知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

住民の面倒くさいが危険を温存しているの話

神奈川県逗子市のJR横須賀線逗子駅から約300メートル東にある「山の根踏切」が、20日に廃止された。生活道路として使えなくなることなどに不満を持つ近隣住民が反対していたが、死亡事故が起きたこともあり、設置者のJR東日本は安全を優先させた。と言う記事がありました。記事では、踏切は約35メートルあるのに、遮断機も警報機も設置されていないと言うのです。ただ、踏切は近隣住民にとって京急線逗子・葉山駅や市役所に行く際に使う生活道路で、廃止されると逗子駅近くの踏切まで遠回りする事となると言う事で、逗子市に廃止反対を求める署名も提出したという事です。ここで、知らなかった踏切についてですが、踏切には第一種踏切から第四種踏切まで分類されているそうです。第一種踏切は、警報機と遮断機がついているもので、全国に約3万4千ある踏切のうち9割弱の約3万箇所だと言う事です。第二種というのは、決められた時間だけ踏切保安係が遮断機を操作する踏切、いわゆる有人踏切で、現在は一つも無いそうです。第三種踏切は、警報機はあっても遮断器がない踏切で全国に約760ありますが、ほぼローカル線と呼ばれる地方を走る鉄道で、交差する道路が地元の方しか通らないような狭い道であることが多いそうです。そして、第四種踏切は、警報機も遮断器もない踏切の事で「とまれみよ」の注意書きの上に、黄色と黒の虎模様になっている×印踏切警標がある踏切で全国に3千弱あるそうで、ほぼ町中から外れた小さな踏切で、車が通れないほど狭い道が横切っていて地元の方がごくたまに利用するだけというものがほとんどだそうです。廃止となった「山の根踏切」は第四種ですが駅が発展したことで危険な踏切になったと思われます。一方、2013年1月に小学生が秩父鉄道の踏切で亡くなり、同じ踏切で4年前にも小学生が亡くなっているのに住民の反対で廃止となっていない踏切が行田市にはあるという事です。行田市は、小学生の死亡事故が2度も起きた踏切を、廃止しようとしたところ、踏切を利用する方からの要望が多く廃止できなかったと言います。死んだのは子供ですから、この踏切の近くに住んでいたでしょうし、その子を知っているだろ地域の人間がいるにも関わらず、子供の命より自分達の利便性が優先されています。しかも踏切は自分たちの所有でもないし管理しているのでもないのです。この様な状況は既得権の乱用と言うべきだと思うのです。危険な踏切と評価されても、既得権の様に考えている人たちは、電車が来れば通行しなければいいし、自分は危険とは思っていないと言う感覚だと思うのです。子供は視野も狭いし何かに夢中になると突然の行動や飛び出しなどがあるという常識よりも自分はちゃんとやっているから安全だと言い出す自分の利益が優先される人達だと思うのです。つまり、自分の感覚ではなく、子供の感性や老人の行動などを勘案して危険か危険ではないかを考えるのではなく、自分は出来ているから大丈夫だと言う事だと思うのです。この様な考えに立つと、結果としてそこは危険な場所ではなく、死んだ子供の不注意が原因という事になり、危険な踏切を子供が使用したから死亡事故が発生したのだとはなりません。自分の感覚で大丈夫だから危険とは言えないと言うのは社会では確かによくある言い分です。しかし、今日では、機械製造を含めた製造生産者が、誰が利用しても安全に使用できる事を原則として、利用した人の不注意だと言い切るよう事は出来ません。ですから、誰もが自由に利用できるものは、最も不注意な人でも安全が確保できるのはどうしたらよいかを考えるべき時代に入っているとも言えます。まして、この踏切を設置した当時の人はこんなことは想定できない状況だったでしょうから、公道としての踏切は、鉄道会社や行政の判断で安全確認をすべきだし、危険となれば既得権的な住民の意見を優先すべきではないと思うのです。2002年に施行された「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」の第39条には鉄道は、道路と平面交差してはならないと書かれていて原則踏切は違法なのです。しかし、日本は、既得権的内容に対して寛容で、踏切は違法な施設ですが、過去に設置された踏切は黙認と言う形で認めています。新幹線を含めて新しく建設される路線はすべて立体交差で作られているので踏切事故はありません。ですから、法律的にも、住民の反対は既得権を盾にした違法を延長させているだけの事と言えます。現実には、開かずの踏切などと言われるような都会の踏切は、立体交差に変わっています。立体交差は、多大な費用が掛かることから費用対効果で1時間に1本の電車も通らないローカル線の踏切迄立体交差にしろとの要求はありません。次の踏切迄何キロも歩いて遠回りしなければならないローカル線の地域の踏切まで閉鎖しろとは誰も言わないと思うのです。しかし、人が死んでも既得権を盾にするような考え方の人達の反対にあって危険なのに廃止しも出来ない住民の利便性は、ただの面倒くさいでしかないと思うのです。

釣り人は素行が悪いの話

  ふるさとと言う唱歌に、小鮒釣りしふるさとと出てきますが、それは遊びのない時代の遊びの一つであって、どうしてもやりたかった遊びとは言えないものだと思うのです。過去の小学校の夏休みの自由研究には、昆虫採集などと言うものもあって捕虫網と同時に防腐剤の入った注射器セットが駄菓子屋ででも売られていましたがもう何十年も前になくなりました。自然を大切にと言いながら野生の哺乳類は、ひとたび害獣と言われてしまうと捕殺の対象となってしまいますが、それでも誰でもが捕殺できるわけではありません。イノシシやサル・シカの狩猟も免許がなければ出来ない様になっています。殺傷を好まない日本の風土にあっては、生活のかかっていない欧米的なハンティングと言うレジャーは元々ありません。鷹狩りなどと言うものも殿様の軍事演習的な要素が多く、娯楽ではありませんでした。一方、釣りに対しては、海や川にも漁業権と言う利権があるほど管理されているように見えて、販売目的ではない自家消費としてなら、娯楽としても遊びとしても、これまで規制されてはいません。しかし、近年では、河川や海が汚れて食べられない事や欧米のフィッシングと言うレジャーの為のブラックバスを始めとした外来魚の放流で食べるための釣りではなく娯楽としてのハンティング的な釣りが多くなっています。昆虫採集が無くなったのは自然や命を守ろうと言う理由ではない事は明白で、ゴキブリやカの殺虫剤は様々出ていますし、農薬により減ったと言っても蝉やキリギリスなどは今でも季節になれば鳴き出しますが、興味を持つ子供はいなくなったことが原因だと思います。現代では汗だくになって虫を追いかけなくても遊びは沢山あります。むしろ、虫が嫌いな子供たちが増えているとも言われています。野鳥の巣から落ちてきたヒナを自分で育てようとすることも今日では野鳥の保護違反となると言われ、ペットショップで購入しない限り、野鳥を捕獲したり飼育したりすることは出来ません。それほどに、自然と人工という事が分離されて自然に接すると言うのは動かない植物との設定が多くなり、野生の動物と言う表現が多くなりました。が、魚釣りは今でも野生の魚を釣る事も、自宅で飼育することも出来ます。規制もないので、釣りをハンティングではなく、フィッシングと言ってスポーツだと言い出すメーカーや報道もあります。ハンティングというのは、一方的に相手の気持ちなど考えずに襲い掛かるもので、スポーツと言うのは双方が戦う事を認識して決まり事もありますが、釣りはどう見てもハンティングであり対等なフェアーな試合では全くありません。魚は普通の生活をしていて釣りと言う試合をさせられているなんて思ってもいません。人間の生活で言うなら、普通に道を歩いていたなら、ハンティングされていきなり因縁を付けられて恐喝されているようなものです。テレビでも、フィッシングとして釣りの番組は沢山あり、様々な釣り道具をひけらかせて魚を釣り上げ、勝ち誇ったような笑顔を画面いっぱいに写しだしますが魚は単なる被害者にすぎません。にもかかわらず、時にはリリースと言って逃がしてやるという事を自慢顔で行います。でも考えてみてください、力いっぱい抵抗した魚の力は、釣り針の掛かっている魚の口に集中して人間の手腕なら肩が抜けて腕がぶらぶらと言うぐらい傷ついています。リリースなどと戻されたところで傷の手当てもせず怪我させられた魚がその後普通に生活できると思っているのでしょうか。人間の社会なら、ハンティングされて殴られ蹴られて山林に捨てられるようなものです。なのに釣り人は、いい事をしているか顔をして虐待した魚にバイバイなどと言うのです。こんなことからも釣りから命の大切さなど学ぶことは絶対に出来ません。それは、ハンティングで命を学ぶことが出来ないのと同じです。結局殺してしまうだけの事です。そして、釣り人が集うような場所には、コンビニも駐車場もトイレも完備されてはいません。その為、不法駐車やゴミの投げ捨て、野外の放尿に放便と様々なひどい素行の悪さを繰り返します。確保できた駐車場所を維持するためにもトイレごときで移動はしないのです。特に男性は、どこにでも放尿します。釣りの漫画があったり、釣りの映画があったりで美化されていますが、現実は、駐車やゴミ、排泄行為に田畑への踏み荒らしなど様々な迷惑行為を行っています。さらに、釣りの用具である、釣り糸や針の投げ捨てなどは、鳥や魚に取って加害以外の何物でもありません。マスコミは、釣り具メーカーなどの広告料などを含めて利害関係にありますから、釣りの番組を流しても、釣り人の素行の悪さを取り上げることはありません。防波堤の立ち入り禁止区域に入って悪行をしている釣り人を非難する事もありませんし、そんな人は例外とでもいうかの如く正面から釣り人の素行について取り組むこともありません。太公望と言う言葉があり、釣り人は善い人の様に思い込みたい人もいるとは思いますが、大衆化はモラルの低下が付いて回るという事を隠してはならないのです。既に釣りは誰もが親しめるレジャーなどと賛美している状況ではなく、野外の釣り禁止や規制を行うべき時期に来ている程釣り人の素行は悪化しているのです。

SDGs祭りの行く末の話

 祭りがあれば一口乗りたいと言う人たちには魅力的なお祭りSDGsが始まっています。でも中身を読んだら、今の生活感覚が否定されていることに気づいて気軽に一口乗りたいで始めるものではない事が分かります。もし本当にこの17項目のどれ一つにでも真面目に取り組むなら、今の生活を抜本的に見直さなければならない事が明白になってきます。と言うのは、日本の多くの人にリサイクルに努力していますかと尋ねると、ほとんどの人が努力していると答えると言われています。その根拠は、と尋ねると、ゴミ出しの為に何種類もの分別をしているからと答えるとの事です。つまり、ゴミ出しで分別の努力をしていることがリサイクル実践だと大間違いをしているのです。この感覚でSDGsを考えたのなら大間違いであることは明白です。何故なら、リサイクルの前にあるのは、ゴミを出さない生活様式だという事が理解されていないからです。ゴミを選別する事の前にゴミが出る大量消費の生活が検証されなければなりません。それは、大量生産、大量消費と言う経済システムの中で不用品までも買い込んで結果として使用も利用も十分にしないままに廃棄としていることが問題としてあげられる生活が普通になっている事です。例えば、日本酒なら大吟醸酒と呼ばれる酒を造るのに米を半分ぐらい削るのですが、酒米と言えど食べるものがない環境なら何人ものお腹が満たされるという事でもあります。豆腐は、おからが産業廃棄物になっています。全部使って廃棄物を少しでも減らすとなれば、今の生産物の高級品などと言うものは無駄ばかりの製品となっています。過去には、残飯で養豚をしていましたが、肉の品質を一定に保てないと今では穀物による飼料でなければならなくなりました。同様に、残滓を堆肥にして使うと言う時代も過去のものとなっています。今では残滓は、燃えるゴミとして水分を含んだまま化石燃料で燃やすのですから燃料もたくさん必要です。生ごみを出さない様にする家庭菜園もないアパート暮らしでは堆肥にも出来ません。着る物もそうです、着た切りスズメと言われる程度の衣類でもいいぐらい洗濯して着ればいいと言うことなどは今やみっともないと言われる生活環境になっています。が、一年に1回しか着たことがないと言う衣類が沢山あって売りに行ったら大きな袋いっぱいで100円にもならなかったと言う話があるように衣類は溢れかえっています。西松屋や行けば子供服が数百円で買えますから、お下がりなんて考え方すら出来ません。SDGsに言う「 持続可能な消費と生産のパターンを確保する」には、可能な限り最小の資源で少ないエネルギーの使用で生活する事と言われ、衣類を生産するには化石資源もエネルギーも大量に使われますが、在庫のまま廃棄される衣類が多いと言うのが現状です。今の日本の普通の生活は、大量の資源の消費とエネルギーの消費によって成り立っている事は明らかです。持続可能な消費と生産は「より少ないものでより多く、よりよく」を目指していると言われていますが、人間の生活では、そんな都合のいい生活など、これまでも、これからも成立するとは思えません。資本主義と言う経済活動は、需要と供給であり、生産と消費の拡大です。穀物・野菜を供給するために森林開発が今も進んでいますし、魚を供給するために漁業船や漁網が開発され魚を根こそぎ捕獲して枯渇させていますし、山を崩し地下を掘り進んで鉱物を取り続けていないと建設資材は供給されませんし、一戸建ての家が欲しいとなれば人口の増加に合わせて土地開発は進み山野が失われていくのは当然の事です。つまり、ライフサイクル全体を通して消費しなければ自分の職場もないと言う社会構造を作り出しその中で生活している人間が、ちょっとだけ反省してSDGs祭りに参加する程度での話ではないという事です。例えば、SDGsの中に、全世界の水資源のうち(飲用に適した)淡水は 3%に満たず、南極や北極、氷河で凍り付いている分を除くと 0.5%の淡水で人間生態系の淡水ニーズを満たさねばならないと説明されますが、これに対して日本人はどんな行動をすればいいのかと問われたとき何と答えられますか。節水という事は何の意味もありません。水道水は、川の水であり、日本では川はどこにでもあり、淡水の雨が降る位置にいるのです。節水したところで川の流れは変わらないのです。むしろ日本では、川を汚染しないという事が重要で、家庭の生活排水の中の洗剤を含めた化学製品をどれだけ除去して排水するかに関心がもたれています。ですから、水は自然から無償で手に入るものと考える日本人にとって、給水のためのインフラには大きなコストがかかりますと言われても、世界の水資源との関りで実感する事は困難です。淡水にアクセスできない人々は、依然として 10 億人を超えていると言われても、結果として知識としての認識は出来ても何の行動にもつながりません。しかも、水資源を大事にしようと植林している横では、住宅の為の大規模開発は現実に起きていますし、農地確保の為の森林破壊は世界規模で進んでいると言う報道も見ているのです。さらに、毎年、生産される食料全体の 3 分の 1 に相当する 13億トンの食料が無駄になっているとか、 全世界で 20 億人が体重超過または肥満となっていると説明されますが、デブはSDGsの敵かのような言い回しは偏見を生む内容でもあります。人の体重迄不適とするなら、観光業は、輸送費を含めて無駄そのものです。SDGs祭りで子供たちに、節約や無駄を直すなどの啓発効果を求めているのでしょうが、本当の意味での、SDGsを実践するとなると、経済との関係を基本的に見直さなければなりませんが、経済優先の利権と既得権の現代の社会システムの中では、そんなことが出来るとはとても思えません。何故なら、貧困から抜け出すには、豊かさを求めるには、森林を失っても耕作地を作り生産を増やし販売する事しか今はないからです。開発し販売しお金を得なければ持続可能な社会が出来る前に飢え死にしてしまう国が沢山あるという事でもあります。温暖化についても後進国からすれば、先進国が散々甘い汁を吸った挙句に化石燃料は温暖化の敵だから使用するなは、勝手すぎる話なのです。やっとガソリンエンジンの生産ができるようになったら電気自動車でなければならないと言って電気自動車の技術を先進国が独占し結果として先進国の車を買わなければならない様にすることは後進国からすればずるい話です。新型コロナの対応だって技能のある先進国がワクチンを特許製造しそのノウハウは提供されない現状では、地球と言う規模から考えれば貧しい国は薬も買えないし自国で生産する事も出来ません。SDGsは、ゆとりある国にとっては現在の地球状況のリスクとして認識されていますが、貧しい国にとっては自分たちの生活を苦しめる内容でもあるのです。食品の調理一つをとっても、水と少しの塩だけで調理している国は沢山あって、出汁をとってなんてこと自体が贅沢でもあるという事です。先進国と言われ、大量消費の中にいる日本人が、耳障りの言いSDGs祭りに一口乗っても、一枚の衣類しか持たない貧しい国の人々にとっては金持ちの偽善的なお祭りとしか映らないものです。持続可能な社会とは、まったくかけ離れた今の日本人の生活ではSDGsの本来の目的を理解することは困難だと思うのです。もし仮に本当にSDGsに取り組む意思があるなら、粗食になってもいいから自分の食べるご飯は自国で生産する事から始めるべきだと思うのです。日本の食料自給率は、令和元年度のカロリーベース値は、38%ですし、 生産額ベース値は66%です。国内で生産できない物もありますから100%は無理ですが少しでも自給率を高めることは、世界の森林破壊を止める一助になる事は間違いありません。SDGs祭り、一口乗るなら、清貧な生活が求められていることに気が付かなければならないと思うのです。

 

戦争を知らない大人たちのサムライ観の話

   国は、ことし4月、慰安婦問題をめぐり誤解を招くおそれがあるとして「従軍慰安婦」を「慰安婦」、太平洋戦争中の「強制連行」や「連行」を「徴用」と言う用語にしろと閣議決定しました。文科省は従順に、学校教科書会社約20社に教科書の訂正申告を認めると説明しました。教科書会社からの訂正が非常に厳しいのに、逆になった途端まるで、「訂正勧告」のようなことをしました。どう見ても戦前の国定教科書へ戻っていく道としか思えないのですがコロナ報道に明け暮れている報道では社会的反響が見られていません。この、前兆は、2014年の検定基準改正で、中学の社会科や高校の地理歴史、公民科の教科書は、「政府見解がある場合はそれに基づいた記述」とするとしたことからで、次には、「慰安婦」も「徴用」も記載する必要がないと閣議決定されたなら、教科書からは消せるという事です。「慰安婦」や「徴用」問題は、現在の韓国との関りで考えていると何か日本人みんながこの事で非難されているかの如く感じ多くの人が嫌悪感を持っている話題になってしまっています。だからなのか、教科書会社5社は29冊の記述について「従軍慰安婦」や「強制連行」という用語の削除や変更の訂正申請をしてしまいました。対応としては、削除する社や、記述は残したまま政府見解を併記する社などに分かれましたが、従ったという事では変わりません。この問題では、韓国の賠償請求が大きく報道されすぎて、逆に感情主義者は、南京虐殺もなかった、従軍慰安婦もなかったでっち上げだとだと言い出し同調する政治家までいますが、私たちがこの事例を通じて考えなければならないのは、戦争犯罪だと思うのです。人を殺すことが勲章になり殺人罪にならない、他人の家に押しかけて抵抗したから敵だと家ごと破壊したり、道路や橋、建物を破壊することが器物損壊で訴えられないと言う戦争によって正当化される犯罪の問題だと思うのです。原子爆弾の話も平和の話も戦争なら正当化されてしまう犯罪に対しての人類の矛盾について考えなければならないと言う事例だと思うのです。70年前の戦争体験者が死んでいく中、「戦争を知らない大人たち」は戦争犯罪を身に感じることなく、ベトナム戦争反対や沖縄返還を過ごしてきましたがぼんやりとした戦争観は、サムライの名の元、強い事に越したことはないに繋がり、武力の保持も容認してきました。江戸時代260年間戦ったことのサムライも明治維新では立派に軍人として戦いました。同様に実戦体験などなくても軍人は戦いになればちゃんと戦います。その時に勝たねばならなくなると戦争犯罪にも手を染めるのは当然の帰結です。結果として、戦争では苦しむ人や被害者が大勢い出ていても、その犯罪は正当化され不問に帰され被害者は救済されることがないのです。破壊は、需要の大きな要素で死の商人と言われる人々にとっては、生産した武器を使用するのも大事ですが破壊こそ大きな商売になっています。日頃、人権を語る人でも戦争と言うシステムが稼働し始めると、簡単に押しつぶされてしまいますし、その破壊力は、何もかも踏みにじってもまだあまりあるがごとく続くのが戦争です。スポーツでは、日本の選手をサムライなどと報道機関が平気で言います。サムライは、武人であり、軍人です。平清盛

来日本は、軍事政権だったと言う事が歴史で知らされていない事が、サムライ賛美に繋がっていますが、王政復古と言われた明治政府も軍事政権の継続であり戦前まで軍主導は続くのです。貴族政治は軍人政治ではないと言う程度のくくりで言えば、約800年前に武人である平清盛がクーデターで院政を停止して以来、武人政治、軍人政治が続き、文民統制などと言う体制は、戦後初めて日本人は、経験するのです。そして、何度もサムライ、武人政治に憧れる政治家とその人たちが、武装を試みているのです。その露払いが教育であることから、「閣議決定」などと言うやり方で教科書から戦争犯罪さえもかき消そうとしているとしか思えないのです。「戦争を知らない大人たち」は、他人事のように「戦争で儲けたい大人たち」の静かな侵略を黙認していると思うのです。「戦争を知らない大人たち」は、なんとなく「戦い」を映画やテレビそしてゲームの中で容認し憧れて少しぐらいなら良いんじゃないのとこの教科書の事例の様に、静かな侵略に気が付かないのです。

 

NHK受信料は、受益者負担に相当しないの話

 「NHKをぶっこわす」と言う政党が出てきたときはわくわくしたものです。どうするのかなと興味がありまだ議員もいない頃の政見放送まで見ました。政見放送では、党首以外は、このフレーズだけを時間いっぱい言い続けているのには驚きました。しかし、その後の議員になったりした後の迷走は呆れるばかりで、初心貫徹をフレーズにして欲しいと思うぐらいです。電気、ガスは、使用しているのだから払うべきだ、に誰も異議はありません。皆が生活に困るようなことだから公共だと言う意味も誰もが理解している事です。でも、税金を払う意味になると自分の思いとは別の使い方をしているから嫌だなんてこともあるように、自分との関りで相応の支払いに関して不満もありますが、憲法に国民の義務と書いてあると強引に押されて仕方がないのかとあきらめている人の方が多いと思うのです。しかし、NHKが公共放送だという事にはどんなに説明されても実態から言えば納得できない事です。何故ならNHKがなくても生活には全く困らないし、NHKが無くなったとしても受信料が無くなったことを喜ぶことはあっても惜しいと思うことなど微塵もないと思うからです。反対する人の中には政権寄りだからと言う人もいますが、現在の状態はそれほど政権の広報としての役割も果たせているとは思われないのです。政権者や与党が望む報道の支配という事を目指すのなら、中国やロシアのような放送局にしなければ報道の支配はとても困難です。確かに国営放送が必要だと思っている人は多くいて、政府の放送局としての機能を期待していますが、今の政権者でもNHKに満足しているとは思えないのです。逆に言えば、公共放送と言いながら公共性は薄いし、政権寄りかと言えば本人たちは中立だと言い出しますから、政治的にも公共的にも中途半端存在でもあります。戦後の約70年間で放送・通信機器の変化は大変大きく変化し機器の改良と利便性が制度自体が追い付けないほどの先を行く状況が続き、NHKはその最先端に常にいたことも事実です。テレビが国民に普及する時代でも、デジタル放送化の時代でも、4K・8Kと言われる時代でも、テレビ買い替えの一大プロジェクトの時代でも裏方としてNHKは活躍し経済効果を高め続けてきたことも事実です。ですから、巨大NHKと利権が絡む人たちが現状維持を望むのは当然ですが、NHKはいい番組をやっているから残すべきと言う意見に騙されてはなりません。そんなことを言い出したなら、独裁国家の国営放送だっていい番組はやっているのです。考え方は、内容ではなくて制度の問題です。受信する機器があれば受信の有無に関わらず受信料と言う間接税を取って運営しているという事にあります。今日、情報はますます無料ではない時代へと入ってきました。誰もが、自分が欲しい情報にお金を支払うという事が普通になってきました。無意識の人もいますが、インターネットに接続する事は、接続料を支払っているという事ですし、ネットで得ている情報には接続料と言う料金を払っているという事でもあります。情報過多の時代に手段は多様化されたことから、NHKは、あふれ出る情報を、総論的・一般的な万遍無く提供しようと何チャンネルも放送波を確保していかなければなその維持費確保を含めて肥大化を繰り返えさなければならなくなりました。その為今度は、ネットにまで対応しようとしています。公共放送なら、国津々浦々どこでも入る1チャンネルで淡々と実行していればいいと思うのです。その為の維持費が必要なら、間接税ではなく直接税でやればいいと思うのです。偏らないと言う意味で、宣伝広告を行わないと言わなくても地方の伝統的な安定した商品なら放送したって今時何の不備も生ずるとも思えません。むしろ、宣伝広告にも使えない通信設備を維持管理する必要が既に失われているとも言えます。経済効果から言えば、NHKの放送そのものに生産性はないとしかと言えません。公共の情報は、国民には無償で提供されるべきで、行政情報は、現在も無償です。その点からも、NHKに公共情報は、あるのかと問うとそのほとんどが公共性などないとも言えます。受信料は、税金でもありません、公共料金でもありません。ライフラインでもありません。唯一の物でもありません。だから、受益者負担には相当しないのです。公共放送としての役割はすでに、終了しているのです。結局は、その巨大な利権と既得権によって維持されている組織でもあるのです。財閥解体があったように、NHKは解体して、公共放送として、1チャンネルを維持管理していけばそれでいいと思うのです。

ティーチングから、コーチングへの研修制度確立のための話

 研修で言う、ティーチング、トレーニングの、教える、訓練するという発想から、考えてもらう型がいいと言われたら、グループワークで考えてもらうという研修が流行っているのも困ったものです。大事なことは、ティーチングは適正な評価が必要ですし、トレーニングでは効果測定が必要だから、結果としてペナリティー、罰という大きな落とし穴につながってしまうという事です。現場は、お互いに支え合うことで成り立つという視点を理解して頂こうとしても、学習者への支援という感覚意識の切り替えは難しく、業務研修が上下関係の強化になってしまう事は否めません。それは、コーチングであっても一緒に、考えるという姿勢が徹底されないと、先生と生徒と言う関係は崩すことが出来ず結果はティーチングになってしまうからです。少し叱ってもパワハラと言われてしまう今日では、対等ではないスキルやキャリアを伝授することも既に新任や後輩にとっては、恩恵ではなくなっているのに、給料払って教えているのだから授業料が欲しいぐらいだなんて説教するような意識は既に間違いとされています。今日のような人手不足の時代には、「働かせてやる」ではなく「働いていただく」と言う意識変換が求められています。「働いて頂く」と言う感覚からすると、仕事も「教えてやる」から「学んでいただく」に大きく変わってきています。それは、マニュアルとして定型作業を繰り返して頂くか、自発的な対応を認めていくかに掛かっています。すると自発的対応は非常にリスクが高いものとなります。例えば、「ヒャリとしたハットした」と言う気づきを利用してレベルアップを図ると言う方法として「ヒャリハット」などと言う技能向上方法がありますが、今日では、周りがヒヤヒヤ、ハラハラしているのに、本人は平然として指摘にも反論するような事も起きています。その原因は、これまでの仕事の常識感覚が大きく変化しているからです。接客の常識だった、お客様には迷惑を掛けないと言う発想からすれば商品の陳列作業をしているときにその棚の商品を見ようとする客がいたならいらっしゃいませと言って仕事を中断してでも見やすいように配慮するが基本ですが、今日では、退けることもなく陳列作業に専念しているという事は普通に見られます。コンビニなどでは店員も少なく24時間ですから、到着した商品のコンテナがそのまま積んであって狭い通路が塞がれてしまっている事さえ日常的になりました。しかも、それを接客としてだめだと注意したなら辞めますと言う言葉が返ってくる時代でもあります。この様な事態に、コーチングを「考えさせる」と勘違いしている人は、結局説教はできてもコーチングは出来ません。私の言うコーチングは「考えさせる」のではなく、「考えてもらう」環境を作っていくことです。それは、「考える習慣」を作っていくことでもありますから、うまくいけば効果は応用的に広がりますがうまくいかなければ、徒労に終わると言うものでもあります。つまり、目先の作業のマニュアルの復習としての「考えさせる」ではありませんから、即戦力が欲しい時には全く用を足さないと言うものでもあります。何故なら、ティーチングやトレーニングの、主体は、教える側にあるしその技能にあるのですが、コーチングの主体は、職員にあるという事だからです。研修する側にこの意識の転換が出来なければ、コーチングの研修をいくらやっても効果などでないのです。今日のグループワーク研修が人を育てないのは、研修主体者の側にこの意識変換が出来ていないからです。育てるという事は、相手からすると「押し付けられる」ことにつながる感覚になるからと、研修内容から厳しさや真理の追及を省き、レクリェーション化した東京都の福祉資格研修制度のようになるからです。私の受けた、東京都の相談支援員の資格取得の研修でのグループワークでは論争さえ否定していました。だったら考える必要も何のために考えなければならないかも必要がなくなってしまうのです。一方的に聞く座学は効果がないと、仲間同士的なグループワークを流行らせ、誰でも発言できるし押し付けたりしませんだけでなく、間違いを指摘するのもダメと、突き詰めることちもなく、言いっぱなしでみんな一緒にゴールテープを切りましょうと言うレベルの研修を行うだけでなく、福祉の資格受講にも取り入れている事で、コーチィングはほとんど根付くことが出来ていません。ティーチングをソフトにしたのがコーチィングぐらいの理解しか出来ない程度の研修しかできない現状では、現場に戻ってコーチィングなど出来るはずもありません。他人のの人生に影響を与える福祉の現場にあっては、職場研修や人材育成は、ティーチングから、コーチングへの転換がされるべきとは思いますが、ティーチング感覚のコーチングしか出来ない公的資格研修を続ける限り本当のコーチィングが出来る人材育成は出来ないと思うのです。親交会なら上出来でも資格研修としては最低の研修でも御上がバックにいると押通ってしまうことで、ティーチングから、コーチングへの意識転換が行われて行かない事は残念な事です。