知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

偉大な人に逆らう弟子たちの話

 日本人の好きな3大○〇として、仏教、キリスト教イスラム教を世界の3大宗教と言うのですが、これは間違いなく根拠のない非常識だと思っています。学校教育で堂々と言うのでみんな刷り込まれていますが、こんな括り方そのものが実に失礼だと思うのです。日本は戦前の国家神道の反動で宗教に関わってはいけないような雰囲気が強い分、私は無神論などと言いながら、神社仏閣に詣でて、家は仏教の何とか宗ですと知っていることを誇らしげに話すような状況になってしまいました。実際は、明治になるまでの長い神仏混合の深い歴史を持つだけでなく、土着信仰まで取り入れ、多神教の何でもありの宗教多様国家なのに、大きく人数で分類したなら、あなたも仏教徒と言われて、そうなんだと言ってしまうほど、宗教に疎い国民となりました。元々、宗教を人数で考えること自体が間違いで、日本の宗教団体の公表信者数を足していくと、日本の人口では足りないということが言われているように、宗教は多種多様で人数などで括ろうということが間違いそのものです。また、仏教と言っても、仏教の経典を他言語に翻訳するだけで意味が変わってしまうということがあります。翻訳された言語で研究して解釈や展開をすると、翻訳者の力量によっては違った解釈となってもおかしくはないのです。原本とその背景を踏まえなければそこに書かれている文字の意味内容が大きく違うということは沢山あります。さらに、歴史の中の師となってしまい、教えを受けたこともない遠い弟子たちは、自分に都合のいいように解釈して、宗派や派閥を作り私利私欲に利用しているなんてこともしばしば起きています。絶体神のキリスト教であっても、旧約聖書新約聖書も一つなのに解釈の違いで多くの宗派があるように、時代に応じて弟子たちは自分の都合のいいように解釈し、利用してきたという歴史的事実もあります。それは、偉大な人を頂いていても、弟子は尊師を超えられないということでもあり、弟子は尊師の言うことを実践するどころか、逆らっているかの如く見てきたようなウソを云う実践しているとしか思えないのです。例えば、仏教 「どの方向に心で探してみても、自分よりもさらにいとおしいものをどこにも見いだせなかった。そのように他人にとってもそれぞれの自己がいとおしいのである。それ故に自分のために他人を害してはならない」(ウダーナヴァルガ第五章第18節)と尊師は言ったということです。イエスキリスト「イエスは言われた(中略) あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」(マタイ22-39新世界訳聖書)と言って、自分を愛する如く他者を愛せと言ったそうです。イスラムの聖人は、「人間にとって最も愛しいのは自分自身であり、自分が生きながらえることであり、自分が人格的かつ能力的により完璧な存在へと高まっていくことであり、また反対に最も憎らしいのは自分自身が消滅してしまうことであり、自分自身が傷付くことであり、自分自身の完璧さが損なわれる事である。この事実は生きとし生けるものすべてに当てはまり、自己愛のない生きものなど考えられない。」(イフヤ・ウルミーニッニディーン、ガザーリー師)と簡単明瞭に自分を大切にすることを説いています。もし、世界3大宗教の弟子たちが偉大な師の言葉を実践すべく人に伝えていたのなら、戦なんてあろうはずがないのです。弟子たちが他人を「救う」なんて偉人だけにしか出来ないことを自分でも出来るような事を吹聴せず、偉人の言う、「自分が一番大切だ」だから「自分を大切にしている他人に害することをしてはならない」と自分の利益のために、他人を攻撃することを止めさせたなら戦争なんてないと思うのです。どの偉人も言うのは、「自分を大事にしなさい」であり「他人に害なしながら自分を大事にすることは駄目だ」と言うことでそれは真理だと思うのです。だから、戦争なんて絶対ダメだと言われているのと同じです。なのに、歴史を見ても、宗教が戦争の一端を握っているのは事実で、それは偉大な人に弟子が逆らっているからだとしか思えないのです。宗教だからこそ、「自分を大事に」「他人に害せず」を諭してほしいと思うのです。