知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

戦争なんて簡単に起きるの話

 いつまで被爆国なのか。いつまでパールハーバーなのか、いつまで被害国なのか。戦争賛成者なんかに会ったことがありません。しかし、攻撃されれば反撃すると言う人はどこにでもいます。みんなで戦争を始めるなんてことは歴史上も稀なことと思います。どこにでも争いが嫌いな人は一杯います。ですから、戦争全員一致で始まることより、その集団なり国家の誰かが始めてずるずるとみんなを引き込んでいくというのが戦争だと思っています。今日の日本でも誰もが戦争反対と叫びマスコミも戦争反対と明言しています。しかし、誰かが戦うとなったら応援はするという事の反対は起きません。それが結果として自分が戦争に巻き込まれる事になるとなると知っていてもです。つまり、戦争反対の旗印のもとには、応援者ならいいか程度の一般人がどこにでもいるという事です。ですから戦争経験者の戦争嫌いも自分が巻き込まれて嫌な思いをしたことが反対の理由であって政治や思想としての戦争否定には結び付きません。時にはダブルスタンダードも普通にあるのです。それは、自分の経験談は、巻き込まれたことでの被害ではあっても、戦う事を否定したものではありませんから戦争回避の力にはならないのです。被害者はいつまでも被害者であって、加害者に対して正義の雄たけびを続けますが、戦争回避の為の力にはならないのです。日本が被ばくを被害と語れば、アメリカはパールハーバーを語り、アジアは侵略者の膨大な犯罪行為を語りそれぞれに国家行事を行ったとしてもそれぞれが戦力を保持し切っ掛けさえあればいつでも戦争が開始される状態でもあるのです。どれだけ被害が酷かったのか、悲惨だったのかを延々と語ったとしても戦力放棄なんてことには絶対にならないのです。結果として、被害者同士であっても、覇権が武力と言う手段を行使する事になったならただ巻き込まれていくのです。戦争は、みんな一緒の考えになったから起きるのではなく、ごく一部の人の利害で起きます。起きてしまった戦争の渦に、巻き込まれていくだけなのです。そしてその渦は戦争という具体的なことではなく、人間に組み込まれている「好戦的な」遺伝子によって起きるのです。その証拠がスポーツです。スポーツは戦うという事での戦争の一端でしかありません。人と人を戦わせて、選手を応援する応援団は興奮すれば、けんかもするし、相手に対して加害行為もします。戦争は、選手が戦士に変わっているだけに過ぎないのです。言い訳として、スポーツには、ルールがあるとかスポーツは殺し合いではないとか言いますが、戦わなくても生活が出来るのに敢えてスポーツと言って闘犬や闘牛のように人間同士を戦わせる必要など何もないのです。しかも、選手が戦い心身が傷つくことを見て、興奮し、勝つことで満足したり負けたりすることを楽しみとすることが出来るのです。スポーツには、ルールがあると言っても、ルール違反をしてでも勝ちたいから審判が必要なのです。それでも違反ギリギリが上手でないと勝てないほど互角であることはたくさんあるのです。それは、戦争と何も変わらない事です。ですから、誰かが戦争を始めたら、戦争に反対はしても応援はするという流れの中で、結果として戦争の一端を握りしめてしまうのです。競技に日本が出ているというだけで、日本を応援しない人は同調圧力に引き込まれていくのです。どこかの試合で日本が勝てば、報道されて民族高揚に利用されるだけのスポーツですから、負けたり日本が参加しないスポーツなど放送もされません。要するに戦う事が奨励され勝利する事が褒められる社会がそこにあるのですから、人間として戦わない事は否定されるのです。何常に誰かが戦い、そして応援する一重の輪がやがて二重三重と広がっていくのは戦争と同じです。応援している程度の事が、実はいつの間にかプレーヤーにされてしまうというのが戦争だという事です。だから、被害者がどれほどいても、被害をどんなに訴えても政治としての戦争は、放棄されないのです。日本が原子爆弾を使用された唯一の国であることは間違いありませんが、その被害者感覚を捨てて、慰霊と政治を分離しなければ、戦争反対は、ダブルスタンダードの矛盾の中に沈んでしまうと思うのです。