知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

人権はお金で買うものだの話

  福祉施設で永く働いている人は、逃げ遅れた人です。福祉は、ほっとけないから始まって、逃げ遅れた人が逃げることも出来ずに続けている奇特な流れがある一方で、貧困ビジネスまがいの利益追求の人の不幸で飯を食らう人がいます。私が勤めた頃の福祉の現場は、1年以内に辞めていくと言うのが常識で長く残っている人は変人の世界でした。過去の福祉の現場では、それほど劣悪な職場でした。それは、福祉が、人の生活に必要な制度として認められていたのではなく、社会の安全装置の一つとして、「脅しとしての福祉」でしかなかったからです。社会として、障害者に対する不安感や不信感が貧困などと共に複合的に重なって、社会の騒動に至らないようにする最低限の安全装置の時代だったからです。それは、社会の安全に対しての「脅しの福祉」ですから、人権や権利としての福祉ではありません。そして福祉の業界も税金を投入させるために、「脅しの福祉」を自らも行っていました。保険に入る動機は、自分が事故や病気に遭遇する可能性があるという事を想定した時の備えとしてですが、人は誰でも年老いやがて自立度が失われボケて社会に迷惑を掛けるかもしれない。核家族の社会で親世代が老いたとき介護が必要になっても妻のパート代が生活費に組み込まれている家族は介護は出来ない。働き手に迷惑をかけないようにするには介護施設が必要だし、一人ひとりばらばらにするよりまとめてやった方が効率がいい。働く世代に迷惑をかけない効率よい介護にはまとめた方が良いと大規模な施設を含めて老人介護の制度は核家族の働き手を守る保険として成長してきました。同様に障害施設も、障害者も指導訓練すれば社会に迷惑をかけない人になると「社会復帰」を目指した施設を作り続けました。そんな老人施設や障害者施設での介護・支援が批判されるようになったのは、北欧の福祉を「脅しの福祉」に利用した、人権福祉が大いに活躍したからです。貧困が人権を侵害するように、人権の確保には、実際はお金が必要であるのに、金持ち先進国の模倣をして福祉の転換を図りましたが、人権を買うだけの国力もなく資金の限界はすぐにやってきました。人権はお金で買うしかないにも関わらず、人権を脅しにした福祉は費用だけが拡大して、税金としての福祉は、すぐに限界はやってきて、膨らんだ人権、金で買えなかった人権は、現場に押し付けられて、現場が疲弊することになったのです。今日の、虐待をはじめとした問題の根源もそこにあります。老人施設は、死亡と言う回転がありますから、困難な事例でも我慢すれば解消する場合もありますが、障害者は施設に入れても20年、30年と長生きしますし、死なない努力が払われていますから、一人にかける税金としては、同じ障害者であっても税金の負担に大きな格差が出てきます。在宅の障害者と施設利用者では税金の違いが結果として施設職員の給与としかなっていないという論理も成り立ち、偏りと効率の悪さと言う非難が、障害者施設の回転率向上を目指して脱施設化を強く推しています。既存の施設から何人退所したかが数字目標とし、数字目標が達成されなければ罰までありましたから施設利用の障害者からすれば人の人生に対しての対応としては、人権無視もいいところです。翻弄されるのは障がい者ばかりで、障がい者のための脱施設施策と言いながら障害者の生活が振り回されるのです。一方 脱施設化の流れの中であっても障害者の親には、「親亡き後」と言う命題は解消されていませんから、結果としてグループホームにしがみつかなければならなくなりました。入所施設より金を絞ったグループホームでは、条件がさらに劣化しますから、ますます買える人権が少なくなっているとも言えます。もともと曖昧な自立という言葉で、障害者施設の回転率を上げようとしても、底辺で希求されているのが親亡き後の終の棲家ですから、回転率や自立なんて関係ないのです。しかし、脅しとしての福祉で、障害者の自立の為に施設が必要だと脅してきましたから、終の棲家とするわけにはいかないのです。脅しの福祉は、選択肢を作るという事が出来ませんでしたから、日本の福祉事業全般に、選択肢の無い単一施策しかないのです。ですから障害の違いによる選択肢もないのです。そして、人権を保障するだけの資金の投入も出来ないから、現場が困窮し疲弊して、働く人も逃げ出して慢性的な人手不足が生ずる事に為るのです。