知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

研究者の無知と利己的欲望がアイヌの遺体を貪るの話

    考古学や歴史学の研究者にとっては大発見でも社会的には些細な事が実際には多くあります。その発見は、その研究では画期的な事だとしても社会的にはどうでもいい事の一つに歴史学があります。人間は、過去から学ぶことはあっても、過去からの学びを実践する事はありません。例えば恋愛。過去からの失敗例がどんなにあっても自分は自分でしかありません。例えば戦争。過去からの無残な事があっても戦争は続いています。例えば権力。組織を人間が作った時から延々と権力闘争を続けています。これらの意味からするなら、過去を学ぶことと現世を生きていくことは、参考にはなりますが共有されるものではないのです。ですから、歴史学者の村では最重要な事も、今の生活に一生懸命であるほど些末な事なのです。本来、歴史を学ぶことは過去への敬意を払う事の方が重要で研究者の現世利益につながるものとは違うと思うのです。一万年も続く縄文人がどこからきてどこへ行ったのかはとても興味深いテーマですが、その時代を生きた人々への敬意が失われていればそれは唯の研究者が現世の利益の為に利己的に宝探ししている事と変わらないと思うのです。今、考古学では、遺跡や墳墓から発掘される人骨などのゲノム解析によって、考古学者たちが一生懸命考えた研究成果が覆されるという事が起きています。それまでは、遺跡から出土する遺物や遺品に頼って、論議し権威と構築されてきたものが、ゲノム解析などでひっくり返せるのですからこんな愉快な事はありません。特に、国という形態がなかった古代の住民の墓は、考古学という学問研究の為ですと言えば自由に暴くことが結構簡単に出来ました。出来なかったのは天皇陵と言う古墳で、明治の時にいい加減に指定したものでも国家が墓守となっただけで立ち入り禁止になっています。同様に、墓守がいる寺などの墓も守られています。しかし、先住民族には墓守がいません。その結果、先住民族の墓は簡単に発掘と言う言い方で暴かれ、遺骨を物扱いする態度が顕著になってきています。遺骨が、ゲノム研究の試料の一つになった時から、検体として墓を掘りたくなる衝動を抑えられなくなってきてもいます。その被害者が実は、アイヌなのです。江戸時代程度であっても、寺に行って墓を掘りたいと言うなら大騒ぎになりますが、墓守を否定されたアイヌの墓なら了解されてしまうのです。その行き過ぎに、2018年に、日本文化人類学会、日本人類学会、日本考古学協会北海道アイヌ協会の代表が倫理規定を検討し始めましたが、未だに成立していません。その理由は、墓が掘りにくくなり遺骨が手に入りにくくなるからです。先住民であるアイヌ研究は、縄文人がどこから来たか、どこへ行ったかにとって重要な鍵となりますから、半ば強引に採血するなど人権を侵害する人体調査や、資料や遺骨の不当な取り扱いがあって、批判されたりしているのですが、研究者は平然とアイヌを研究材料としか見ていないのです。「カナダでは1万年前の遺骨も先住民族に返す」という事があるのは、「国連の『先住民族の権利宣言』に遺骨返還の権利定められている」事にもよるのですが、日本のアイヌに関してはやりたい放題であることは変わっていないという事です。研究者にとって「日本人の起源」を明確にすることはすごいすごい研究だと思っています。実際、この研究に文部科学省が5億円の予算をつけて18年度から5カ年計画で有力研究者を参加させる大型研究事業も行っています。その犠牲にアイヌの墓が盗掘の如く暴かれて、遺骨が持ち去られていたりしているのです。「日本人の起源」が分かって、日本人は優秀だ、単一民族だと吹聴したい人がいるのも現実ですが、一般の人には「そうですか」程度の事でしかありません。自分のルーツを探すと言うような流行もありますが、先祖が偉ければ良いのですがどん底の名もない民の一人だったとわかっても世間話のネタにもなりません。祖先に敬意を払うように、先住民に敬意を払うのは当然で研究がその為に進まなかったとしても研究姿勢の社会的評価にとっては、有意義な事だと思うのです。天皇家が、古墳の指定について間違っている事が指摘されても、既に盗掘にあっている事が分かっていても祖先の墓を発掘する事などないと否定する国にあってアイヌなら掘ってもいいと言うのは民族差別以外の何物でもありません。縄文人弥生人が違っていようと現代人のゲノムとどう類似していようと違っていようと、遠い古代には人間はもっと自由に往来し混血していたのですから研究者の手柄の為に、祖先の尊厳を損傷すべきではないと思うのです。