知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

雑草が作る緑の大地を嫌悪する理不尽な話 

 雑草の種が飛んでくるから草取りをしろと田や畑が多いところでは、空き地などの雑草は、攻撃の的になります。所有者を探してまで、個人的や組織的に苦情として寄せられることまであります。確かに、雑草が生い茂って枯れた後では、野火の危険もあり防火上も刈り込んでおくことは重要です。しかし、真夏の雑草の繁茂は、昆虫たちの楽園ですし、昆虫を捕食する鳥たちには大事な食事の場でもあります。しかも緑の夏草が繁茂しても野火にはなりません。ツル性の草たちは田畑へ侵入しますが荒らすわけではありません。まして空き地ですからせいぜい管理されていない空き地とされて見栄えが悪いだけです。日本の田畑は、非常によく管理されています。雑草一つ生えていないのが当たり前ですし、そうあるべきだの強制でもあります。つまり、日本の農業では、狭い農地で生活費を稼ぐには換金収量を上げるためにも、自分が所有する土地や田畑、山林は、管理するものであって、自然に任せるものではないのです。ですから、田畑には雑草が生えず、作物以外は土がむき出しになっている方が優秀で、雑草が散見するだけでも怠けものと言う評価になります。しかし、考えても見れば分かります、ホウセンカの種は弾けて飛びますが何メートルも飛びません。雑草に多いイネ科では、弾け飛ぶという芸当は出来ません。それに雑草と言っても種類は多種多様で、人間よりずっと古くから命をつないできています。それぞれの植物は、それぞれの方法で命のリレーを延々としています。人間は勝手に後からきて、ここは俺の土地で、俺の野菜以外は、全部引き抜くと言っているに他なりません。その結果、土地は、補給されるべき有機物もなくなり、野菜も痩せていくという事になります。仕方がないので、肥料と言って人工的に土に有機物を補給しなければならなくなってしまうのです。この様な肥料を多量に使用する農業が近代的で優秀であるとの宣伝が行われた教育によって結果として本来の自然の循環としての農業は失われたのです。例えば未開人の農法のように学校では言われる焼き畑農業では、畑で使用しない期間は雑草を生やして有機物を増やし、それを焼いて肥料にしています。外から持ち込まなくてもその場の循環で対応しているのですが、肥料となれば買うお金が必要で、結果として生産物に原材料費が加算されることになるのです。土地としての収支も、生産物を作り出せば、その消費した分だけの補給が必要です。植物の死体や魚の死体、動物の排せつ物などの有機物を補給していかなければ、土は、植物を育てられない人工土、人間から見た荒れ地となっていくだけです。雑草を生やさせずに、作物だけを育てていると結果として、有機物の補給、人口肥料を持ち込まなければならないのです。しかもそれは、昔専売公社が売っていた化学塩と同じようにミネラルも含まない化学物質を撒いているだけになりかねないのです。ですからさらに、牛の糞やトリの糞を、堆肥として入れなければならなくなるのです。それだけではありません。折角持ち込んだ肥料が、雑草に取られない様にしなければならないという不安に駆られてマルチだ、農薬だ、肥料だ、土地改良剤だと化学製品や化学薬剤を使って、雑草排除の営農が行われるのです。そうやって、頑張って毎年きれいにしている畑でも、雑草は生えてくるということは事実です。そう、雑草は、雑草ばかりの荒れ地の境だけでなく、耕作して管理している土地の中にも万遍なく生えてきます。それは、風媒花であったり鳥が運んできたり、昆虫が持ってくるからでもありますが、そのようにしてすぐに緑に覆われていくというのが日本の最大の魅力でもあります。日本の土地は草が生えてくるぐらい豊かな土地なのです。岩だらけでも、砂だらけでも、なく緑を育むことが出来る土地だということでもあるのです。里山と言う考え方も実際は人が管理している山ということで、自然のままと思われたなら大間違いです。しかも里山とは稲作をするための水を確保するを含めた稲作を補完するための管理された山を指しているにすぎません。ですから、その里山が荒れていると言われていますが、実態は人間にとって都合の良い様になっていないというだけで、既に里の稲作が失われているのですから山の必要性もなくなって管理されていないという事にすぎまぜん。雑草が茂っていると、苦情は勢いよくやってきます。刈るのが面倒な人は、除草剤と言う薬剤をばら撒きますが、誰の土地と決めているのは人間だけの話で、除草剤は自由にどこへでも浸透していきますし、水と共に流れて土地を汚染します。つまり、人間は長年に亘り少量だからと言っては農薬を撒いて土地を汚染し続け、化学肥料を繰り返して、体に良くないものを作ることになってしまったのです。農家の腰が曲がったおばあさんが農業は雑草との戦いなんだと説明してくれましたが、何十年も腰が曲がるほど努力したのにおばあさんが1年何も除草しなければ雑草だらけになってしまいます。人間が野菜を栽培している耕作地は、本来の自然ではありません。人工物の始まりにすぎません。だから、日々維持管理しなければ、簡単に普通に戻ってしまうので戦ってひと夏の勝利を得たとしても春にはもう雑草が生えてきます。それを維持することは困難なのです。何故なら、雑草は相持ちしているからです。相持ちとは、お互いが支え合い、包み込みあっているからです。一見生存競争に明け暮れているように人間は解釈しますが、植物はその土地との付き合いに役割を持って、世代を超えて命を繋ぎ共に生きています。酸性の土地になったら酸性が好きな植物が、アルカリ性になったらアルカリに強い植物が繁茂しているのです。雑草は、人間を相手にしているのではなく、雑草同士の順番の方が、優先しています。日本の農家が、雑草が生えないようにしているのは、作物のためと言うより雑草との戦いで、人間が勝っているとの社会的な見栄にすぎません。人は緑の大地と言いながら、自然より人工物に安心感を得やすいのです。