知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

他人と比較する人は幸せになれないは、本当ですかの話

 自分中心の見方にならない様に、客観的に周りを見なさいと言う一方で、他人と自分を比較する人は幸せになれないと言います。この矛盾した言葉は、他人を責めるときに都合のいいように使われます。確かに、我が強い人には、周りを見ろと言うのは有効かもしれませんし、本人が落ち込んだりすれば周りを気にするな自分は自分だと励ますのに有効かもしれません。でもどっちも他人が他人をコントロールする言葉の刺であってその場しのぎのカットバンでしかないと思うのです。実際誰もが思う事は、子供の頃の方が他者との比較感が少ない分幸せを感じやすく、大人になるほど幸せ感は低くなっているなという事です。その理由に子供の頃は無邪気だったからで納得するのですが、子供より大人の方が幸せってなんだろうを繰り返し問いかけていると思うのです。人は、子供の時から勉強が出来る出来ないから始まる多種多様な比較の中で評価されてきます。そして比較する事こそが、現代を生きる人間の自他の識別の根源ともなっていますから、現代人は比較を気にしないなんて出来るわけがありません。比較の中に落ち込みもがき、比較するほど幸せ感が沈んでいくので、幸せそのものが何かを見つけることすらできなくなっています。しかも嘘の情報から装飾された情報、創作された情報を含めて検証も出来ない比較情報が提供されている状態に置かれていますから、疑問は膨らみ、そんなこと気にしなくても良いんじゃないと言われながら、のど元に情報を突き付けられる時代でもあるのです。自己肯定感を脅かす、何でもない比較情報がそこここに溢れていて偶然に気にしたなら搦めとられて不幸に落とし込まれかねないのも現代です。例えば、最も無駄と思われる、「しあわせ度国別ランキング」によって高い位置にあったブータンは、報道されて国内に外国メディアが入ったことで、他国との比較がなされた途端に、2019年度版で156か国中95位になりその後は出てきません。家があり家族がいれば幸せと言っていた幸せ感は、やっぱりそれだけで幸せと言えるのかと言う豊かな国からの突きつけに黙らせられたのです。一位になっているのはフィンランドなどの北欧の国です。そして、一位の理由は、他人と自分を比較したがらない独自ペースが好きな国だからと言います。でも、日本風に言う謙遜を美徳とする本音を言わない人たちから見れば、自己主張の強いうぬぼれた人たちともいえますから、幸せという事自体が見え張ってるんじゃないとも言われかねません。つまり、他人と比較する人は幸せになれないを現代で考えれば、余程強固な自己肯定者でなければ幸せになれない事になり、幸せでないという事は、不幸なのかという事になってしまいます。言い換えれば、他人と比較する人は不幸になると言う言い方も成り立つのかという事でもあります。人は、不幸と言う言葉に強い反感を持っていて幸せではないけれど不幸ではないと言う言い方もします。ですから、幸せを考えるときは、逆に不幸とは何かを考えなければなりません。「幸せってなんだっけなんだっけ」と言うテレビCМがありましたが、日本人的には幸せですかと問われたら照れてしまう問いかけでも、不幸ですかと問われたら即座にいいえと答える感覚の言葉です。だから、「幸せなら手をたたこう」は日本が発祥と言われる歌で、間接的に手をたたいて表現すると言うのが受けて流行りました。「幸せ」という言葉がその社会でどのような重みで受け取られているかで問う方も問われる方も全く違う感覚でいるとは思うのですが言葉としては、その人の核心となる思想に大きく関わるものだとも思うのです。それだけに、その言葉には、宗教的影響はとても大きいと思うのです。一方不幸と言うのは、幸せが広く解釈されるのに対して狭い解釈で否定と拒否、そして嫌悪の言葉として捉えられ不幸でありたくないと言う心情から反応される場合が多いと思うのです。人の不幸は蜜の味と言う言葉もあるように、他人と比較する事でないと幸せを感じられないと言うのも人間ではないかともいえるのです。上を向いたらキリがない下を見たなら後がない状況でも、横を見たなら他人が見えれば、比較してしまうのが人情でもあると思うのです。物の豊かさと精神の豊かさなんて事でも、結局は比較しているだけです。社会が複雑になればなるほど、比較内容もささやかな事で一喜一憂することになり、比較する他人さえも多種多様になってきます。そう考えると、他人と比較する人は幸せになれないは嘘で、他人と比較することによってしか人は幸せを感じられない時代に遭遇しているのだと思うのです。