知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

建前と現実対応に使われる異民族や異宗教の話

 アメリカは南米からの移民を制限しています。壁を作ったりしています。でも国内に入りさえすれば働くことが出来るという法整備体制でもあるのです。つまり、不法移民としてのレッテルを張って底辺としてなら労働が可能な環境にあるという事です。そこに底辺であっても働くことが出来るから不法入国する意味があるのです。豊かさのおこぼれが得られるから不法でも入国しようとするのです。働くことができるのは、底辺の仕事を安価でさせる需要があるからです。そして、正規でない事を良い事に不法に安く労働させることで利益を得ている人がいるからでもあります。働く人の管理が徹底されているなら働くことが出来ませんから正規でしか入国できませんが、国内の労働環境を差別的に不法運用する事で可能としています。人間の生活にはきれいな部分と汚い部分があります。そして、人間の長い歴史で、きれいな部分は市民が行い、汚い部分は奴隷が行うと言う階級や差別に基づく区分けがあります。この労働の区分けによって、賃金形態も作られましたから、労働に貴賤はないなどではなく、報酬に大きく違いが出来たのです。労働単価は、技能・能力だけで決まるものではありません。豊かな国は貧しい国の国民に本人の意思で奴隷が行ったような仕事を希望する人間を作り出しているのです。この様な事は、豊かな国の差別意識が根底にあって異なる国籍や異民族にさせるなら問題と思わないからです。底辺の異民族という事です。同様に宗教が違えば可能な事がインドでは起きています。ヒンドゥー教徒にとっては神聖な牛を殺すことは許しがたいことですが、同じインドに住むイスラム教徒にとっては何のことでもありません。日本の酪農家でも、乳牛を育てている人にとっては、生まれてくる雄は不要です。また、雌であっても毎年毎年出産させて乳牛を絞り続けられるわけはありません。おばあちゃんになったら妊娠そのものが負担です。乳しぼりが出来なくなったら肉として屠殺されています。ではインドでは乳牛は自然死するまで飼育されているのかという事です。そんな幸せな牛はインドでも少数で、多くは屠殺されて牛肉の需要のある海外に売られているのです。インドの牛肉輸出は、世界第3位でインドの牛肉の生産量は世界11位を誇ります。つまり、ヒンドゥー教徒はしなくても、他の宗教なら出来るというだけです。つまり、どんなひどい仕事でも自国民にはさせないが異民族や異国人ならさせてもいいという事がどこの国にもあるという事ですし、豊かな国ほどそうした差別を利用しているという事です。過去には、異民族なら奴隷にすることもありました。そんな行為を宗教は後押しもしてきましたし、人間のエゴを如何に洗浄できるかを行う事で自己の生存を掛けてきました。ですから、宗教は政権に寄り添っているという事は明確です。元々祭礼は国家の基本だったことからすれば当たり前なのですが、宗教家にとっては、暴力と言う力を使うことなく権力を掌握する知恵でもあります。今回のイギリスの国王も、王冠と認証を坊主から得るために恭しく寺院迄出向いていきました。あのナポレオンも王冠は、ノートルダム寺院で、ローマ教皇ピウス7世を連れてきてそばに立たせて、自ら月桂樹の冠を載きました。奴隷であっても、戦士であっても、死ぬ人間にとって天国へ行けるは重要です。騙される精神性は重要です。宗教でいう聖戦なんて異民族や異宗教なら攻撃してもよいなどと言う事は精神性も人間性も宗教にはないという事を語っているものです。結果は、戦利品にありつける欲と宗教は統治の道具の一つに過ぎないという事でもあります。今日では、経済という大きな戦争により、異民族や異なる国の人々が奴隷のごとく扱われても平気な社会が形成されているという事です。そして、貧しい国の国民は、豊かな国の虐待行為にも従い、人権など蹂躙されても受容せざるを得ない環境があるのです。それが欧米の人権の背景でもあり、バックグラウンドやバックボーンの背景となる歴史でもあるのです。そこでは、常に異民族と異宗教の攻防によって人間と奴隷がいるという事なのです。それは今も続いている現実です。その度合いが酷いほど、宗教が活躍し、貧しく、困難であるほど宗教が効果的な救いとなるのです。宗教は、奴隷を作る原点でもあるのです。そして、異民族は戦う事を正当な行為としか思わないのです。パレスなとユダヤをみればよく分かる事です。