知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ママ友の群れは時に我儘になるの話

 スイミングスクールのプール観客席での話。スクールに通う子供たちの親が待っていたり、練習を見る事が出来るスペースが、どこにでもあります。そこでは、少しでも知り合いとなっているのだろうママ友が集まると、子供の話だけでなく、夫の話もべらべらと、家の事から昨日のご飯まで、大騒ぎで話しだしてしまいます。そんな個人的なことなど人に聞かれない様に言うべきことだと思う内容の山また山です。ひそひそ声で話していても、実は人の声はよく聞き取れるのです。何故なら、人の耳は、選択として言語と非言語の仕分けをして、どんな音も拾うということはせず、言語音声に対しては意識選択された音として、脳に伝わるように制御しています。その中で最優先されるのが日常使用している言語音声なのです。ですから、英語を喋れない人には、英語は聞こうとしないと言語として認識されません。聞きたくて聞くのではなくても、人の声に対して反応する正常な感覚器を持っていれば、その会話に関心がなければ、ただただ、うるさいだけです。何かに集中しようとしても、いわゆる耳触りとなって、不快になるものなのです。特に、高ぶったままにべらべらと普通に話し出せば、他人にはうるさいだけの事です。しかも声はだんだんと大きくなって、礼儀の範囲さえも超えてしまいます。仕方がないから注意すると、その場は収まったのですが、スクールの時間が終わって、廊下に出るとあわてたように追いかけてきて、「話しちゃいけないと書いてないでしょだから良いんです」と突然言い出すしまつ。何のことかと一瞬戸惑いながらも、そういう事じゃないと反論。こっちは、どんな指導をしているかを見たいし、自分がほかのプールへ連れて行ったときにどんなアドバイスをするかを含めて、トレーナーの指示も聞きたいんだと言うが、ママ友は、ここは前から和気あいあいの雰囲気でやっていて普段はもっとうるさいと言い出す。和気あいあいの意味が間違っていると言いたいがそれも我慢して、普段もっとうるさいということが適正だから今日の方がずっといいという比較は、毎日来ていない人にはわからないし、談話したいなら、他にあるだろうと伝えても、とにかく書いてないからいいのだというしまつ。よく空気を読むという言い方がありますが、見渡していつものメンバーでない人間が紛れ込んでいたなら、今日は雰囲気が悪いと感じればいい。元々雰囲気というのは、そこに集まったメンバーによって成り立つのだから、違う人間が一人いれば、雰囲気が変わって当然。その為、いつもの雰囲気と違って暗いと感じたとしても、いつもの明るい雰囲気を押し付けるべきでもないと思うのです。一人一人になったら、正当な苦情も言わないような人がこうして群れると一気に変わってしまう事が面白いとは思うけれど、群れたママともの自分たちの縄張りの中で作ったルールを、押し付けてくることの共感感覚に慣れないと群れによる攻撃の対象になってしまうということになってしまいました。だから普通の人は、何も言わずにじっとしている方が利口となってしまうのですが、「なにも書いてないでしょだからいいんです」を旗印に他人に押し付けるルールとはとても思えないのです。単純に考えて、子供が悪いいたずらをしたときに、ママとして子供に注意した途端に、「書いてないでしょだから良いんだよ」と言われたなら、なんと説得するのだろうと聞きたいぐらいでした。その場限りの正当性の主張が、群れによって増幅されると、あたかもそれが適正でなくてもルールとして確立していき、それを迷惑だと思う人にまで強制しようという事になってしまいます。「自分の会話が人には迷惑を知れ」と言う事など、電車やバスの中でも同じです。群れた途端に、大声になることの危険を知るべきです。群れた野良犬は今時いませんが、群れた羊だって、群れたウサギだって、相手に不安を与えるだけの力はあります。ママ友が待ち時間だと勘違いしている時間つぶしの会話の向こうでは、頑張る我が子が何度もこっちを見て、頑張っているところを見てほしいとアピールしています。それもいつものことと言えるかもしれませんが、いつも見守っているという事をママがアピールすべきだと思うのです。塾でもそうですが、預けっぱなしは良くありません。別室でも見守っているという視線が子供の成長には大切です。

ママ友が、子供の状態や、学習を援助するために集まっているのではなく、自分たちのストレス解消になっていたり、雑談の場でしかなかったなら、子供はママ友のつながりの道具に過ぎなくなって放置されているのと同じだと思うのです。見守りというのは、視線の先に常にあるから成り立つものだと思うのです。