知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

「聞く耳」の正体の話

      最近は、相手を否定する論議をしてはならないが決めるには、話し合いが必要だとされます。そして、話し合いでは相手の話をよく聞く事、相手の言い分を否定しない事、自己主張しない事などが、ルールともなっています。それは、まるで忖度会議でもあるのです。ですからこの話し合いでは、結果、誰も傷ついたりしませんが、誰もしゃべりっぱなしの状態で相手の理解も自分の論の弱さも知る事がない状態になるのです。お互いに相手に気を使い、自己主張しないのですから討議なんていつもセレモニーになっているのです。これは、行政との話し合いに似ています。行政の会議は根回しによってほぼ決定されています。ですから最終チェックのようなアリバイ会議であるのに頑張って意見を言っても無言会議よりはいいと利用されるだけでおしまいです。良い事例が現総理の岸田氏です。岸田氏は「聞く力」を自己キャッチフレーズとしてアピールしました。しかし、1年間の実績で分かるように、「聞く力」と言う実績も「説明した」と言う実績も残すことなく、自分のやりたいことを決定しています。つまり、論議とも言えない国会であっても論議をすることなく大きな変更や決定をして成果としています。論議しないのですから野党にも出番はありません。そんなやり方でも支持率が上がってきます。今の風潮の危険さは、話し合いで決めることが最優先と言いながら、そこでは議論をしないと言うルールにより相手の論理の欠陥を指摘せず、お互いに平行線で語る事を最優秀としている事です。そして、いつの間にか権力や権限を持っている者が話し合いの結果として決めてしまうのです。このシステムでは、聞き上手が推奨され、言い合いになってしまうような人は敬遠されます。攻撃されたと相手が感じてしまえば、パワハラとすり替えられることもありますし何らかのハラスメントだと言われ加害者の列に並ばされてしまう事にもなり兼ねません。その一方でプロアマ様々なスポーツでは勝敗に拘ると言う現象が起きて加熱しています。商売としても成り立っています。それは、自分の代理で戦っているとの錯覚であるのかもしれません。自分が直接戦うのではなくアバターの世界で自分のはけ口としているのかもしれません。誰もが魅了されて歌った美空ひばりさんの「柔」に出てくる「口で言うより手の方が早い 馬鹿を相手の時じゃない」は、自分が行動するという事ですから今ではもうとんでもない世界になりました。時代が大きく変わる中で、集団と集団が団結の元戦った時代ははるかに遠くなり個人が大切にされる時代を作ったつもりが、実態は組織力がある組織の一部が決めてしまえる時代となってしまいました。論議をしない訓練を受けた人たちは聞く事さえも面倒になり「新聞も雑誌も」どんどん読まなくなってきています。ネットで見ているからと言う人もいるでしょうが、ネットは視聴するユーザーが好むものが優先的に届けられる仕組みになっていますから、異質なものが紹介されたりはしません。「同病相憐れみ、同憂相救う」と言うのがネットの世界観でもあります。「みんないい人」そして「みんな英語を話す」時代が訪れた時誰が守ってくれるのかと思わざるを得ません。世界の情勢では過去の縄文時代のような離れ小島ののどかな生活などありえないのですから今の生活を維持したいなら世界の生存競争の中でも生活できることは必然なのです。聞く耳を持っていると期待させておきながら、聞くことなく勝手な事が出来るのもこの日本だからで、そんなことで時間を費やしているとその反動が外からやって来たと気が付くころには蓄財も使い果たし、負債を払わされる時代を迎えた人々は同病哀れむだけで生活できない事を知る事になると思うのです。論争なんて自分を知るいい機会なのだから悔しくなるまでやるべきだと思うのです。平等公平な話し合いなど存在しないのですから。