知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

『作品に罪はない』でも作者は悪霊に憑りつかれているの話

 全ての人間の行為は、本人の意識や無意識にかかわらず常に背景が影と同じに付きまとうと言うのが基本です。ですから、どんな作品にも背景があります。その背景によって作品は大きな影響を受けていることは多くの作品に共通してみられます。音楽性だとか、芸術性だとかと、アーティストの一部は、作品こそがすべてであるとも言います。そして作品には善悪の範囲で計ることは出来ないと言い、文化・芸術は、清く正しく美しく人間が作り出した最高の物だと思い込んでいる人もいます。さらに、作品にはその人の魂が宿っているとまで表現する人もいますが、それは魂が悪霊に乗っ取られているなら作品も悪霊の創造物だという事になってしまうとは思っていません。芸術家仲間は、創作物さえ良ければ多少の社会性欠如など取るに足りない問題と考えがちですが、創作している本人の背景が見えてきて、悪霊が乗り移った化身が見えるならそれは悪霊の作品であって本人の才能ではないと私は考えます。そして悪霊は良い作品の様に見せながら人心を穢していくと言うことも起こりうるという事が歴史でも繰り返し起きていることを考慮しなければならないと思うのです。独りよがりの芸術家たちは、世間の批判なんてと言いますが、過去の芸術家だけでなく、科学者が、研究者が、そんなことを言っているうちに、戦争を含めて政治に利用された歴史があるように、クリエーティブな人物だ、アーティストだと気取っている人たちがすでに政治にすっかり丸め込まれているなんてことも繰り返されてきたことです。悪霊に操られるままに出来た作品が社会に被害をもたらしたことを忘れてはならないと思うのです。ですから、芸術表現だと社会に公表されたものは、どこかで背景までも問われることになり、結果として悪霊の創作品と揶揄されてしまう事もありうるという事です。実際文化や芸術がどれほど政治や争いにまみれていたかは歴史を見れば簡単に分かります。今のオリンピックだってずっと健全だった訳でもありませんし、今も政治がらみです。それだけに人選は、背景までも加味して行うべきだと思うのです。

過去の〝いじめ自慢〟で騒動となった小山田圭吾(52)氏が、東京五輪開会式の作曲担当やNHK・Eテレの「デザインあ」の音楽を辞めさせられました。「雑誌のインタビューは25年以上前とはいえ、その後もいじめ記事は何度もネット掲示板やSNSで蒸し返され、炎上を繰り返してきた。それでも小山田さんは謝罪しなかった。」と記事でも書かれオリンピックだから突然謝罪したことも、本音はオリンピックの開会式の音楽担当と言う履歴が欲しかったからで謝罪する気など全くないと誰もが推測してしまいました。味方のはずの、音楽プロデューサー田辺晋太郎氏は「はーい、正義を振りかざす皆さんの願いが叶いました、良かったですねー!」と投稿しましたが、自身の身を守るために直ぐに削除し謝罪しました。そしてバンド「METAFIVE」メンバーでNHK・Eテレ「ムジカピッコリーノ」音楽担当のゴンドウトモヒコ氏は、「偉いよ小山田くん。受け止める。いい音出してこう!!!!! 寧ろ炎上なんか〇〇喰らえ。」と投稿しましたが自身の身を守るために同様に直後に削除し謝罪しました。悪霊に乗っ取られた音楽仲間なんてこんなものです。擁護するなら正々堂々としていればいいのに自分に火の手が向かった途端に逃げ出してしまうのです。小山田氏の行為は犯罪です。その行為は40年前であっても犯罪でした。問題なのは、犯罪と作品を分離したいアーティストたちの意識の問題です。芸術は、凡人には出来ない、決まりやルールに従っているような人間ではなく、非凡なアーティストは、社会生活がハチャメチャの人が多いと言う言い訳を語る輩です。芸術作品での天才は数ありますが、皆社会性が逸脱していたから出来たなんてことは嘘と言えます。何故なら、正常な芸術家は常に社会の評価を得ようと表現活動をしていますから、奇抜や突飛な事をしても、社会に自分の表現を評価して欲しいと活動しているだけで社会のルールや決まりごとに反した生活を目指してはいません。少し名が売れると、武勇伝を語りたくなる成り上がり者や自慢話をしてみたい輩とは違います。社会的評価を受けたいと表現活動をしている人は、逆に社会と直面しています。仲間で群れてアーティストの素振りをする人間は、平凡ではない何かを語る事で虚像を描こうとしますが、虚像は虚像でしかありません。どんなに美しいものでも人としての理性を持ち合わせていないものは評価しない、騙されないと言う理性が社会にはあります。犯罪人としての反省も出来ない悪霊に乗っ取られた音楽家の作品を使用する事は社会にとっては危険です。そして、そんな輩を芸術家として採用している側も悪霊に乗っ取られているとも言えます。本音では障がい者は嫌いと言う人が、沢山いる事が問題なのではなく、差別をなくそうと活動している組織の中に紛れ込んで騙していることが問題です。差別を正当化するかのような主張を明確にしている人もいる中で、本音を隠し、差別に真剣に取り組んでいる人たちの靴ひもを密かに踏むような人物がアーティストとして社会で活躍出来るのなら、それは悪霊に憑りつかれているから出来るとしか言いようがないと思うのです。小山田圭吾氏もおとぼりが覚めたころ再び復活してくる背景には、隠れ小山田圭吾氏達が沢山いるからだと思います。そして彼らは、創作物が社会に評価されるものを生み出せる芸術家は、多少の社会性欠如など取るに足りない問題と主張するのですが、それは悪霊に憑りつかれた芸実家気取りの群れだから言い出すだけで、理性ある芸術家はちゃんと社会を直視していると思うのです。