知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

神様は、見てはいけない、聞いてはいけない、話してはならないの話

 日本の神様に対する原点は、「見てはならない」「聞いてはならない」「話してはならない」からはじまります。ですから、仏教以前の古代の神事は、夜、暗闇の中で行われました。まさに草木も眠る丑三つ時に行われていたのです。その事からすれば、今の神様への世間の態度は、失礼極まりないものであることは間違いありません。見たり聞いたり話したりしてもよいのは、人間の政治でこちらは昼間に行われたのですが、その見たい聞きたい話したいに満ち溢れた態度で神の領域にテレビカメラなんかが初潜入などと関わる事を畏れおおいと畏怖しない社会そのものが既に日本の神様への冒涜でもあります。神の儀式は、人間が野次馬の如く参加する行事ではなく、畏れおおい儀式そのものなのです。何故なら、人間が見ただけで「けがれ」てしまうからです。日本の神信仰の原点は、「けがれ」と「はらい」と言われるように、「神の世界」は清いもので一物の汚れたものがあってはならないものなのです。ところが人間はと言えばそうはいかない。人間は「けがれる」から問題が起きるとなるので、その「けがれ」を「はらう」のが神でもあるという事です。「けがれ」てしまったなら儀式は成立しないという事ですから、儀式といいながらもで 「形式」ではなく実質的に清くなければならないのです。日本の神事は、まず「はらい」によって、清められ、清められたことで「けがれ」のない神の領域が出来るという事なのです。ですから、「はらい」を受けていないような「穢れた」人間が参加したならもうその場は「穢れている」のですから神は存在しないのです。「見られると穢れる」といってやり直すといったことがあるほどで、仏教に言う仏の足元に近づいて見て、聞いて、話すと言うこととは全く異質なものなのです。ここに仏教との決定的な違いがあります。仏教は、救いであり導きでありますが、日本の言う神信仰は、神との交信です。世界の宗教 の多くも神との交信であり、その交信者が宗教者でもあるのです。キリスト教であったりイスラム教は、神との交信を宗教者が独占する事で、国家や政治の上に君臨してきたのです。日本では、神との交信を天皇家が独占する事で、権威の裏付けをしてきたとも言えますし、「見せない」「聞かせない」「話させない」事で実態を隠して一部の人間だけの一子相伝にしたのが日本の天皇家と言えます。権力者は、権力者であることを権威づける認証を求めています。それが神からの認証であることは重要なのです。ですから、日本の天皇制は軍事政権であってもその皇統の継続性として利用しなければならなかったのです。最も無礼なのが、1615年に、徳川政権が施行した「禁中並公家諸法度」で、朝廷や公家を廃止するのではなく統制してしまうのです。「禁中」とは皇族のことで、第1条には、天皇がやるべきことは学問だと記し、政治に関わるなと明確に言い、天皇が政治に関われないことが、幕末まで続くから、明治維新が王政復古なのです。政治と宗教が並び立つことを祭礼一致ともいいますが、日本の天皇は、承久の乱以後政治家らは遠ざけられていたとも言えます。今でもイスラムの世界では祭礼一致の国もありますが、どうしても、通常社会は経済や生活が主となりますから宗教と政治が双頭となっていると無理が出てくると言うのは仕方がない事とも言えます。日本の王政復古として明治維新で祭礼一致の体制を試みましたが政治の暴走を止められずに瓦解しました。話を戻して、天皇の権威は、時々政治に加担したことはありますが、承久の乱に見られるように利権が関わってくると、危険だという事になり天皇は、神との交信により時の権力者の承認者と言う地位についていくのです。それが現憲法で言う象徴という事でもあって、首相を選ぶ選挙権もなく儀礼として承認するのです。結局、神との交信術がなかったなら、既に没落していたかもしれないのです。ですから今でも、穢れた人間が、神様を、見てはいけない、聞いてはいけない、話してはならないのです。