知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

教科書検定止めても困らないの話

     教科書会社「東京書籍」が約1200の訂正箇所が見つかった高校地図教科書の廃刊を決めたことについて、前文部科学相は、「教科書検定で一部の誤記などを指摘しきれなかったことは大変遺憾だ」と述べ、検定の体制などの改善を図るとした。と言う新聞記事がありました。教科書検定は、教科書裁判で有名になり、一言の誤記も許さない完ぺきだと豪語し「検定の正当性」を自慢していたにもかかわらず「1200か所」も誤記があったというのです。文科省は、謙虚という言葉さえ知らないような強権的な教科書対応をこの半世紀続けて日本の子供たちの教科書を独占して、逸脱を許さない内容統制体制を作り続けてきました。その結果今日の社会意識形成に大きな影響を与えてきたとの自負もあろうに、誤記が千か所もある教科書を「合格」としていたという事です。しかも、論争すべき内容ではなく単なる「誤記」なのです。誤記こそ「検定」の正当性の大前提なのに見抜けなかったという事です。検定には、膨大な税金が投入されています。政治的圧力も社会的圧力もかかっていますが、中立を守り「誤記」のない教科書を作るためには検定制度は必要だと説明していましたが、そんなものは作れない事がこれで証明されたとも言えます。このことは、裏を返せば、教科書検定の本当の目的が、「誤記」の訂正ではなく思想や権力に対しての国民統制が目的であることが丸見えになったという事でもあるのです。教科書は義務教育にとって最重要で、将来の国家の方針や政治形態にとって統制すべき内容なのですから本来中立などというものは出来ませんし、万人に適応する教科書なども出来るはずもないのです。ですから、必ず偏るというのは前提として考えなければならないものです。そこでどの程度何が偏っているかを評価する事が大事なことですが、そんな評価をしたなら本音が丸見えになる事から建前を掲げて検定を続けてきたのも事実です。ただ日本で検定に大いに問題となったのは、戦後の教員の8割以上を組織した日本教職員組合が、左寄りと言われ、反共が政治課題だった時代とも言えます。日教組の活動は、革新や保守と言った内容ではなく、明治で一段階欧米化された生活の変化に、戦争で敗れることで第二段階としての思想的生活の変化が政治に絡んでしまった事です。具体的には家父長制や家という概念に対しての個人の在り方についての変革の時でもあったと言えます。ですから、保守と言われる人々は大いに恐れて「期待される人間像」と言われた反共の為に教科書に大いに拘り危機感を持っていました。ところが歴史は、時の政権を擁護する教科書を作ったところで実際は浸透しない事を実証しました。それは、時代の流れの方がはるかに強い力で意識や生活を変えてしまうという事です。保守が危機を持った日教組の左寄り教員たちに対応するために様々な対応を政府はしてきましたが、その教え子たちは左に寄るどころか、現実社会の中で政治も思想も学校の教師以上に影響を受け、教科でしか評価の出来ない教師に批判的で、結果として教職員組合の方が自滅していったのです。右寄りであれ、左寄りであれ、社会の経済状況の方が意識を大きく変えていく要因であったのです。豊かであれば人々は黙っていても保守的になり、貧しければ先鋭的になりがちだという事です。四畳半でインスタントラーメンをすすっていた学生はデモに行きましたが、1DKに住み有名ラーメン店に行く学生はデモどころか選挙にも関心を持たなくなりました。つまり、教科書検定などで思想教育をやったところで現生利益の中では染込まず、貧しくなればいつでも反旗が翻るという事でもあります。今の中国があれほど思想教育をしても経済効果には勝てない事が見えています。実際学校に有った「二宮金次郎」の銅像はなくなり、子供でも知っていた「メーデー」の労働歌などうたわれる事がなくなってもいます。その意味でも、今でも国家統制の為の教科書を作ろうとしている教科書検定など無駄になってきているものの一つと言えます。今やパソコンが学校に持ち込まれ、教科書そのものが参考書の一つにすぎなくなっている中で、「誤記」も見つけられない検定など統制の役には立たないと思うのです。