企業の要望に応えたビジネスが繁盛しているという事です。それだけに、このビジネスでは、障害者だけを集めて隔離していると言われる障害者施設と変わらない仕組みですが、給料は働かなくても最低賃金が企業から「捨扶持」のように支払われます。このシステムには、障害者と健常者との共生などと言う考え方などありません。こんな雇用率達成の方法を理念をないがしろにする障害者雇用企業を否定しなければならない厚労省でさえ、「障害者雇用ビジネス」と言わざる負えないほどに急拡大しているという事です。仕方なく、厚労省は、「障害者雇用代行ビジネス」の適正な運営を促す新たなガイドライン(指針)を策定するとしていますが、ある意味、自分が蒔いた種でしかないのに、変種が出てきたから刈り取ろうとしていますが、根は残っている事が問題です。つまり営業を認める事が間違いなのに、「障害者雇用代行ビジネスの適正な運営ガイドライン」などと根絶するのではなく認めるけれど条件を付けるだけという本質をゆがめる対応をしようとしています。もともとこの雇用率は、企業にどれだけ言っても障害者雇用をしないから、法律で罰則までつけて促進せざるを得ない位進まなかったという事があります。ですから雇用は手段であって原点は、「障害の有無にかかわらず共に働く」であり「雇用管理の実践・経験値の上積み」であり「企業側(経営層・従業員等)における障害理解」であり「障害者の就労への機会の拡大」であるはずなのです。ですから、直接雇用しない事は、明らかな法律違反です。そんな違反行為を認めてしまう厚労省は貧困ビジネス同様に障害者ビジネスの片棒を担いでいるという事です。企業は、障害者雇用のハードル(職務の選定・開拓、採用、合理的配慮の実施、育成等)が高いと、罰金を払ってでも採用しない方法をとってきました。その延長上に、「障害者雇用ビジネス」がある事は明確です。雇用契約を締結しながら、雇用企業の業務内容・就業場所が全く違うというのは明らかな脱法行為です。これさえも是正できない厚労省は、貧困ビジネスを容認し、障害者雇用ビジネスを奨励し、競争の原理を働かせると福祉事業をビジネスとして、人間の商品化を推し進めていると言えます。

 

福祉の研修は、発表会に代わった。だからひ弱ですの話

  障害福祉では人材育成と何十年にも渡って会議のテーマに上がっていますが達成したことなど一度もありません。それは、人材がいないのではなく、人材が育つ環境も体制も未来もないに等しいからです。そして福祉の現場では、法人経営者の世襲や目立ちたがり屋や自慢屋が経営者に簡単になれるだけで、真の福祉従事者は使い捨てられているからです。実際人材育成として公費を随分つぎ込んできましたし、公的な研修、関係部会の研修も沢山実施してきましたし今もしています。では、その研修は事業所として蓄積されたり積み重ねられて重層になってきたかと云うと何にもありません。研修に行った職員が「良かった、よかった」と言いながら発表会はしますが、事業所としてまとめられ蓄積されるわけではないのです。そして、職員は、数年でやめていくのです。最近の障害福祉の事業者を見ると、約6割が「株式会社・合同会社」で障害福祉の主体だと思っていた「社会福祉法人」は2割を切っているのです。日中活動・就労では、「株式会社・合同会社」が5割で、「社会福祉法人」は3割を切りました。居住でも、「株式会社・合同会社」が4割、「社会福祉法人」が4割と制限がかかっている営利企業が既に非営利の社会福祉法人より社会福祉事業の担い手になっている事を示しています。社会福祉法人が大勢を占めていた時代には、絶対に認められないとしていた「福祉サービスの市場化」「福祉サービスの商品化」が急激に進んでいる情勢なのです。こんな情勢がありながら、未だに人材育成として研修会を開こうとしています。しかも、研修会では、「批判しない」「討論しない」の発表会方式ですから、仲良しグループの井戸端会議を超えることが有りません。すぐそこに「営利可」「利益可」という変幻自在の事業者がそこまで来ているのに「戦うための理論」さえ磨こうとしていない研修を目論むのです。福祉は「みんないい人」なんて虚構の時代はずっと昔に終っているのに、社会福祉法人が9割担い手だった時代の人材育成や研修を夢見ているのです。今必要なのは、福祉事業の担い手として福祉を語り実践している物申す福祉事業の後継者たちなのです。つまり、福祉事業に対しての「一家言」なのです。本来利益の出ないとされる福祉事業で利益が出せるという事は「拡大解釈」し「都合の良いところだけ流用」する事に通ずる方法を多用するしかないのです。だから、障害者を商品の如く扱う事業者に待ったを掛けられるだけの一家言を持つ発言力ある社会福祉法人が必要なのです。福祉事業の公金性は変わらず、制度も変わっていないのに「利益」が出るとしたなら社会福祉法人と言う「非営利法人」がネコババしていたとか、出ていた利益が職員や社会に還元されることなくどこかへ消えていたとしか言えないのです。そうでないなら「営利会社」が適正に利益を生み出せる仕組みを発見したのか明確にすべきことなのです。しかし、そんな特許のような方法ではなく誰にでもできる方法で利益が出るから福祉ビジネスに参入する事業者が多いというのが現実です。社会福祉法人は、少数派になっているのに、未だに研修では職員の質向上が必要であると社会福祉法人が福祉事業の主たる担い手であるかのように振舞って上目目線で研修を企画しています。つまり、一般社会で、民間企業の職員研修を公費で行う事がありますかと問いたい研修企画なのです。もう福祉事業は、社会福祉法人の時代は終わったのです。福祉事業の、「経営上の困難」「利用者の確保」「職員の確保」のどの項目をとっても社会福祉法人は、営利法人より劣るのです。過去に公立公営が社会福祉法人より効率が悪いと非難されたように、今や社会福祉法人が営利事業者より効率も質も悪いと非難されるという状況に入っているという事なのです。もし、職員研修を行うのなら、「営利事業者」と公然と論争できる社会福祉法人職員の育成なのです。ところが研修なんて今では完全に「発表会」という方法で悦に入っているのです。衰退というのはこうして自然にやってくるのかもしれません。

 

AIは、チンパンジーまではいけるの話

 進化とは、世代を経るごとに集団内に起こる遺伝的な変化と言われます。正に、AIは世代を経るごとに進化しています。このままいけばSFにあるコンピューターが暴走して人間を支配するという空想が現実味を帯びてきたと思う人が増えてきたとしてもおかしくないほど情報が溢れています。AIが作曲した曲がヒットしたり、映画が作成されたりもしています。それだけに、AIの進化が面白く妄想を膨らませている人もいると思うのですが、AIは、チンパンジーまではいけても、人間まではいけないという意見に私は同調しています。進化の解明そのものがまだ人間の力では出来ていない内容で、自然選択とか突然変異の遺伝的変異など様々な論もありますが、良く分からないが現状です。つまり、進化の謎はまだまだ神の領域でわからないことだらけですが、AIの進化は、確実に人間が行っていることが明確になっています。もつと明確なのは、突然変異の出来ない機械であるAIには、人間の関与なしに進化する事は困難だという事です。AIの身体的機能は人間の作り出した機械でしかなく生命体として卵一つ分の機能も持ってはいません。しかも、AIの原資は人間の過去の記録されたものだけを頼りにしていますから、記録されなかった多くの真実は加味されていません。つまり、人間の歴史の中で保存されているデーターは人類歴史上のほんの一部で解明されていない様々な人間の要素は含まれていません。さらに、保存されているデーターの信憑性をAIは、自ら検証することが出来ません。何故なら、人間の研究分野が多方向多様にあるように、解明されていないことの方が多いからです。つまり、人間の断片的な不正確なデーターを原資としているAIから生成される内容は、正確ではないという事です。ここで言われている事は、進化と発達の違いとされています。進化は時代を超え世代を超えて行われますが、発達はその人一代で行われます。ですから、AIが今の能力をフルに発揮したところで限界があり、能力に未知の領域が残されていません。ですから、「進化」はしても「発達」はしないのです。現人間は、進化していません。ホモサピエンス、クロマニヨンズから進化していないのです。出現からずっと、一つの発達を引き継ぐことで現在に至っています。この視点からすれば、AIは、人間同士の悪事には多用される要素をたくさん持っていますから、AIを使った犯罪というよりも「騙し」の社会が広がって、AIによる防御機能さえも人間は信じられなくなり混乱する社会が出現するかもしれません。実体と虚像がAIによって混濁される事で、人間性が混乱する社会が現れる可能性は非常に高くなると思われます。今度はそんな情報の真意が混乱する社会になった時人間の脳はどんな発達をするかがAIコントロールの妙手になるかもしれません。つまり、AIを人間は悪用して人間同士の不幸を繰り返す中で、人間の脳は不安と恐怖から抜け出すための発達を選択すると思うのです。人間は、抽象と具象の行き来が出来ますが、AIには出来ません。そこに発達の偉大さがあります。人間とチンパンジーの脳は数パーセントしか違いません。しかし、人間の発達は現状では無限なのです。人間と他の動物の違いは、発達なのです。そして、人間が作り出すどんな機械も発達は出来ないという事です。進化以上に、発達は神の領域なのです。

世論は破綻を好んでいるという歴史の事実の話

 平和とか戦争反対とか言いながら、スポーツなら人間同士が戦ってもいいんだという感覚は、結果として戦争を肯定していく基礎感覚になります。競うも戦うも同じですし、武器で競うも道具で戦うも同じです。守るというのは敵がいるという想定ですから、防衛というのは仮想敵を作るという事です。自分が正しいのに否定されれば相手を倒さなければ主張は通りません。小さな戦争も大きな戦争も戦争だから駄目だと言いながら、サッカーであれバスケットであれ国旗を振って戦わせている本性は、人間が好戦的だという事を証明しているだけです。たまたま平和な環境にいる人は、スポーツという方法で好戦的本性を満足させているだけです。戦わなければならない環境にいる人は銃を持っているにすぎません。人間は好戦的だから地球上に蔓延する事が出来たのであって非戦的だったなら6万年前に世界中に拡散して行くことなどなかったと思うのです。この拡散の動力となったのは、他人の集団であったことが重要で、他人を統一した行動が出来る様にさせる仕組みが「罰」というものだったとされています。社会性の本質は、法ではなくて「罰」とされています。ですから家族集団が基本であったネアンデルタールは吸収されてしまったのです。罰を基本に、社会集団を構成できたホモサピエンスの脳と能力では一人でコントロールできる集団が150人程度と限界がありましたから、この150人の一人一人にそれぞれが150人の集団を統率させるという方法で、社会を形成しただけです。通常説明されるときは、複数の家族が村を作り、複数の村をまとめて県を作り、複数の県をまとめて国を作っていると民主主義のように一人ひとりから集まったように説明されますがそれは権力者にとって都合のいい言い方に代えられたにすぎません。権力者にとっては、直接の部下が一定数を超えると能力に限界が来るから次の部下は間接統治としてきただけの事です。そして、この社会的集団を維持する方法が、「罰」だという事です。ホモサピエンスは、この罰の執行に快感を覚えることが出来る機能を脳に持ったことで地球に蔓延ることが出来たという事でもあります。集団になれば約束事があるというのは動物でも昆虫でもあると思うかもしれませんが、動物や昆虫には、約束事を破っても制止や排除はあっても罰はありませんし、個別に対応するだけです。しかし、ホモサピエンスは、自分に直接かかわりない事でも、「罰」を受ける人を見て、「同情せず快感を覚える」という事が出来るのです。公開処刑は、その典型で、極悪人が苦痛に苦しむほど、相手が痛みを受けているのを見て、制止することなく、当然の事と逆に快感を覚えるのです。この機能は、戦争の相手に向けられます。イスラエルは、ガザでどんなに飢えていてもハマスへの懲罰として心は痛まないのです。日本の戦前でも同じです。相手が悪人であるという広報さえ十分に行われていれば真意がわからなくても「罰を与える」という事に賛成し、実行を達成感として感じることが出来るのです。つまり、この脳の仕組みは他人の仲間同士で生きていくためには必要なものだったのですが、向かい合う集団が大きければ大きいほどに、争いを激しいものにしてしまう機能ともなるのです。他人を罰する事に快感すら感じてしまう機能は、その集団によっては、争いをエスカレートさせてしまう仕組みともなっているのです。ホモサピエンスは、この機能によって地球のあらゆる場所を独占していったのです。平和な環境にある者に、この秘められた機能が現れるのがスポーツなのです。敗者と言う罰を与える事で、「荒ぶる心情」を抑えているにすぎません。今度の選挙は既に自民党が大勢を決めたと報道されていますが、まさに戦前の日本のように、少しずつ世界の危険な情勢に怖いもの見たさの如く、スポーツ観戦の如く近づいていく選択は、ホモサピエンスがやってきた破綻を好んでいる歴史と同じです。

障害者でも「役に立つ」「必要とされる証明」「他者からの承認」なんかいらない

     障害者支援の指針として、「役に立つ」「必要とされる」「他者からの承認」などを挙げていますが、それは社会の漫然とした障害者排除観を説得する為に、障害があっても、社会に役に立つことを証明すればいい、障害者があっても社会に必要とされていることを証明すればいい、障害者は他者から承認されるように生きることが出来ることを証明すればいいという障害者擁護の為に支援者たちが考えた現実社会へのアプローチとして間違えではありません。しかし、これは排除論理に引きずり込まれてしまうだけで審理ではありません。何故なら、障害の最重度者とのかかわりの中では、どれ一つ証明できない現実に突き当たるからです。重度の障害者にはどんなに教えても役に立つようにはならない事、社会が思うような必要に応えられる可能性が極端に低いという現実に直面する事になるからです。仕方がないから、人によっては感性的に社会に訴えなければならないという方法しか見つけることが出来なくなって、生存する必要が無いと言い出されても反論が出来なくなってしまうのです。

    私が主張しているのは、「障害者が生きる価値を社会に証明する必要」などないという事です。人は誰もかれも生を受けた時から社会が望もうと拒否しようと「生きてる権利」があるという事です。歴史的には、社会は、社会防衛として社会に適合しない者の排除を様々な方法で行ってきました。ですから障害者の歴史は排除との戦いと言えます。

      社会が必要とされるなら生きる事が承認され、社会が不必要とされたなら、「穀潰し」「役立たず」「能無」とされ、排除されてきました。家族や共同体の中で貢献出来ないとなれば「口減らし」の対象ともなったのが歴史です。

     戦後の知的障害者の指針は、知的障害であっても「訓練・指導」の方法さえ確立されれば社会の荷物から「役に立つ」に変えられると体罰を含めて指導訓練としての施設を作り、様々な方法手段を繰り返し無理強いしてきました。初めは確かに効果もありましたが、期待に応えられない重い障害の人たちが取り残された結果、知的障害重度者の「社会に役立つ能力改造計画」は挫折するのです。行き先を失った「社会に役に立つ」「社会に必要とされる」能力開発計画は、限界だけを露呈して「重度障害者」は、不要だという排除に至る証明をすることにもなって、排除論者を作り出していったのです。つまり、能力開発ばかりを中核に据えた、障害者行政と、専門家と言う反省亡き集団によって、障害者だけでなく、社会に役に立つか立たないかなどと言う物差しで人間を図ろうとすることが間違っているのだという事が明確になったのに未だに社会を説得する方法として、障害者の社会的役割論を繰り返しています。そんなことは障害の重い人たちだけでなく、生きている人に対して無礼であるという事が理解できない行政や専門家がいます。明確な事は、生きている人間に「生きる価値がありますか」と問う事は「虐待」そのものであり犯罪行為だという事です。

      社会に受け入れてもらえる為に障害者が頑張らなければならない、がんばっているのだから支援しなければならない論は、排除に対して懇願しているだけのものにすぎません。「誰の稼ぎで食べていけると思っているんだ」と言う社会は、稼いでいる人からの承認を求めます。それに応え様と嘘でもいいから「頑張っている形」を作ろうとしてきた行政と専門家がいます。でも、そんな頑張りをさせることは間違いであると多くの障害者支援者が気付いています。社会参加の切符も資格証も必要ではありません。何故なら、生まれた時からその障害があろうとも社会の一員そのものだからです。

「人が生きる価値」は生まれた時から始まっています。障害者に生きていたければ何かやってみろと条件を付けるのは、社会が行う事ではなく、社会が義務を放棄している事を証明しているだけです。早く「障害者へ条件を付ける」事を止めて、「人に生きる価値」を問うようなとうような「くびき」から抜け出さなければなりません。

 

「障害者ビジネスモデル」が企業に広まっています。障害者のサービス費はその障害による区分がありますが障害の内容は個人で大きく違い、同じ区分であっても支援に困難がある場合と単なる介助が必要な場合などで違うのですが支払われる経費の単価は全国一律で決められています。その為同じ単価・同じ障害区分なら個々人の支援が軽微であるほど同じお金でも介護量が少なくて済むので利益率が高いと値踏みされることが発生しています。人件費としての職員は、支援サービスの知識や技能など関係なく雇用できますから、未経験者でも安い人件費で対応するなら、大きな新規投資をしなくて利益を十分に得られるようになってしまったのです。全国一律の単価で、その内容は介護と言うあいまいな基準で虐待さえしなければ何の成果効果も求められず、人件費などの割合の決まりもないのです。

それだけではありません。ビジネスモデルとして広報する事でグループホームは作りすぎて「内容のチェック」を行政が管理出来ない事にまでなっています。質を問わないビジネスモデルは、虐待で告発されない限りチェックされることはありません。厚労省は、専門性を担保しようと、サービス管理責任者を置かなければならないなどの制度を設けて解決しようとしていますが資格取得要件が経験年数だけで井戸端会議並みのグループワークに数日参加すればみんなもらえる資格ですから、資格は同じでも資格者間のレベルは天地の差がありますし、利用する障害者から見るなら職員の「当たりはずれ」が著しい制度でもあるのです。

「儲かるビジネスモデル」としてして紹介されていますから、企業で成功しない人が障害者ビジネスに進出してきています。一人の障害者を確保すれば、月収がいくらで人件費がいくらで、利益がいくらとなるという事を明確にして、事業起業を促す広告も頻繁に出されるようになりました。つまり、障害者一人一人の単価計算が先に立って障害者の福祉など掲げなくても事業展開が出来ることから、単価のつけられた障害者が、商品棚に並ぶようになってしまったという事です。

利益を求めて福祉事業を選択する企業が多数出現したにも関わらず、この障害者単価を利用して国は障害福祉事業のコントロールを始めました。それは、国が設定する事業に事業者の応募がなければ、この単価を高く設定し事業の目的や内容よりも利益に誘導された企業を配置するという事を繰り返しているのです。これまでも就労A型が不足しているとみるや不正まがいの事も可能な制度にして誘導しその後利益が出ないように制度変更をしました。その為、儲かると思って進出した就労A型の事業所の閉鎖が今でも続いています。同様に狙われた訪問介護事業所の閉鎖も続いていますし、このあくどい方法の繰り返しで、児童ティサービスなども振り回されています。

 

どこかで、障害者サービスが「障害者ビジネス」に変身してしまったのです。福祉の経費の多くは人件費ですから、当然都道府県による最低賃金の違いはありますが、制度規定のない人件費を如何に抑えるかさえできれば地方の方が「利益」を一般企業よりも多く生み出すことも可能です。高齢者介護福祉では、不要なサービスまで利用させることで利益を得ているという会社もありましたが、今日では「障害者が金」になるという事が現実となりました。つまり、障害者福祉利用者の商品化が進んでいるのです。

 福祉は「サービス」と今日では言われていますから、「サービス」の価値を金額に換算して「商品」と考えても不適切とは言えません。営利を目的とした会社組織では販売品が「サービス」であればそれが「商品」ですから当然「原価」も「売価」も設定します。福祉事業は、社会福祉法人が大勢を占めていた時代が終わり様々な業種からの参入が可能になった今日、福祉業界では「福祉サービスの商品化」が当然のように進んでいます。

1970年代に入ってから日本でも、「福祉サービス」という言い方がありましたが、1990(平成2)年の社会福祉事業法(現:社会福祉法)の改正からは法文にも見られるようになりました。この為従来の、「慈善事業」「救貧事業」「社会事業」「厚生事業」とされた、貧困や弱者救済と言う「与える」という福祉事業が継続する一方で、「人権」などの権利としての福祉が混在する時代となりました。「やってやる」的な従来の福祉事業従事者への批判的な意味でサービス福祉が使用されたこともあります。

それが、令和2年の社会福祉法では、人権としての福祉サービスの適切な利用に統一されていきました。一部負担を除いて公的負担は変わりませんが、福祉事業に企業が参入できるようになり、初めて福祉事業で利益を出しても良いという事が示されました。

簡単に言えば、ほとんどのサービス料金の原資は税金であることは変わらずに、福祉の事業は誰でも行なえるし、そこで「儲けても良い」とされたという事です。福祉事業では、利用内容に応じた公的単価は固定ですから、定価が決まっている福祉サービスと言う商品を社会福祉法人が実施していた時には出ないとされていた「利益」を、企業と言う販売者ならどうやって利益をだすか、どれだけ出すことが出来るのか、様々な意見が出ましたが介護保険の如く定まらないままに制度は動き始めました。福祉事業は、設備投資も少なく簡単に参入できることから、統一価格の「商品」販売を、利益を求めてはならない社会福祉法人と利益を求める企業とが混合して展開する事になったのです。

この流れの中で、「福祉サービスの商品化」と「福祉サービスの市場化」が急激に進んだという事です。

サービスという言葉は、人々の役に立つことや物事を提供することを指すとされています。ですから、サービス業の範囲は非常に広く、情報提供サービス、生活関連サービス、専門サービス、娯楽業、交通機関、飲食業、販売業などさまざまな業種が含まれています。サービス業のサービス提供者としては、接客業だけでなく、法律事務所や会計士事務所、経営コンサルタント、デザイン業、著述業、宿泊業、美容業、冠婚葬祭業、廃棄物処理業など、さまざまな分野があります。これらの業種は、お客様に対して高品質なサービスを提供するために頑張っています。ですから、福祉事業がサービス業の一つだとしても商品化が進んだとしてもより良くなるならばそれは良いことと言えます。

ただ、上記のサービス業は、普通の生活の上で本人が望むことに「役に立つこと」がサービスの提供となり貨幣と交換している事です。しかし、障害は望んで障害者になったのではありませんし、人間としての生活そのものを送るうえで必要なサポートです。障害福祉サービスは、障害のある方が地域で当たり前に暮らせるように、生活や自立・就労をサポートするものです。サービスがなければ生活が困る人に手を貸して必要経費以上に、利益迄求めることが普通になってきて、障害者が商品として見られるような時代になってきました。

 

今商品化ビジネスモデルとなっているのは、障害者雇用現場です。民間企業の雇用状況は、令和4年時点で、障がい者雇用数は 61 万 3958 人、前年より 1 万 6172 人増加(2.7%アップ)となっており、19 年連続で過去最高の数字となっています。障害者雇用は右肩上がりの状況で、推移しています。その為「障がい者活躍推進研修」などと言う障害者雇用会社へ障がい者の正しい理解や受入れに対して必要な知識や対応スキル、障がい者の採用や、その受入れの環境整備などについて学び障がい者雇用そのものを企業の経営戦略や成長に結びつけという研修が利益が出るという事まで出ています。

一方で、実際の会社で働かない方式での疑似雇用のような形での障害者の商品化が複数の方式で進んでいます。

 

 障害福祉サービス」とは、障害のある方が日常生活・社会生活を送るために必要な支援を提供する公的支援サービスですが、今日の制度では、「福祉サービスも商品」として営利企業の参入を促すことが日常的になりました。福祉事業で利益を上げてもいいという「福祉サービスの商品化」が進んでいます。

 

障害者の支援サービスも商品の一つだと思いますか。