知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

引き出し屋と同類の居場所探しの引きこもり対策の話 

   発達障害などの問題で、必ず出てくるのが「居場所がない」とか「生きづらさ」ですがそれって何なのだろうと思うのです。この曖昧な言葉で社会不適応や集団不適応、対人不安が騙されていると思うのです。そして、学者の思い込みとお節介が混乱を大きくしていると思うのです。例えば、「生きづらさ」とは何かと一般的に問うと、人間関係の行き詰まりで自己肯定感の低さや、コミュニケーションの問題とされていますが、そんなことは、普通の人生の悩みでしかないと思うのです。ただの悩みでも理論化なんてことをすれば高尚な悩みへ変身できますが、悩みは成長の糧でもあり、社会性の原点でもあります。「どう対応していいのか分からなかった」「対応に苦慮している」は普通だと思うのです。特に自分の居場所なんて本人以外に感じることは不可能ですから千差万別すぎてまとめることなど出来ないと思うのです。人生充実していたと思われる年寄りだってその人生の中では居場所をずっと確保できて来たのかと言えば、否だと思うのです。むしろ、真剣に自己満足のできる居場所を探し続けていたと思うのです。それは、誰でもが全面的に自分の人生を肯定し、自分の居場所はここだと自信を持って言えないからだと思うのです。そして、それが人間性の本質でもあると思うのです。一つの事に満足する一方で、もしかしたなら他の居場所があるのではないかと想像してしまうのが人間だと思うのです。つまり、人生は複数あると思うことが出来る時代環境の中では、学問的な系統図やチャート図のような理解では平面すぎて三次元の構想として展開できないほどに、人間は全く別の人生を創造できてしまう能力があるという事です。つまり、もてる能力があるから迷いや悩みや意志が個人として生まれるという事です。例えばホームレスの中には、不幸な貧しい人のはずなのに公的機関の援助を拒否してホームレスを選択する人もいます。そこには衣食住が満たされたなら済むという事ではなく本人の意志の何かが関与している事があります。衣食住が満たされていても、満たされない気持ちは過去から人間にはずっとあったもので、よく言う「自分探し」は人間の持つ能力がなせる業そのものと言えると思うのです。他者とどう違うかを比較する事から始まる自己認識は、人間の謎の部分だと思うのです。「唯我独尊」自分が一番かわいいのですから、個人の悩み、迷いは他者との関係のなかで発生と消滅を繰り返すもので、社会として解決できるものとは思えないのです。そして、それは社会が安定している程に多発しその悩みを社会に依存する傾向が高くなるのです。社会への依存を突き放すことも人間の歴史では行ってきましたが今日では、そんな依存さえも社会が受容しようというのが「居場所探し」支援政策だと思うのです。しかもその支援策をみると現場では、ゲームやり放題、漫画見放題、なんでも相談なんてことをして「餌に食いついたら」引っ張り出そうという方法ばかりです。「居場所がない」とか「生きづらさ」に他人が関わって解決するはずなどないと思うのです。「転機」となる機会を提供できると思い込む方が傲慢だと思うのです。何故なら、情報の氾濫と情報収集の簡便さが溢れすぎているからです。少し前までは、情報そのものを得るための活動が必要でしたがネット社会ではそれも簡略化しました。当然処理能力以上の情報があれば情報に踏みにじられてしまう事は当然のことです。過去のように、情報も選択肢もない時代には創造と空想であったことが、多量の情報と選択肢が見えるようになった一方で実はそれが架空であるという事を認識できない人が増えるのです。実態は、膨大な情報はただ川の流れを見ているだけのようなもので流れ去り川に入ればおぼれてしまうし、見える選択肢は、実は制限されていることを知ったとき誰もが見えない幕を感じるのです。そうして殻に閉じこもった人をいきなり悪人のごとく引き出して罰を与えていく「引き出し屋」がいるからと行政がやっている「引きこもり対策」はどっちもどっちだと思うのです。どっちも「寄生虫」扱いでしかないと思うのです。