知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

金、金の宗教は経済テロと同じの話

 信教の自由を守る為に宗教法人の調査が出来ないと言うのは、ただの言い訳でしかありません。信教の自由の一番大事な事は「宗教の押し付けが国家によって行われてはならない」という事で宗教法人さえ確保できたなら治外法権になるという事ではないのです。簡単に言えば、明治から太平洋戦争で敗北するまでの間、国家神道と言う宗教ではない宗教統制が行われたことに対する戒めですから、本来は国である権力によって宗教の統制をしてはならないという事であって、教祖の悪行を放任する為ではないという事が分かっていない、何かの信者なのかと疑われるような法学者に振り回されるべきではないのです。江戸時代は、宗教と政治を分離して宗教を利用していましたから、それを悪用して博打禁止の江戸時代に寺社奉行の管轄だから町奉行は手が出せないと、寺で博打を行って寺銭として所場代稼ぎをしていました。同様に、憲法で宗教が保証されているので宗教法人が寺銭稼ぎの如く個人から寄付を強要していることが取り締まれないとしたなら、被害者は法に守られる宗教にはかなわず、奴隷並みに扱われしまうのです。法の悪用は、法に守られて行われると言うのが実態ですから宗教で金銭が絡めば疑るのは当然だと思うのです。何故なら、宗教では、救われる事が主なのですから、「心や精神」そして「哲学」の問題だから権力に支配されない様にしているのに、悪用する宗教が、「心をお金で買える」としていること自体が悪としか言えません。神様は、「お金」を必要としていません。金銭欲は人間にだけ存在する欲望でしかありません。そんな事誰だって理解できますし、誰でも分かる事です。だいたい神がお供え物を要求することなど無いと考えるべきです。神は全てを持っているのですから人間だけにしか通用しない金など神には何の必要もありません。古来から人間は沢山のお供え物を神に捧げてきましたが、供え物を神が持って行った記録などなく、結局日本では、供食と言って人間が食べてしまうし、供え物は、権力者が持って行ってしまうのです。それが、教祖でもあるのです。つまり、金を欲しがる宗教は、人間的すぎる欲望の機能しか持ち合わせていない組織でしかないのです。そんな組織から国民を守るのが行政であり法の支配なのですから、金・金・金の宗教団体など認めること自体が不作為と言えるのです。そして、偽物不法ななりすまし宗教は、騙しのテクニックとしての不安をあおる、救いを求めさせる、幸せを売りつけるそれを信教の自由と言う盾に守られて堂々と行っているのが、カルト宗教ともなっているのです。昔から、坊主丸儲けと言うように、人間の弱みに付け込んで宗教という化け物が加害者となった事件は数あるのに「信教の自由」などと、行政がのんびり構えていると政治家までがいつかは飲み込まれてしまうという事が、今回判明しました。金をむやみに集めることが教祖の日常なら、その金は政治不正に向かうし、他者排除に向かうし、反社会に向かう事は必定だという事も、オウムでも証明されましたし、統一教会でも証明されています。これらの事を考えれば、金にしか興味のない宗教など経済テロとしか言いようがないと思うのです。