知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

危ない日本語の人付き合いは誤解と誤差の発生源の話

     アメリカの動揺と言われている「メリーさんのひつじ」と言う歌があります。これを使って日本語は誤解が生じやすいと話をしています。たった一字で大きく意味が変わってしまう日本語には、話した方も聞いた方もよほどの共通認識がないと、「言った言わない」の闇に落ちるのは当たり前だと思うのです。もともと日本は明治になるまで地方分権で「国」とは自分の地方を指していたぐらい地域性が強い国です。当然「方言」というだけでなくコミュニケーションの方法まで違っていました。それが根強く残っているのに戦後のテレビによる共通語の定着でみんな同じだと勘違いしているというのが実態だと思うのです。ですから、誤解と誤差がありふれるようにあるので、コミュニケーションが大事だと言われてこれを商売としている人もいるぐらいですが、原点に戻って日本語は紛らわしい、よほど確認しないとたった一字で意味なんてひっくり返るということを言うべきだと思うのです。例えば、「メリーさんのひつじ」の「の」を主語を表す「は、が、も」に入れてみると、「メリーさんひつじ」となり、メリーさんは羊の名前と言う事になります。同様に「も・が」を入れてみれば、「メリーさんひつじ」「メリーさんひつじ」となり、「メリーさん」は人間ではなくなります。では、助詞を入れてみると、「メリーさんひつじ」と人間か羊の問いかけになりますし、「メリーさんひつじ」「メリーさんへひつじ」となると羊のプレゼントの話になりますし、「メリーさんとひつじ」「メリーさんやひつじ」となれば、やっと「メリーさんひつじ」と同様のメリーさんは人間であるとなります。たった一字の聞き間違えによって内容が大きく変化するのが日本語でもあります。それだけに「空気を読む」なんて状況が必要で、狭い関係でなければ誤解が簡単に生まれるものなのです。さらに今日では略語もカタカナ語も蔓延しています。言葉の意味さえ分からない言葉が日常会話の中にやたらと出てくるのです。最近では政治家が「そんなevidence」はないと言いましたが辞書で調べると英語でも、evidenceは、「嘘か本当か明らかにするための証拠」で、「決定的な証拠」は、proofというらしく政治家は「証拠」というだけに使用していますが自分の潔白を言うのなら「決定的な証拠」はないの、proofを使うべきだと思うのです。たた、evidenceには「明白」という意味合いもあるそうで、形容詞形はevident「明らかな」となるそうです。英語特有の不可算名詞ならa piece of evidence「1つの証拠」となるそうで英語がわからない私などは、会話の中に単語だけを使用されると解釈の違いで非難してしまうかもしれません。特に、略語はもっとひどくてその集団特有なものがあって部外者では誤解するしかないような場合さえあります。たった一字の違いで意味が大きく変わる日本語なのに、単語の説明を求めたら場の雰囲気が壊されると軽視される環境はたくさんあります。コミュニケーションが必要だと連発しなければならない原因はここにあると思うのですが、使用している言語の難しさを学べる機会がなければますます誤差の多い言葉になっていくと思うのです。どこででも自分の真意ではない間違いが起きて人間関係が壊れたということが起きやすい言葉でもあるということを認識する必要があると思うのです。コミュニケーション力を育成すると語るより、日本語が独特であることを語ることの方が、誤解が減ると思うのです。