知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

子の盛った話に被害者になり切った母親の話

      どんな話でも最近の言葉で言えば「盛った」話があって、聞く者はその場の雰囲気で配慮するものですが、検証もなく被害者ではないかと走り出してしまうと、言い出した方も「盛った」とは言えないままに周りを巻き込んだ迷惑事例になってしまいます。障害のある利用者は、ある意味障害によって未熟な言動をするという事がありますから支援が必要だし守られなければならないのですから、本人の発信であっても関係者は、前後周囲の状況を含めて確認しなければ真実が見えなくなるという事が起きます。ところが、親の立場になれば、障害があるからこそ守らなければならない信念がありますから、どんな小さなことでも見逃すまいと必死でいることも事実です。でも、それが大袈裟になって引くに引けなくなってしまうと、逆に子供を不利な状況に追い込んでしまうという事もあります。特に交流の濃い対人関係では、どんなに気を付けていてもトラブルなんていくらでも発生します。むしろ発生しない方がおかしな環境と言えるぐらい自然な事でもあります。普段は、トラブルが発生すると、中に人が入って、お互いが話し合ったりしながら自然な調整がなされ、そのことで次の関係へと高まっていくものです。障害者の福祉事業所でも同様で、相性を含めて集まった利用者同士の中では様々な対人反応があります。トラブルがあった時も支援員が中に入って調整するものです。ところが、突然のように親が介入してきて自分の子供が被害者だと行動し始めると、子供を守る行動なのか、被害補償なのか分からなくなるような、迷走が始まります。娘の「痛い」と言う訴えに、同じ利用者の男性が興奮して腕を引っ張り腰を殴られたと「盛った」話にしたことをまともに受け止めて、整形外科へ連れて行くのです。外科医は本人の痛いの訴えに合わせて、「打撲」「挫傷」完治に1週間と診断書を書きます。母親は、これを御旗として事業所に苦情と抗議を持ち込みます。事業所としては、手順として訴えの後に事実の確認をするのですが、男性の興奮があったという事実は既に報告されていましたから、このケースでは両方に集まってもらい、時間や場所の特定と、それぞれの言い分を聞くこととしました。加害とされた男性は、その場所で興奮した事を認めたうえで、「やっていない」と否定しましたから、場所と時間が確定されたので、防犯カメラはありますが、位置によつては全部は映っていないかもしれませんので職員についても確認した上で報告しますとますと一旦終了としました。その場では、先に席を離れたのですが、被害を訴える家族は事案の現場にたむろしてカメラの位置などを確認し続けました。そして、母親は、被害者が休まされて給料が出ないというのはおかしいと言い出しました。診断書の期間は休むのだから休ませているわけではないしその間に調査して報告しますからと繰り返しても引き下がりません。どんどんエスカレートして、「うやむやにされてしまう」のではないか「映像を消すのではないか」と次々に不満を言い出します。こういうところでの言った言わないが始まらないようにわざわざ席を設けて「もうないですか」を何度も確認して了解したのに、場所を変えて蒸し返すと言う、タイプの家族でした。そして、こちらが調べますと繰り返しているうちに不信感が高まったのか、警察を呼ぶという事を言い出しました。大ごとにしない方が良い、調べてからの方が良い、映像だけではなく、現場にいた職員の確認をしてからの方が良いと説得しましたが、家族一致で、被害届を出す、警察を呼ぶという事でした。では、こちらから連絡しますかと言うと、被害者が連絡するのが当たり前だろうと不信の態度で嘲笑するように警察通報を始めました。被害者が連絡できないことはたくさんありますし、今回では双方が事業所の所属利用者であり、現場が事業所ですから事業所が連絡するのは何の問題でもないのですが、不信感の塊になっていると何もかにもが敵に見えるのかもしれません。結論は明確簡単でした。警察が4人来て映像を確認しましたが、診断書に記載されている状況は確認されず、警察官が両親に説明するのですが、場所が違うだのと延々と食い下がったのです。要するにトラブルがあったかなかったかではなく、診断書にある症状に相当する行為があったかだけですから、打撲や挫傷に相当する行為が写っていればいいだけです。映像には、近寄っていく男性と女性の間に完全に支援員が割り込んでいて指が触れたかのかと言う程度のものしか写っていませんでした。警察の話に納得したのかしないのかはわかりませんが、家族は一斉に引き揚げ、訴えられた家族が待機していることも知っているのに、挨拶どころか謝罪もせずに帰宅したのです。もちろん事業所への謝罪もありません。今風に言うと少し盛った、昔風に言うとオバーな表現は、誰にでもあることです。武勇伝なんて創作かもしれないぐらいで「まゆつばもの」で丁度いいのですが、周りが本気にして「いざ鎌倉」と出陣されてしまうと、本人だけでなくみんなが本当に困るのです。日本風に言う「落としどころ」が全然見えなくなってしまうのです。つまり、「ケンカしないで仲良くやってね」程度のことでさえも、どっちが謝るかまで親が先導してしまうと後始末が本当に厄介になります。いじめが多い時代ですが、親の勇み足は、子供までもが被害者になりかねないと思うのです。特に強引な主張は賠償に絡んでいるのかと当事者は疑い、事案の解決後にもわだかまりを残すものとなると思うのです。