知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

墓で引っ張ったら魂が迷ってしまうの話

     仏教の輪廻転生は実に分かりやすい話です。「すべての結果には必ず原因がある」という因果の法則に基づいて、そこに、生まれた原因があって結果としての「生」、そして生まれたと言う原因から、結果が始まっているという事です。常に、原因があって結果がありその結果に基づいて生まれた新しい原因が動き出すという事です。この因果の法則は、仏教の元ともなる考え方ですからこの論の展開を人間に当てはめると、輪廻転生となってくるわけです。簡単には、死によって原因としての魂は他の肉体を得て生まれ変わる結果となるという事です。生まれ変わるのですから、魂は次の生命体に宿っているという事です。という事は、死んだ人の墓に行っても、墓の中で眠っている訳がないという事になります。ほかのところで生まれ変わっているのですから、墓に帰っては来れないのです。つまり、故人は墓にはいません。何か原因があって、生まれ変わることが出来なければ、帰ってくる拠り所に墓はなるかもしれませんが、何世代もが生まれ変わることが出来ないとなるとただの問題一族でしかありません。宗教者は色々と自分に都合のいい言い方をしますが、輪廻転生の考え方をはめ込むと、魂や霊魂は存在する肉体を使用しているだけで、不要になれば死滅せず別の肉体に移動するからすれば、墓にとどまっている事などはないという事です。天国に行ってしまっている場合もありますから、墓と言うのは遺族がそこに霊魂を呼び出して交流するという事になるのでしょうが、地獄に行っていたら自由な外出は出来ませんから帰って来ることは出来ないと思うのです。古来の日本やピラミッドのエジプト、ヨーロッパの土葬などは、輪廻転生ではなく、「復活」という事です。復活するためには、肉体がなければならないという事です。しかし、最大ビラミットのクフ王だろうと、1回しか亡霊のように出てこないキリストさんだろうと、今も生きているはずの空海上人だろうと復活して元の肉体を使用したという事はありません。肉体は単なる物質ですから老朽化と変わり果ていく変化によって自然に戻ってしまうと言うのが普通です。それに対して魂は抜け出してどこかへ行ってしまうと言うのが輪廻転生ですから、本人にしても着替えるがごとく古い肉体などいらないという事になります。古いものにいつまでも拘っていたのでは再生出来ませんし、脱皮したのに抜け殻を見ていたところで戻れるものではないのです。次のステージへ誰もが行ってしまうと言うのは極当たり前のことです。因果応報と言う言葉は今日では意外と悪い言い方に使われますが、原因があるから結果があるという事は実に明快な事象の説明とも言えます。最近は、墓じまい、終活と色々言われますが、仏教であれ他宗教であれ、今日では死者を弔うと言う礼儀は、葬儀屋の為にあるように墓もまた、宗教者の生活の為にあるとも言えます。ですから、既得権としても無くなると言うことは無いと思うのですが、墓は形にすぎず、墓に魂が宿っていると言うのはないという事も確実だと思うのです。