知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

比喩のつもりが「何のこと」と問われる時代の話

 物のたとえのことを比喩表現と言いますが、現代社会ではこの比喩表現がとてつもなくリスクが高まっています。ですから、販売目的でわが子の様に育てた製品なんて言い方をすると、子どもを売り飛ばすのかと言う非難になってしまいますし、それほど手を掛けたと言う意味であっても、子育ては一方通行ではありませんから、親のそんな思い込みが子供にとっては迷惑ともなっているとも非難されます。比喩表現(ひゆひょうげん)と言うのは、物事を類似または関係する他の物事を借りて表現することですが、自分の考えを相手に分かりやすく理解していただかなければ無駄そのもので、間接的な言い方でなく、単刀直入に言えばいいだろうと言われてしまいます。つまり、言語表現として誰もが思い浮かべる物事や事象でないと、何を言っているのかわからなくなります。相手次第でどうにでも考えることが出来るという事になってしまえば比喩表現が逆に問題となってしまう事さえ出てしまいます。例えば「竹を割ったた様な性格」など相手を誉めたつもりで使えそうですが、竹割の前提である薪割の時に斧を振るい落としても真っ直ぐに割れない木もあるからいつでも真っ直ぐに割れる竹の例を使用したものですが、薪割経験さえない人が聞いても、竹割まで行きつくことは難しい時代です。それに性格の表現として、真っすぐに割れない性格はだめだと言う意味に取られてしまうと差別と言われかねません。さらに、日常経験に斧や鉈(なた)なんて見ることさえなくなってきましたし、子供に包丁さえ危ないと言う時代の親にとって斧や鉈なんて凶器そのものです。それほど身近で無くなったものを比喩として使用しても伝わり方は複数で真逆にもなりかねないという事にもなります。同じように、歌の「北風小僧の貫太郎」は誰でもが口づさみますが「小僧さん」など見た事もないでしょうし、「丁稚奉公」なんて、児童労働や児童虐待として非難されるべき事項に入っています。児童書であっても、昔話裁判があるように必ずしも昔のように受け入れられているわけではありません。もっと言うと、比喩表現などは日本語の優秀性として語る人もいますが、過去の日本語には「緑」の表現がなくて「青」でした。だから今でも、「青信号」は緑色と様々な人に言われたりもしています。つまり、言葉と言うのは、過去の事を活用する事はあっても、今生きている人間同士の会話や文章が優先され、変化していますから、現代風の比喩表現を工夫していかないと通じないだけでなく、差別やハラスメント表現として非難されてしまう事になってしまうのです。日常会話であれ、比喩表現はそこら中に溢れていますし誰もが使っていますし、コミュニケーション術や会話術の講師は非常に有効な方法として紹介しますが、言葉の失敗の一番危険な表現ともなってきています。仲間内なら問題ないものが今はどんどん公開的に表現される時代になり、そんなつもりではなかったと簡単に取り消すことが出来ない時代でもあります。言葉の表現もカタカナが多くなり標準語の様で特定の人たちの共通語だったりすることも増えました。過去には隠語と言う言葉表現もありましたが、なんとなく犯罪的で今ではあまり聞かれません。変わって芸能などの 業界用語が使われた時代もありました。近年は、インターネットからの表現が多くなっている言葉の世界ですが、比喩と言うのはなんとなく高尚で、文学的に思えますが、読み解く力がなければ通じないという事にもなってきています。価値観から解釈迄多様化が進み、個性と言う個別対応は、比喩表現のような表現をだんだんに狭める感じがしています。新聞でも、「きな臭い」と言って戦争だけでなく、政争などを予感する時に書かれますが、何か事件が起きそうな雰囲気と予測して読んでくれるのは新聞を読みなれている人で、焦げる匂いにあまり接することが無くなった現代では、焦げくさいが火事になるかもしれないと結び付けるのは難しくなっていますから、適切な表現とは言えない感じになってきました。ただならぬ空気、虫の知らせ、不穏な空気、などもなんとなく慣れていてそういう事だろうなと理解してもらえそうですが、どうしてと聞き直されたら簡単には説明が出来ない言葉になりつつあります。ですから、比喩のつもりがすり替えられて解釈される悪意を持って広報されれば言いたかったことどころか指弾されることにもなり兼ねません。最近の事例では、ごはん論争と言うものがありましたが、相手に伝える高級な言語コミュニケーションに比喩表現があるなどとどこかで格好よく話したつもりが足をすくわれかねない時代になったという事です。そして、本人は比喩のつもりが相手からは揶揄と解釈されて、非難される時代にもなっています。