知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

花は舞台で咲いていないの話

     野に咲く花も、園芸の花も舞台に飾られる事はあっても、舞台で咲いているのではありません。多くの花は、一年に一度しか咲きませんから、咲いた花が枯れるまでの数日間が、まるで舞台の上のように人々は感じますが、花を落としてしまうとただの「草や木」になってその背景もただの風景に代わってしまいます。例えば「さくら」。桜が咲く頃は、大人気でライトアップまでしますから舞台の上のようですが、咲き終われば誰も見向きもしません。花が咲いているときには一枝折ろうものなら大騒ぎになりますが、葉が生い茂る頃に、交通の邪魔と枝を勝手に切られたとしても誰も話題ともしません。そして秋に葉を落とせば、落ち葉が側溝を詰まらせると恨まれたりもします。ひどい場合には、ひと夏かけて葉を付けたのに電信柱状態まで街路樹の枝が切りこまれる強剪定が税金をかけて行われる事もあります。つまり、人間は植物に対して、自分のご都合で付き合っている事ばかりで、植物に合わせたことなど実は一つもないのです。作物を作ること自体が人間の勝手で自然の状態ではありません。盆栽なんて生死ぎりぎりで木を痛めつけて人間の好む形にしていますし、花壇の園芸種なんて人間の都合の為に作られたものでしかありません。その為、日常的にも植物に対しては、上目目線です。ですから自分に利益がなければ簡単に雑草と言いますし、雑木ともいいます。人間が使用していない土地は、原野ですし原生林です。ですから、草木が生きている事など関係なく人間の生活として土地利用を考え草木の存在を考える事等ありません。東京都の神宮開発でも立ち移動できない樹木は伐採し緑が少ないと言われれば植木はいくらでもあるというのが原点です。最近の練馬区の公園開発で「かたくり」を守り育ててきた住民に「かたくり保護」のため立ち退けという計画が発表されてもめている事がありました。練馬区と言えどその昔は、田畑ばかりでその中にある原野と雑木林の中に何十万株ものかたくりがあったというのが過去です。そこを、住宅地として開発され開発地に来た住民が残っていた土地に絶滅しかけていた「かたくり」が有ったので育てていただけですから、「かたくり」に土地を返すことになりましたと言われたなら当然かもしれません。しかし、一度開発された土地で「かたくり」が繁殖するはずはありませんから行政官は植物を知らないとしか言いようがありません。ここでもこの地の沢山の植物がどうこうではなく、人間からするとかわいい「かたくり」は残したいという事だけで、春先に2週間程度しか花は見られませんから花が咲かない長い時間は放置される事にしかなりません。さらに、こんな報道がありました。「ナラ枯れによる落枝・倒木事故を防ぐため座間市の市民団体が今春、市内の公園の樹木に設置したカシノナガキクイムシ(カシナガ)を捕らえるトラップやカシナガの侵入を防ぐ被覆が外される被害が多発した」というもので、犯行はカブトムシなどの昆虫採集者が捕獲機を破壊した可能性があるというのです。その根拠は、去年の7月に、被覆したシートを破った住民から「カブトムシが捕れなくなった。子どもの夢を壊すな」と抗議を受けたことが有ったからというのです。これもどっちもどっちなのです。自然の中では人間が植樹しない限りはどんな木も適当に倒木し次の世代へと移っていきます。外国から入ってきた昆虫によって日本の植物が被害を受けているからと外来植物を排除するという法律もありますが、外来植物を連れてきたのも人間です。なのに、連れられてきた挙句に人間の好き嫌いで害があると指定された地多数の植物からすれば被害者でしかありません。特に明治後の酪農の為に牧草として連れてこられた種の中に多数の今日の害ある雑草が入っています。しかし、外来でも西洋タンポポなどはもう日本を席巻していていますし、コスモスはしっかり日本の花になっています。つまり、人間は植物に対して勝手に移動したり、植えたり、引き抜いたりと何でもありの態度で接しているのです。木は人間の都合で生きているわけではありません。しかし人間にとっては都合よく利用するという一方的な関係であるというのが現実です。野の花も園芸の花も人間の為に咲いているのではないのです。人間が想定する舞台も迷惑なだけだという事です。