知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

戦争を知らない大人たちのサムライ観の話

   国は、ことし4月、慰安婦問題をめぐり誤解を招くおそれがあるとして「従軍慰安婦」を「慰安婦」、太平洋戦争中の「強制連行」や「連行」を「徴用」と言う用語にしろと閣議決定しました。文科省は従順に、学校教科書会社約20社に教科書の訂正申告を認めると説明しました。教科書会社からの訂正が非常に厳しいのに、逆になった途端まるで、「訂正勧告」のようなことをしました。どう見ても戦前の国定教科書へ戻っていく道としか思えないのですがコロナ報道に明け暮れている報道では社会的反響が見られていません。この、前兆は、2014年の検定基準改正で、中学の社会科や高校の地理歴史、公民科の教科書は、「政府見解がある場合はそれに基づいた記述」とするとしたことからで、次には、「慰安婦」も「徴用」も記載する必要がないと閣議決定されたなら、教科書からは消せるという事です。「慰安婦」や「徴用」問題は、現在の韓国との関りで考えていると何か日本人みんながこの事で非難されているかの如く感じ多くの人が嫌悪感を持っている話題になってしまっています。だからなのか、教科書会社5社は29冊の記述について「従軍慰安婦」や「強制連行」という用語の削除や変更の訂正申請をしてしまいました。対応としては、削除する社や、記述は残したまま政府見解を併記する社などに分かれましたが、従ったという事では変わりません。この問題では、韓国の賠償請求が大きく報道されすぎて、逆に感情主義者は、南京虐殺もなかった、従軍慰安婦もなかったでっち上げだとだと言い出し同調する政治家までいますが、私たちがこの事例を通じて考えなければならないのは、戦争犯罪だと思うのです。人を殺すことが勲章になり殺人罪にならない、他人の家に押しかけて抵抗したから敵だと家ごと破壊したり、道路や橋、建物を破壊することが器物損壊で訴えられないと言う戦争によって正当化される犯罪の問題だと思うのです。原子爆弾の話も平和の話も戦争なら正当化されてしまう犯罪に対しての人類の矛盾について考えなければならないと言う事例だと思うのです。70年前の戦争体験者が死んでいく中、「戦争を知らない大人たち」は戦争犯罪を身に感じることなく、ベトナム戦争反対や沖縄返還を過ごしてきましたがぼんやりとした戦争観は、サムライの名の元、強い事に越したことはないに繋がり、武力の保持も容認してきました。江戸時代260年間戦ったことのサムライも明治維新では立派に軍人として戦いました。同様に実戦体験などなくても軍人は戦いになればちゃんと戦います。その時に勝たねばならなくなると戦争犯罪にも手を染めるのは当然の帰結です。結果として、戦争では苦しむ人や被害者が大勢い出ていても、その犯罪は正当化され不問に帰され被害者は救済されることがないのです。破壊は、需要の大きな要素で死の商人と言われる人々にとっては、生産した武器を使用するのも大事ですが破壊こそ大きな商売になっています。日頃、人権を語る人でも戦争と言うシステムが稼働し始めると、簡単に押しつぶされてしまいますし、その破壊力は、何もかも踏みにじってもまだあまりあるがごとく続くのが戦争です。スポーツでは、日本の選手をサムライなどと報道機関が平気で言います。サムライは、武人であり、軍人です。平清盛

来日本は、軍事政権だったと言う事が歴史で知らされていない事が、サムライ賛美に繋がっていますが、王政復古と言われた明治政府も軍事政権の継続であり戦前まで軍主導は続くのです。貴族政治は軍人政治ではないと言う程度のくくりで言えば、約800年前に武人である平清盛がクーデターで院政を停止して以来、武人政治、軍人政治が続き、文民統制などと言う体制は、戦後初めて日本人は、経験するのです。そして、何度もサムライ、武人政治に憧れる政治家とその人たちが、武装を試みているのです。その露払いが教育であることから、「閣議決定」などと言うやり方で教科書から戦争犯罪さえもかき消そうとしているとしか思えないのです。「戦争を知らない大人たち」は、他人事のように「戦争で儲けたい大人たち」の静かな侵略を黙認していると思うのです。「戦争を知らない大人たち」は、なんとなく「戦い」を映画やテレビそしてゲームの中で容認し憧れて少しぐらいなら良いんじゃないのとこの教科書の事例の様に、静かな侵略に気が付かないのです。