知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

神仏は祈りを黙過するの話

 戦争が起きて子供が泣き叫び死のうと、民族争いで人が意味もなく殺されようと、祈り続ける弱者が飢え死にしようと、「神仏は黙過する」だけで何もしてくれません。信仰を持つ人は誰でもが祈ります。でもその祈りが神仏に届き手を差し伸べてくれることはありません。時に運よく良いことが起きると信者は神の奇跡と讃えますがそれは偶然にすぎず祈らなくてもその様になりました。所詮祈りは、困ったときの「人間の独り言」にすぎないのです。神仏は、だまって、聞こえないふりをしてそのままにしておくだけです。何故なら、神仏は「判定者」ではないからです。人間の争いは人間性によって行われ、人間の利害で繰り返されます。ですから、歴史を深く知る神仏は、人類の歴史の中でどの民が正当で、どの民が悪いものだなどと、厳正で公平な判断など出来るわけがないのです。そして信者たちの守護神は、信者の人間界の力と同等の力しかなく、信者の力以上のことなどできないのです。万能の神「ゼウス」をもつてしてもギリシャの民がキリスト教になることを阻止できませんでした。神仏の弟子やその信者が人間界でどれほどの力を持っているかで、その威厳を示しますが、弱者の神仏への祈りは、所詮自己満足の範囲でしかありません。どんな神仏も平和を伝えますが、人間界の武力は神仏の全く力の及ばないところで大いに活躍します。ですから武運を神仏が左右することなどありません。勝敗は、武力の質量と戦略と兵站で決まります。そうした武力の勝者が、歴史を綴りますから、そこには神仏の入り込む余地などありません。神仏は、人間界のどんな不正も、不誠実な記録も、是正することなどありません。そして敗者は、ただ、守護神とともに地層の土の一部となって埋もれ遺物一つ残せないのです。そこには、公平であるべき神仏が関与する余地はなく、ただ黙過するだけなのです。そして、人間が創造した神仏は、人間同士の殺戮を止めさせることも、罰することも出来ません。神仏は、地上の生き物と同様に、人間だけを特別に扱う事はありません。その種がなすがままどうなろうと放置するのです。人がどれほど祈ったとしても神仏に助けられることはありません。当然、地獄も天国もありませんから今生の不幸で死する人はただ損をするだけです。神仏のために、殉死したとしても神仏の元へ戻るのではなく、物体として消滅するだけでしかありません。繰り返しですが、神仏は、祈りを黙過するように罰も設定してはいません。