知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

同調圧力がないなら集団とは言えないの話

   同調圧力と言うと、何か得体のしれない強い力で個人を攻撃する悪い事のように使われがちですが、同調もしないならその集団は烏合の衆であって集団の意味を持ちません。二人以上の人が集まれば、全面ではなくてもその集団の何かに同調する事が求められるのは当然です。しかも、集団は何らかの目的があって形成されますから、「みんな」がそう思っているを前提としており、その中にあって自分の意見を通したいなら、みんなを同調させる様々な方法を自分が駆使すればいいだけのことで、同調圧力の被害者になりたくないのなら離脱すればいいだけのことです。同調圧力に嫌悪を感じるのは、対立する意見があるときに、様々な習慣と経験値から一方の意見に合わせるべきだと圧力をかけられ強制されたと感じる時で基本の生活ではその同調圧力を利用活用しているというのが実態だと思うのです。ですから、暴力的な事から、説得すると言う穏便な方法、雰囲気や環境を整える心理的な事まであります。複数の人間が何かを調整しなければならなくなったときに同調圧力は反対者に向かって向けられるのであって、独りぼっちなら関係のない事です。同調圧力と感じるのは、自分が少数者であると感じ、他者と意見が違うときに戦えない人の言い訳でしかない場合もあります。同調圧力を感じない、集団行動大好きな人には当然、普通の事でそんな圧力など感じることは出来ませんから、感じる人を見れば被害妄想とかわがままにしか見えないと言うのも事実だと思います。例えば、酒宴が好きな人にとっては、酒宴へ誘ってくれることはありがたい話で、嫌いな人にとっては苦痛だという事は理解できません。一方は誘ってくれることを光栄と感じ、付き合わなければ不利だと思って参加する奴など来なければいい程度にしか思えません。逆に言うと、チームワークなんて同調の最たるものですから、「周りに迷惑をかけるな」という圧力が掛かる事は普通です。同調圧力とか同調行動や同調効果といったものは、他者に周りの行動に合わせることを求めるもので、意識的に行うこともあれば、無意識で行うこともあります。その時、自分が周囲との間に共通点があると、同調は無意識に行われます。同調効果を高める為には、大道具建てだけではなく、小道具から親近感迄、行動だけでなく言葉の力も大いに役立てる事になります。「みんなやってますよ」という言い方に日本人は弱いとも言われています。そして、「やらない自分がおかしい」と問い直されるのです。集団を維持するとなれば、常に意志決定が存在しますから、その時ごく自然に同調圧力など雰囲気として発生するもので、集団には常に存在するものです。人類はずっと「群れ」を生活の基盤としてきました。そこでは同調することの訓練を十分に受けて遺伝子的にも同調こそ安全安心の基本とされています。同調しないことで、その群れから追い出され、生命さえも危機にさらされるかもしれないという危機感を無意識に発動し同調します。自分が異なる意見を持っていたならそのリスクとの天秤で判断するのですが、今日の自由度の中では群れとしての意識が遠のいて個人としての意識を優先させますから異なるという事が被害者意識としての同調圧力を訴えることになります。そして、そんな人のためにルールが出来ていくのです。暗黙の了解に従えよりも「決まりだから」の方が今日では説得しやすくなりました。スイスの田舎で、カウベルがうるさいと新しく移住してきた人が村議会に訴えようとして周りから非難されるという報道がありました。新しい移住者にしてみれば夜間であっても牛が動くたびにベルが鳴り続けることは、騒音以外の何物でもないのですが、そこで生まれ育った人にはそれが安心感の実感でもあるとなると完全なる生育環境による感覚の相違でしかありません。正悪の問題でもなく、村人が同調圧力をかけているのでもないのです。異質なものでしかないのです。人間は、同調圧力があったという事は、異質だったというだけにすぎないのです。そして異質であることが敵対であり、排除につながるのです。同じ仲間だと勝手に思い込むから圧力と感じますが、異質であることで排除されていると考えればどうしたらいいかは明確になる事なのです。