知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

勝ち取る福祉はなくなったの話

 障害者福祉では、「親亡き後」が大きなテーマとなるのは、障害者の生活が親に依存しているからです。障害者の多くが経済的、社会的に保護者としての親が存在している事で守られていて、親が死んだらこの子はどうなるのかというぼんやりとした不安が常にあって口から出てきます。一方高齢者では、親の介護が限界になったら、親がどれほど社会的地位があっても施設での介護を選択しているというのが今日の傾向です。あの加山雄三さんでも成城の豪邸から自立型ケアハウスに転居したと言われています。老人の介護を嫁がするという不文律は今では余程の状況がなければ普通ではなくなりました。とにかく高齢者の場合、家族の事は家族で何とかするという慣習は、家族の誰かが犠牲的負担を強いられるという過去の事例からの示唆に基づいて否定され他者に金銭で依頼する事が多くなりました。それだけ、日本も家族に依存せずに何とかなるほどの国力があるとも言えます。また、一方で病院という避難所がどんどんなくなっていっているという事情もあります。今では、病院の長期利用は出来なくなりました。それは、精神病院へ避難させていた障害者にもおよび多くの障害者が行く場に困惑している状態も出てきました。親亡き後の心配で、障害者の終の棲家として設置されてきた日本の方式の入所施設は、障害者の人権に反するとして国連からも非難される事になりました。高齢者の福祉は誰にでも訪れる普通の事として介護保険制度が作られ、みんなで負担する方式で決着を見て以来福祉という範疇からも薄くなり社会の中で問題視する事さえもなくなりつつあります。むしろ偏った所在地に造りすぎた特別養護老人ホームは定員割れが現実に起き始めています。一方、個人負担も徴収できる制度設計がされながらも障害者の入所施設は、人権という大刀による撫で斬りにより制度としての入所施設があっても設立は認可されないという制限が続いており社会福祉法人でも簡単には設置できない状況が継続されています。では、この入所施設設置の制限は人権的にも効果を上げたかという検証は全くされることなく別の出口探しへと向かうだけになってしまいました。それは、障害の重い方の家庭での滞留者が増えただけで何の解決もされなかったからです。仕方なく、入所施設は建てられないが、グループホームは積極的に推奨されたことから本来自立を目指す人が対象だったグループホームが、自立の見込みがなくても入居可能となり、今日では重度者を入れろという事になってきました。重度者というのはグループホームを一時的な住まいとして使用するという事ではなく、終の棲家にするかもしれない人ですから初めから重度者の為の入所施設として設備まで整えるべきなのにそんなことはお構いなしでグループホームへ誘導します。さらには、どこかの日中活動に参加する事が条件のグループホームから、グループホームの中で作業をしてもよいという日中活動型のグループホームまで認可されるようになりました。入所施設であれば、作業室が必要だし作業の決まりもあります。設備の要件も違います。ですから、入所施設ほど資金がなくてもグループホームなら出来ると設置が急増しました。しかも、利益が確保されるように、10人以下でなければならないのに実質30人定員のグループホームが出現する事になったのです。30人定員の入所施設はだめで、家庭的少人数を指しているグループホームが30人定員なのですから異常です。しかし行政はそれでも認可するほど滞留者の処理に困っているのです。30人規模のグループホームは制度的に欠陥のある入所施設としか言いようがありません。これを実現したのは1つの敷地に1グループホームで定員は10名以下の基準に対して、敷地番号さえ違えばいいという解釈から、土地を3分筆して10人定員を3棟建てることは可能となっているからです。同じ30人定員の入所施設なら設置しなければならない設備や配置職員がグループホームでは削減できるだけでなく、部屋代も食事代も設定次第です。結果として、少数であればあるほど運営単価は上がる事から、集団を大きくして利益を生み出そうという方式が普通にまかり通る事になったのです。過去の入所施設では、行事費として施設として利用者のレクリエーション支援は必須とされましたが、グループホームでは必要もありません。支援サービス制度では、契約された事項の実施は求められますが、契約外はしなくてもいいのが契約の意味ですから、余分なことはしなくていいというのが福祉の現場には静かに繁茂し始めました。そして、家族に対しても契約制度の限界を提示してそれ以上は出来ないんだという事を明示する事が仕事となって来ています。つまり、現在の福祉事業の法律以上の事は、贅沢であり我がままなのです。本来法律というのは、最低基準を設け自助努力と工夫でそれ以上を求めるものなのに障害者の福祉法異常を求めることが「わがままな」事にすり替えられてしまったのです。その一方で、障害者の家族の多くはそれでよいと納得してしまい、要求を出して法律を変えていくという方式を望まず団体としても力を弱めていきました。残されたのは、障害が重いとされる少数の人たちばかりで、交渉で勝ち取っていくという方式は、ここに終焉しました。