知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

化身が日本の宗教をなんでも可能にしたの話

日本の神仏混合を可能にした基本的考え方は、化身です。例えば、不動明王は、大日如来の化身だということです。大日如来曼荼羅で言うと中心、最高位の仏として君臨しているだけでなく、時には、別人の不動明王に変身してしまうというのです。変身というのはテレビの子供番組よりはるかに昔からあったのです。ですから、時には、大日如来は、神道天照大神にもなってしまうのです。このように変身できることを、本体の他に何にでも成れることを可能にしたのは、空海です。ですから、極論で言えば、私が大日如来の化身だと叫んで信じる人がわさわさと出てきたら、私が大日如来です。こんなことは、人間が神にはなれない、絶体神の考えではありえません。人間は、神からの教えを伝える役割か、神が選んだ人間が救世主となったりはしますが神にはなれません。人間同士の中で、最高位に就こうと権力争いをしたり、解釈論で流派を作ったりと争う程度で、権力を得ても神にはなれません。しかし、日本では、古来から新興宗教というのが出ては消えを繰り返していますが、教祖そのものが神だ仏だという事は普通なのです。その為、教祖の考え方によっては、神仏混合だけでなく、絶体神のキリスト教イスラム教まで合体させたものまであります。信心さえあれば何でもありというのが実態です。何故そんなことになったかというと、日本の神道には教義がないように、哲学的思考や思想というものが、日本の宗教からは抜けているからです。その結果、信心は、基本願い事に始まってご利益に終わるぐらいだからです。日本の宗教は、常に権力によって保護され権力に利用されてきました。宗教としての一揆で権力と戦ったという歴史もあると言いますが、戦国時代に信長と敵対した一向一揆も、天皇制に向かって矛先を向けたりはしていません。第二次世界大戦でも、宗教は動員させられて、寺の釣り鐘まで、鉄砲や大砲の為に供出しているのです。

化身ということは本当にずるい考え方ですが、現世的・世俗的な考え方です。敵対する相手の神様さえも自分たちの神の一人であると考えて取り込んだり、相手にひれ伏しているようにしながら自分たちの一人と考えているのですから、したたかという事もできます。しかし、それが意識的に行われているのではなく、漫然と行われているから、文化と言えると思うのです。

日本の神道では基本自然崇拝ですから、神は言葉ではなく、自然現象で感情を現すと考えられます。天災としての神の怒りや日常的な天候を含めて自然現象が神の言葉ですから

自然現象に合わせて、神の怒りの鎮魂と、神の恵みの豊穣へのお願いばかりしているのです。日本の仏教は、インド哲学を吸収し、中国の思想を吸収したうえで、哲学も思想も乗り越えて、神道と合体するときに、願い事対応に専念することになるのです。神仏への報告と願い事が基本になってしまうと、教義などそれほど必要ではなくなります。結果仏教では、念仏さえ唱えていればいいと教義の説明さえ疎かになってしまうのです。ですから、日本の宗教は、イワシの頭も信心からと言われるような事になったのは、化身という変身を認めたことから始まったと言えると思うのです。