知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

キャラクタープリントの食べ物をなぜ食べられるのかの話

 例えばプリントクッキーに、マリアの像が印刷されていたら、観音様の像が印刷されていたら、誰でもが食べられると思いますか。ミッキーの図柄の棒付きチョコは、「わーミッキー大好き」と言って食べてしまいます。でも子供に「食べちゃいたいぐらいかわいい」と言うのは最上級の誉め言葉ですから大事にしますという表現で大事なものだから大切にしますとなります。ですが、キャラクター商品は、主人公であってもおいしくいただいてしまいます。キャラクター商品の食品は、キャラクターが印刷してあるだけでデザイン料として金額が上乗せされているだけで原材料に特別のものが入っていない事は誰でもが知っています。にも拘わらず、高い料金を払った挙句に食べてしまうのです。多神教の日本では、偶像信仰は普通にあります。ですから、神社仏閣で頂く紙切れに書いてある仏像でも大切にします。お守りなんて物を大事にします。一方キリスト教などでは、偶像崇拝は禁じられていますから、仏像のような神様の彫像などありません。イスラムに至っては宗教画すらありません。江戸時代のキリスト教弾圧では信者を探すために「踏み絵」をしたというのも日本的な偶像崇拝が普通だったことからの発想です。大日如来や観音様を踏むことはできないと同じ論理で、キリストの描かれた、紙や木・金属の版を踏ませて信者であるかの判定をしたと学校で習う有名な話です。そして、日本人はなるほどと疑問を持たないのですが、他の宗教を知る人なら、日本的ではあるけれど形式的で本質的ではないことが分かります。つまり、偶像の中に神はいないとされている宗教にとっては踏み絵の図柄がキリストだろうとマリアだろうと物質としての木であり金属であってそこには神はいないとなりますから、実はどうでもいいことだったと思うのです。イスラムならムハンマドの絵など存在しませんから偽物とすぐにばれてしまうという事にもなります。つまり踏み絵は、日本的だったから、隠れキリシタンも日本には存在できたと言えるのです。仏教徒にしてみれば、お釈迦様の絵を踏むというのは相当の覚悟がいりますが、キリストの絵を踏むことには何の抵抗もないというのは、宗教の違い、己の生活環境の違い、信じるものの違い、己が畏怖するものの違いでしかありません。単純には「罰が当たる」と言う日本的発想からの恐れでしかありません。同じ墓場でも異端の宗教なら怖くも恐れもないのは、化けて出るという発想にならないからでもあります。特に、日本にはなじみのない、イスラムコーランが焼かれようと、踏みにじられようと全く気になりませんが、観音像を踏めと言われればためらいます。一方日本では「鰯の頭も信心から」と言うように「神が宿る」となれば神罰や仏罰を「報復として受ける」と考えていますから「粗末にする」という事はご法度となります。その意識が生活の中で醸成されていますから「踏み絵」などと言われても誰もが納得してしまうのです。一方で日本風では、「魂を入れる、魂を抜くという」儀式があります。仏像だろうと魂を抜く儀式さえするならただの像になって破壊することも許されます。ですから、それまで拝んでいた仏像が、美術品になってしまう事もありますし、売買の対象ともなってしまいます。この発想で言えば、踏み絵も魂が抜かれていればただの絵にすぎなくなってしまいます。という事は、キャラクタープリントのクッキーは魂が入っていないという事になります。また、遺影などと言うものは高貴な人だけが描かれましたし、墓が庶民に一般的になるのは江戸時代からで、写真の遺影がある葬式が一般的になったのもそんな昔ではありません。それでも、結婚式に二人の写真入りのプリントクッキーは配られても、遺影クッキーはまだ配られてはいません。キャラクタープリントクッキーのように、大すきだから食べて供養するという事にはまだなっていません。八百万の神の日本的発想が、入魂と言うことに繋がり、キャラクタープリントの食べ物は入魂されていないので食べてもいいのです。同様に、お供え物もお下がりによって食べてもいいように食べ物は廃棄せずに食べていました。それでも、饅頭やせんべいに仏像を焼き印ででも描けたのに描かなかったのには怖れがあったからだと思うのです。七福神や人形焼きのような形もありますが、「畏れ多い」感覚は小さくなっていっていることがキャラクタープリント食品を増やしているのかもしれません。