知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

廃校活用は幻想を追っているだけの話

    少子化や過疎化などで、全国の公立小中高校などの400~500校が毎年、新たに廃校になっていが、公立学校は地域コミュニティーの中心で、災害時には避難所にもなる重要施設でもあるから廃校の活用法に全国の自治体が頭を悩ませているというほうどうがありました。記事では、廃校活用の担当者は「学校という場所をにぎわいが生まれる拠点としてアップデートさせ、誰もが暮らしやすいグローバルタウンの拠点にしたい」と話していると書かれていましたが、現実として子供がいないという事は若い世代がいないという事でもあり、地域コミュニティーそのものも縮んでいるのでしょうから、担当者が云うような賑わいや拠点なんてことは幻想以外の何物でもないしただの感傷で無駄だと思うのです。記事の、文部科学省の調査では、平成14年以降、令和3年5月1日時点までに廃校となった公立学校は8580校で、7398校は校舎が残っており、5481校が活用されている一方、1917校は未活用のままとされているそうです。その為国も、「みんなの廃校プロジェクト」を立ち上げて廃校の活用を図るべく、事例も紹介されているのですが、所詮一時しのぎのような内容です。情緒的には、もったいないという感覚なのでしょうが残す方がはるかに無駄だということを考えるべきだと思うのです。単純に考えても、民間開発事業者にとってまとまった大きな土地は利用価値が高いのに手を上げないというのはそれだけの魅力がないという事です。つまり、人口が減っている、利用価値が少ない、利益を生む要素がないから見向きもされないのだと思うのです。にも拘らず、「学校に対する住民や卒業生の思いは強い。通常の民間施設とは異なる」と感情的に決断を伸ばして維持費と言う無駄遣いしているにすぎません。それに学校が地域の拠点だったのは過去の事でPTAさえが崩壊していくような学校の現状にあって、地域行事の多角化多様化の中で、地域の一体感を再び再現されるなんてことはすでにない事に気づくべきです。学校は今日、社会機能の中の一部として分化しており総合的な地域の拠り所にはなりませんしなるべきでもありません。何故なら、過去の学校が地域の拠点だったのは子供を利用した、地域の集団統制の役割を果たしていたからに過ぎません。江戸時代などは、村の統制に祭りや宗教などを利用していましたが、明治以後はお金のかからない学校を活用していました。子供を通して各家庭の状況も確認できますし、学校と言う集団体制の中で意識の共有や共同体意識の醸成を実行していたにすぎません。教育と言うよりも、集団統制訓練所であり集団行動訓練所でもあったという事です。ですから、日本の学校では、部活を含めて生活指導と言う事が教科指導に並ぶ学校の二大要素なのです。しかし、今日学校は生活指導わ止めるべきなのです。生活の統制そのものが不要とされている時代が来ています。学校の運動会日程に合わせて行動する事も、学校発信の情報に拘束される事も否定される時代で、地域の生活がみんなに露出され共有され集団として行動する事など出来ない時代ですし、既に社会が必要としていません。今日の学校には過去のような役割は存在しません。学校が地域の拠点だった時代はもうなく、学校の社会的役割は分化した機能の一部に過ぎなくなりました。まして、学校の機能が不要とされた廃校にどんなものを求めたとしても、感傷的な、住民や卒業生の思いはむしろ危険で、そんな思いは悪用されて、学校が歪められてしまいます。教師も普通に働く者として聖職なんかではない事は既に普通になりました。そして、地域コミュニティースタッフの一員でもありませんし、「誰もが暮らしやすいグローバルタウンの拠点」のスタッフでもありません。廃校にこんな思いを連ねて温存しようという事は、現行の学校にこそそんな役割を押し付けようと言う目論見しか見えてきません。子供たちがいなくなったら廃校にして自然に戻すそれが一番良策だと思うのです。