祭りがあれば一口乗りたいと言う人たちには魅力的なお祭りSDGsが始まっています。でも中身を読んだら、今の生活感覚が否定されていることに気づいて気軽に一口乗りたいで始めるものではない事が分かります。もし本当にこの17項目のどれ一つにでも真面目に取り組むなら、今の生活を抜本的に見直さなければならない事が明白になってきます。と言うのは、日本の多くの人にリサイクルに努力していますかと尋ねると、ほとんどの人が努力していると答えると言われています。その根拠は、と尋ねると、ゴミ出しの為に何種類もの分別をしているからと答えるとの事です。つまり、ゴミ出しで分別の努力をしていることがリサイクル実践だと大間違いをしているのです。この感覚でSDGsを考えたのなら大間違いであることは明白です。何故なら、リサイクルの前にあるのは、ゴミを出さない生活様式だという事が理解されていないからです。ゴミを選別する事の前にゴミが出る大量消費の生活が検証されなければなりません。それは、大量生産、大量消費と言う経済システムの中で不用品までも買い込んで結果として使用も利用も十分にしないままに廃棄としていることが問題としてあげられる生活が普通になっている事です。例えば、日本酒なら大吟醸酒と呼ばれる酒を造るのに米を半分ぐらい削るのですが、酒米と言えど食べるものがない環境なら何人ものお腹が満たされるという事でもあります。豆腐は、おからが産業廃棄物になっています。全部使って廃棄物を少しでも減らすとなれば、今の生産物の高級品などと言うものは無駄ばかりの製品となっています。過去には、残飯で養豚をしていましたが、肉の品質を一定に保てないと今では穀物による飼料でなければならなくなりました。同様に、残滓を堆肥にして使うと言う時代も過去のものとなっています。今では残滓は、燃えるゴミとして水分を含んだまま化石燃料で燃やすのですから燃料もたくさん必要です。生ごみを出さない様にする家庭菜園もないアパート暮らしでは堆肥にも出来ません。着る物もそうです、着た切りスズメと言われる程度の衣類でもいいぐらい洗濯して着ればいいと言うことなどは今やみっともないと言われる生活環境になっています。が、一年に1回しか着たことがないと言う衣類が沢山あって売りに行ったら大きな袋いっぱいで100円にもならなかったと言う話があるように衣類は溢れかえっています。西松屋や行けば子供服が数百円で買えますから、お下がりなんて考え方すら出来ません。SDGsに言う「 持続可能な消費と生産のパターンを確保する」には、可能な限り最小の資源で少ないエネルギーの使用で生活する事と言われ、衣類を生産するには化石資源もエネルギーも大量に使われますが、在庫のまま廃棄される衣類が多いと言うのが現状です。今の日本の普通の生活は、大量の資源の消費とエネルギーの消費によって成り立っている事は明らかです。持続可能な消費と生産は「より少ないものでより多く、よりよく」を目指していると言われていますが、人間の生活では、そんな都合のいい生活など、これまでも、これからも成立するとは思えません。資本主義と言う経済活動は、需要と供給であり、生産と消費の拡大です。穀物・野菜を供給するために森林開発が今も進んでいますし、魚を供給するために漁業船や漁網が開発され魚を根こそぎ捕獲して枯渇させていますし、山を崩し地下を掘り進んで鉱物を取り続けていないと建設資材は供給されませんし、一戸建ての家が欲しいとなれば人口の増加に合わせて土地開発は進み山野が失われていくのは当然の事です。つまり、ライフサイクル全体を通して消費しなければ自分の職場もないと言う社会構造を作り出しその中で生活している人間が、ちょっとだけ反省してSDGs祭りに参加する程度での話ではないという事です。例えば、SDGsの中に、全世界の水資源のうち(飲用に適した)淡水は 3%に満たず、南極や北極、氷河で凍り付いている分を除くと 0.5%の淡水で人間生態系の淡水ニーズを満たさねばならないと説明されますが、これに対して日本人はどんな行動をすればいいのかと問われたとき何と答えられますか。節水という事は何の意味もありません。水道水は、川の水であり、日本では川はどこにでもあり、淡水の雨が降る位置にいるのです。節水したところで川の流れは変わらないのです。むしろ日本では、川を汚染しないという事が重要で、家庭の生活排水の中の洗剤を含めた化学製品をどれだけ除去して排水するかに関心がもたれています。ですから、水は自然から無償で手に入るものと考える日本人にとって、給水のためのインフラには大きなコストがかかりますと言われても、世界の水資源との関りで実感する事は困難です。淡水にアクセスできない人々は、依然として 10 億人を超えていると言われても、結果として知識としての認識は出来ても何の行動にもつながりません。しかも、水資源を大事にしようと植林している横では、住宅の為の大規模開発は現実に起きていますし、農地確保の為の森林破壊は世界規模で進んでいると言う報道も見ているのです。さらに、毎年、生産される食料全体の 3 分の 1 に相当する 13億トンの食料が無駄になっているとか、 全世界で 20 億人が体重超過または肥満となっていると説明されますが、デブはSDGsの敵かのような言い回しは偏見を生む内容でもあります。人の体重迄不適とするなら、観光業は、輸送費を含めて無駄そのものです。SDGs祭りで子供たちに、節約や無駄を直すなどの啓発効果を求めているのでしょうが、本当の意味での、SDGsを実践するとなると、経済との関係を基本的に見直さなければなりませんが、経済優先の利権と既得権の現代の社会システムの中では、そんなことが出来るとはとても思えません。何故なら、貧困から抜け出すには、豊かさを求めるには、森林を失っても耕作地を作り生産を増やし販売する事しか今はないからです。開発し販売しお金を得なければ持続可能な社会が出来る前に飢え死にしてしまう国が沢山あるという事でもあります。温暖化についても後進国からすれば、先進国が散々甘い汁を吸った挙句に化石燃料は温暖化の敵だから使用するなは、勝手すぎる話なのです。やっとガソリンエンジンの生産ができるようになったら電気自動車でなければならないと言って電気自動車の技術を先進国が独占し結果として先進国の車を買わなければならない様にすることは後進国からすればずるい話です。新型コロナの対応だって技能のある先進国がワクチンを特許製造しそのノウハウは提供されない現状では、地球と言う規模から考えれば貧しい国は薬も買えないし自国で生産する事も出来ません。SDGsは、ゆとりある国にとっては現在の地球状況のリスクとして認識されていますが、貧しい国にとっては自分たちの生活を苦しめる内容でもあるのです。食品の調理一つをとっても、水と少しの塩だけで調理している国は沢山あって、出汁をとってなんてこと自体が贅沢でもあるという事です。先進国と言われ、大量消費の中にいる日本人が、耳障りの言いSDGs祭りに一口乗っても、一枚の衣類しか持たない貧しい国の人々にとっては金持ちの偽善的なお祭りとしか映らないものです。持続可能な社会とは、まったくかけ離れた今の日本人の生活ではSDGsの本来の目的を理解することは困難だと思うのです。もし仮に本当にSDGsに取り組む意思があるなら、粗食になってもいいから自分の食べるご飯は自国で生産する事から始めるべきだと思うのです。日本の食料自給率は、令和元年度のカロリーベース値は、38%ですし、 生産額ベース値は66%です。国内で生産できない物もありますから100%は無理ですが少しでも自給率を高めることは、世界の森林破壊を止める一助になる事は間違いありません。SDGs祭り、一口乗るなら、清貧な生活が求められていることに気が付かなければならないと思うのです。