知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

NHKの悪事は、密やかにやって来るの話

 報道記事としてはとっても小さく、「NHK、受信契約時に電話番号・メールアドレスの提出が必要に 4月から」と言う見出しがありました。中を読むと、「総務省は2月2日、NHKから申請があった日本放送協会放送受信規約の変更を認可すると発表した。新受信規約でNHKは、受信契約者に電話番号やメールアドレスの提出を求めるとしている。」と言うもので、受信規約条文に住所だけでなく、「受信機を設置した者は、放送受信契約書の提出に際して、利用している電話番号および電子メールアドレスを所定の方法により届け出るものとする」と変更したのです。それを総務省は「インターネットなどを活用して受信料に関する通知や手続きの案内を行うことで、契約者の利便性向上や業務効率化による経費削減を目指すための変更」と説明するのです。しかし、総務省の言う「契約者の利便性」って何なのか具体的に並べて欲しいほど契約後NHK接触する事などありません。自身でも、NHKの態度として、契約するまでは何度も何度も訪問する癖に契約さえ確保したなら、延々と受信料を払い続けてもNHKから広報紙・ビラのたぐいだって来たことなどありませんし、NHKと連絡したこともありません。どこに、「契約者の利便性向上」があるのか全く理解出来ないのです。こんなでっち上げのような理由を付けて、今日のネット社会での個人識別アドレスを確保しようとしているNHKの悪事をどの報道でも取り上げられていないのが残念としか言いようがありません。さらに、「業務効率化」を上げていますが、電子メールアドレスを書かせて一体どんな効率が上がると言うのかも疑問です。想像するなら、業務の効率化ですからNHKにとって都合がいい事でしかありませんから、本来なら個別に連絡しなければならない事でも一斉メールで連絡したと言う事実つくり程度だとしか思えません。結果として、プライバシーである個人情報を収集しているだけの事となり、本当の狙いは、ネット配信による将来の受信料確保の根拠や機会の準備としか思え無いのです。現代の戦争でもそうですが、一端事が起きれば、過去の「大本営発表」と言われた情報の国家統制と制限を実施する主体者となりうるNHKは、ラジオ放送からテレビ放送、そして電子放送での受信料を獲得するためにNHKに都合のいい法律の改正をしていると言えます。契約を拒否されたときに、法律に決まっているのでと言う「印籠」を見せつけてメールアドレス等の個人特定情報を獲得し、終了のない受信料契約を得ることに使用しようといているとしか思えません。ここまで言うのは普通の人は、専制国家じゃないんだから国営放送なんていらないと普通に思っていると思うからです。日本が本当に民主主義の国家なら、誰もが自由に情報を公開し、自由に無料で無利用できる情報を得られればいいのですから、見返りもない受信料を払った挙句に、戦争なんかの国家的課題に突入した途端に、今のロシアの国営放送みたいな事をやる放送局を維持する片棒を担がされている身には、どう見ても民主主義の国の制度ではないとしか思えないのです。第二の税金のように見ようと見まいと受信機があるだけで受信料の名の元個人負担を強いられるこの方法そのものが既に、専制的だと思うのです。いざとなったら民主的な放送なんて国家に統制されてしまい、香港のような状態になるのだから、何をしたって同じだと言う意見もありますが、私はNHKを支え続け次世代に渡していくことに無力感を感じている一人なのです。今回の改正も、NHKは、密やかにアリバイとしての公聴をしても、広く議論する事もなく、大量の議案に埋もれた議員には些細なことと気が付かないうちに議会を通過させているのです。情報コントロールと言う国の悪だくみの一翼としてNHKは粛々と法整備をして縄張りの拡大を図っています。NHKが再び、国の嘘を放送し始めるのはそんなに遠い事ではないかもしれません。

 

モザイクかけたのでは犯罪防止には役に立たないの話

 ドライブレコーダーや防犯カメラの映像が最近は、テレビで流れることが多くなりました。その中で誰が考えても犯罪だろうと言うような映像までもが、顔にモザイクを入れています。これは、個人の肖像権や犯罪であろうとプライバシー保護と権利を保護すると言う自己規制と忖度によるのですが、本人からの異議申し立てがあれば受けて立つぐらいの気概がないなら放送すべきではないと思うのです。過去には、住民の誰かが昼間もいた時代があって余所者は警戒されたり、「誰かが見ているぞ」の張り紙で犯罪の抑止をしていました。そして、今日では「録画されてるぞ」で犯罪の抑止をしています。モザイクの言い訳に、刑が確定していない場合や、精神疾患がある場合や、未成年者だった場合の保護の義務があるなど色々あるのですが、テレビがそんな大人の対応などと気取っているうちに、既にネットでは流されているなどと言う事が多くなりました。人権を守るという事なら、犯罪になってから晒すよりも、犯罪にならない抑止効果で犯罪者を出さない事の方が重要だと思うのです。実際、防犯カメラは犯罪抑制に非常に効果を上げていますし、検挙にも大きな効果となっています。今では防犯カメラはどこにでもある事を多くの人が知っている事です。知っていて犯罪行為をしているのですから悪質でもあるのです。監視カメラ設置に反対する人より、安心の為に設置を希望する方が増えてきたのは、一人暮らしや近所付き合いの希薄な環境が影響しています。ですから、その映像に犯罪行為が写っていたなら公開すべきです。個人のプライバシー保護の名の元、犯罪者保護に今日では加害者の方が被害者より法的に守られていることがおかしいとも言われています。慎重にすることが加害者を守っている事になっています。未成年保護も障害者保護も犯罪行為を容認するものではありません。また、顔が明確ではなく、類似した人が間違われるなど危惧もいわれますが、中途半端な情報の流し方をするから起きることです。場所や時間を明確にしているなら姿かたちが類似していても明確にアリバイ証明が出来ますから誤認される事などありません。過去の日本の人権に対しての冤罪を含めた警察の在り方や裁判の在り方の中で危惧する人もいますが、テレビのドラマにも出てくる思い込みの刑事のようなことはなくすべきですし、「人間だもの間違いだってある」と言う警察官や検察官、裁判官を処罰する法律を整備すればいいだけです。冤罪は万が一にもあってはならないのです。間違えたなら、刑事だろうと検察だろうと裁判官だろうと罰を受けるべきなのです。社会には1件も不備が許されない事は沢山あります。例えば、原子力、医学、教育。食品製造でも加害者にならない努力が続けられています。にもかかわらず、行政官の責任追及がなされない事を良い事に、裁判官や警察は謝罪どころか責任をとるという事がありません。特に、裁判官の誤審判は断罪されるべきなのです。一件一件人生が掛かっているのですから、裁判官としての死活を掛けて行うべきなのです。それだけの志がないから、冤罪は起きるのです。テレビなどの制作会社が製造するものは、明確に意志があって真実ではない事の方が多くありますが、偶然防犯カメラに映った映像はモザイクなどの加工することなく実写を放送すべきだと思うのです。犯罪摘発として映像を公開するという事を前提とするなら、犯罪については裁判で決めると言うルール違反となりますが、問題提起の資料としての具体例として提示する事は何ら問題のない事です。すると、当事者の承諾がないと言われますが、事故映像を含めて当事者の承諾なしに報道されている映像などいくらでもあって、訴えられると言う事例で判断基準を考えていけばいい事です。つまり、勝手な自己規制や加工修正などせずに、これは犯罪ではないかと言う摘発更衣としてではなく、問題提起の事例として流すべきだと思うのです。煽り運転の挙句に、降りてきて怒鳴っているような人間の顔をモザイクにする必要があるとは思えません。当人に言うべきことは、自分が正しいと思うなら「名を名乗れ」と言うべきです。そして、晒されていやなら二度としなければいいだけの事なのです。安心を守る為に防犯カメラが役立っているように放送は、犯罪防止に役立つ放送をすべきです。

福祉の第三者評価は、無駄遣いの話

「第三者評価は、福祉サービスの質の向上を図る有効な手段です。評価を行う過程で、職員が日々の業務における課題を発見することや問題意識を共有化することができ、施設全体のサービスの質の向上が期待できます。 また、提供する福祉サービスに関する評価を受けることで、現状を把握し改善すべき課題を明らかにすることができます。」と第三者評価を推進する人たちはその意義を話しますが、福祉の現場からすれば天と地ほど感覚が違っていると思うのです。福祉の現場では、単純に人が足りないであり、人手不足で定員の減員までしている現状で質の向上に気が付いたとして、改善や課題が分かったとして一体それを誰がやるのかとしか言いようがありません。逆に言えば現場は、他人から指摘されなくても支援の質の向上を希求していますし、改善点も課題も理解していますから、それが可能な条件整備をしてくれと言うのが一番の要望だと思うのです。それに、福祉の事業の利用料は全国一律で、同一料金同一支援サービスが原則ですから、福祉サービスの評価をしたならほぼ同一と言うのを前提とした仕組みです。障害福祉事業の一つ生活介護事業の実施方法がどう違おうと一人当たりの単価は全国一律で、その最低基準が守られているかを行政監査で確認しているのですから、サービスの質の向上が何を指すのかすら不明なのです。つまり、そのサービスのランクに応じた料金体系ならば誰もが、サービスの質向上が収入につながりますから競ってでも評価を求めるでしょうが、「大変良く出来ました」の印を貰ったからと言って、収入には関係ないのです。それに、他事業所より優秀と言う評価を頂かなくてもお客さんである利用者は待機しているぐらいで定員不足にはなっていないのです。現状の状態でもお客さんが待っている状態ですから、あえて、煩雑な第三者評価など受けなくても経営的にも何の問題がないのです。それに第三者評価は、法人財政指導や労務管理については補助的で、職員が職場の労務管理改善を期待してもその役割にはなく、財務指導も経営コンサルタントほどの対応も出来ないのです。調査も、事業所の説明を聞く程度で、仮にパワハラがあったとしても指摘は困難です。それは、第三者評価の仕組みにあります。第三者評価を受けるには、事業者自身が、認定されている第三者評価機関の一覧表の中から何社か選び、各社から説明を聞き見積もりを取って事業所により都合のいい回答のあった会社を選定し、契約することが可能なのです。契約後に、第三者評価会社は、事業者に「自己評価」を実施してもらい、「利用者等のアンケート調査」及び「訪問調査」に協力してもらい、実際に施設を訪れサービスの現場や職員とのヒアリングを設定してもらう事で調査するのです。調査そのものが事業所の協力がなければ出来ないのです。そうしてサービス内容や組織運営について総合的に分析し評価したものを事業所に真っ先に見せて事業所の同意がなければ、公表する事は出来ないのです。ですから、この流れを見ただけでもこの評価の信頼性が薄い事は明確です。誰が考えても、事業所が自分のお金を払って、評価会社を選んで、契約して、調査の協力をして、評価を受けて、同意したなら公表されると言う手続きにおいて、第三者評価会社が、事業所に対して客観的な立場を貫けれると思う方が不思議だからです。仮に評価が低かったり批判的な内容なら契約の解除をして初めからやり直すことだってできます。そんなことになったなら、狭い福祉業界の中では直ぐに評判となり第三者評価会社そのものが生き残ることは出来ません。つまり、わざわざ費用を払ってまで評価受けようという事ですから、選定時から、事業所に都合の良い会社と契約しますし、公表されても困らない内容で評価する事を承諾するような会社にすることは当然のことです。さらに、事業所の広報活動に役立事が出来なければ事業所内の実施の賛同も得られません。広報誌に「第三者評価高評価でした」の見出しは、既に利用している方々の不満を抑制するには効果があると言うのなら実施に協力するでしょうが、待機者に高い評価をアピール出来るなら人手が足りない時に人手の取られる第三者評価など後回しにされてしまいます。ですから、事業所としての利益が優先されたときに、契約関係にある第三者評価機関は厳然と評価する事など出来るわけがありませんし、仮にそんな会社はこの制度の中では淘汰されてしまう程度の制度であると言えるのです。福祉事業所は、評価の公表により高い評価で利用者の募集を必要とするほど利用者に不足を感じていませんし、サービス料金が全国どこでも同じなのですから、収入に連動しない支援サービスの質向上に、費用と労力を提供するほど余裕などありません。ネットなどでは公表された事業所が第三者評価を受けてよかったという事ばかり乗せていますが、高いその評価はやらせではないかと思われても仕方がないような制度で、第三者評価機関の対応に追われる現場の職員には迷惑な事だと思いますし、費用的にも無駄だとしか思えないのです。

袴なんてロングスカートでしょの話

 民族衣装というものは、その民族は見慣れているので他と比較しても素敵だと思いますが、他民族から見ると違和感があるという事は良くあります。それは、民族の歴史であり文化の違いそのものなので、アイデンティティーなどとして説明されることもあります。例えば、日本人が賛美する「鎧・兜」も世界的に見れば、変わった効率の悪い防具としか見えないと思うのです。それは、日本の「鎧・兜」は本来、高価でその作りによって身分を表している場合が多く、戦闘の防具としての機能性よりも、権威を象徴する衣装に近いからです。戦闘では、矢が刺さる事、槍で突かれる事、刃物で切られることを防ぐだけの防御だけでは生き残れません。相手を倒す攻撃が必要です。その時いくら戦争に慣れていると言っても、鎧兜だけで平均でも30キロ近くにもなるだけでなく、関節や体の動きを制限する様に体にくくりつけられた防具と共に生死を掛けて動き回ったのでは30分もすれば息が切れてしまいます。むしろ戦闘では、俊敏に動けることや疲れない事の方が重要です。ですから実際の戦闘を行った雑兵は脱着も簡便で動きが封じられない最低限の防具で対応しています。そう考えると偉い人は基本的に戦闘をするのではなく威厳を持って指揮するために、戦場の正装として鎧兜を用意していたとも言えます。同様に、日本人の好きなサムライの袴姿も今でいうスーツみたいなもので、農作業的な作業や舗装もされていない泥道・田舎道的な道を歩いていたら裾の方から泥だらけになりますし、樹木草に引っ掛かり破けてしまいます。江戸時代前は、作業時には、股引と言われた作業着や着物をまくり上げて足は裸で作業していました。大名行列の図を見れば、晴れ舞台なのに膝までどころか太ももまでまくり上げている事が分かります。日本の着物では、走ったり股を開けば、いわゆる「はだける」という状態になる事は明確ですから、それを補うための袴は、下衣としてズボン状だったりモンペ状だったり繰り返されるのですが、明治以後和服と言われる分類にされてしまい実用的な服からはどんどん排除されていきます。それでも時代劇や正月などでは見る機会が多いので、憧れの服装という事でもありますが、そんな人でさえ、スコットランドのキルト姿を見るならば男がスカート履いていると笑います。しかし、立場を逆するなら、スコットランドのキルトは、ミニスカート状態で、日本人の袴はロングスカートそのものです。袴は、どう見ても衣類の分類ならスカートとしか見ることは出来ないのです。しかも、袴は民族衣装の一つとしてアイデンティティーに関与するかと思うと、全く現代では着ていないのです。子供の時7・5・3で着ていた写真はあっても、その後レンタルでも着たことがあるなんて日本男子は、ごく少数なのです。さらに、所有しているなんてことは芸能にでも関わらなければ無いに等しい時代になっています。サムライという言葉がやたらと日本を象徴するかの如く使われますが、サムライの衣装は既に日常生活にはありません。それと同じように、サムライではなく「武士道」が失われていると言うのが現実です。見慣れていなければ、ただのロングスカートにしか見えない袴姿は、東洋の民族衣装で欧米的な衣装からするなら、日本人が思うほどかっこいいものではない、ロングスカートでしかないのです。ヨーロッパの騎士道については日本人が名前しか知らない様に、日本の武士道なんて世界じゃ知られていないのですから、見た目でもスカートにしか見えないサムライの袴姿を自慢してもアイデンティティーもない民族衣装の一つに過ぎないのです。日本人から見るなら立派な男装なのに、文化が違えば立派なロングスカートにしか見えない事をしるべきだと思うのです。

ウクライナもロシアも頑張らなくていいのではの話

ロシアの事で思うのですが、経済制裁とか孤立化を図るとか欧米の首脳とかが普通に当たり前のように話しているので誰もが、納得しているかの様に報道されるのですが、経済制裁されて兵糧攻めだなんて言っても、プーチン氏とその周りの人が食べ物や生活用品に困るなんてことは最後まで起きないと思うのです。一番最初から最後まで、飢餓になるのは下々だけです。国を守れと、国外から武器援助を受けて戦っている事が凄く評価されていますが、戦うほど被害が大きくなっていると言うのも実態だと思うのです。人道援助なども食料や物資を届けて頑張れと励ましているようで、頑張れば頑張るほど被害が大きくなるのも現実です。日本の太平洋戦争だって止めることが出来たのは何度もあったのにがんばれ頑張れとずるずると長引かせて原爆を落とされても、本土決戦だと言う人たちによって被害を拡大させました。終わってみれば、軍の少将クラス以上の生存率は兵隊よりずっと良くて、政府機関の岸や佐藤は首相にまでなってしまうし、利権を得ていた軍事商人たちは誰も罰せられることなく飢えることもなく生き延びていきます。簡単に経済制裁だと世界で行われている、イランや北朝鮮だって、経済制裁で困っているのは、人民であって支配階級ではありません。結局支配階級が国際社会と言うムラ社会で何かしでかして経済制裁なんて「村八分」に合うと、そんな支配者に従っているお前らが悪いと、罰を受けて生活困窮するのは普通の国民だという事です。民主主義の国民は支配者を選挙と言う方法で自分たちで選ぶから、「村八分」になるようなことはしないが、独裁者のような国の支配者は、国際社会で狼藉を働くという事で「仲間はずれにする」という事なんですが、暴力で支配しているから成り立っている国で抵抗しても結局割を食うのは国民で、ミャンマーだって軍の支配者はちゃんとご飯を食べていますが、抵抗した人々は拘束されご飯もろくに食べさせてもらえていないと思うのです。では、そんな独裁者を選んだ国民が悪くて連帯責任のように罰を受けなければならないと言うのは違うと思うのです。民主主義のアメリカの占領を得ても、アフガンは力づくの権力者が、国民が選ばなくても勝手に力やってきました。香港だって見ての通りです。頑張れ頑張れと煽てられても結局力づくの支配者がやって来るのです。中国も独裁者の国に違いありませんし、独裁者がいる国なんて実は世界には沢山ありますが、国際社会で、目立たなければ、資源がなければ欧米は意外と独裁者を非難しないのです。多くの人たちが、人間関係で「村八分」や「孤立化」は、いじめだと言いながら、国と国と言う利害関係では、利権争い=国益と言う縄張り争いでは、正義の方法になってしまっています。ウクライナの人が頑張ってロシア人が戦ってくれれば、アメリカやドイツを含めた欧州の武器が援助の名の元、国が買い上げて何百億円の武器商売が成立しているだけです。死の商人たちは、正義のウクライナに気前よく送られてくる世界の善意の義援金を食べつくすまで戦争を続けさせるつもりでしょうし、復興資金を如何に集めるかの算段をしていると思うのです。弱り目に祟り目と言う言葉がありますが、地政学上や歴史の中で、ロシアとしては東西冷戦終了後経済的にも苦しい時代や仲間がどんどんいなくなると言う状況にパニックになるほど追い込まれたとも言えます。北大西洋条約機構の脅威が本当にあるとは思えないのですが、30か国の軍事同盟で不安を掻き立てた事は間違いないと思うのです。何故なら、NATOは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争マケドニア紛争、アフガニスタン紛争、リビア内戦と戦争ばかりしているだけでなく、民族紛争を引き起こす要因を国ごとに内包しているからです。ウクライナの人達は国を守っていると言ってはいますが、ヨーロッパの歴史では固定された領土などなく、様々な国の興亡があって、その支配者たちに振り回されてきたのが国民だと思うのです。得体のしれない国を守るより、一人一人の生活を守る考え方も考慮に入れて欲しいと思うのです。グローバル化などと言う世界の経済と言う残酷な怪獣が引き起こしている問題で民主主義対独裁主義などと言う宣伝に誤魔化されてはいけないと思うのです。何故なら、経済は確実に貧富の差を生み出しているからです。

 

自己肯定感強いと好戦的になるの話

 欧米に比べて日本人は、自己肯定感が低いとされて、自己肯定感を高める教育が必要だと語る著名な人は多くいます。でも、そんな人でもホームレスが自己肯定感がどんなに高くても評価はしません。要するに分相応の自己肯定感しか求めていません。その証拠に、世界一幸せな国がブータンと言われ王様迄来日したのに、ブータンに学べとは言わず、へぇーどんな得点なのかね程度の反応しかしませんでした。仮にこれがドイツやフランス・イギリスなら、反応は違っていたと思うのです。つまり、欧米を優位としている人達は、欧米のような生活が前提で、山の中の田舎もんが何を言おうと、経済的に貧しい国がどんなに幸せでも関係ないのです。ですから、日本と比較するのは欧米とであってアジアの国では無いのです。そして、文化や経済状況などのベースもなくざっくり、欧米好みの「あなたは幸せですか」「自分に満足していますか」「自分には長所がありますか」という質問をして、肯定的な回答が多いほど自己肯定感が高いと分析したと言うのです。そこで調べてみるとこんな文章が見つかりました。「米国人は幼い頃から、自分に自信を持ち、他人に負けないように自己主張するように育てられる。そのため小さい子どもでも自己主張し、それが良い子だから、みんなそうした方向に自己形成していく。一方、日本人は、幼い頃から、思いやりを持ち、自分勝手な言動は控え、協調性を身に付けるように育てられる。そのため小さい子でも友だちの気持ちを考えて行動する。それが良い子だから、みんなそうした方向に自己形成していく」とざっくりとまとめましたが、この文章だけなら欧米型の自己主張が出来る教育の方が何となく優位な感じを受けます。ではこの教育によって育った欧米の大人の社会はどうなるのかと言うと次のようになります。「欧米社会では、強烈な自己主張をして、自分を大きく見せ、自信満々に振る舞わないと生き抜いていけない。遠慮したり、人の気持ちを配慮し自己主張を控えたりしていたら、競争に負けてしまう。あくまでも自己主張によって求めるものを奪い取らなければならない」という事です。そして、日本が譲り合いの社会なのに対して、欧米は奪い合いの社会なのであるとまで言われてしまうのです。この見解では、自己肯定感と自己顕示が混同されている事が明確ですから、正しくはないのですが皆が自己主張をしたところで妥協点がなければ社会は動きませんから、当然譲り合いもあるはずです。それを民族比較した時に自己肯定感が高い民族程文化や経済において優位に立てると言うのは歴史的には間違いだと思うのです。欧米が世界のリーダーのようにふるまっているのは、産業革命後200年ぐらいで侵略と押し売りで財を成したからで成り上がり者であることには間違いないのです。欧米人は遠慮なく自己主張し、自信満々に振る舞うことが自己肯定感が高いとみられるなら虚勢を張っているとしか思えない言動までもが自己肯定とされてしまいます。それは、自己肯定ではない自己顕示ですから、他者に負けまいとする競争社会に生きて行けば、当然の如く好戦的になるのは当たり前です。この100年間の世界の戦争をみても欧米が引き起こしているものばかりです。中東の長い戦争も、ベトナムの戦争も、欧米人が譲らず自分の国益だけを主張する結果です。これが子供の時の教育によるものなら、欧米の教育は間違っています。新聞報道の概略ですが「オクラホマ州の下院議員候補32歳のアビー・ブロイルズ氏は、友人の娘らが企画した少女たち8人が集またバレンタインデーのパジャマパーティで、泥酔し少女たちを怒鳴るなどの問題を起こしたが、地元メディアに対し、ワインと一緒に飲んだ睡眠薬のせいで幻覚を見ていたなどと弁解し、私の行動により傷つけてしまったことに心から謝罪しますと謝罪したかと思うとすぐに、今回私が起こしたと言われている事態は本当の私がやったことではなく、メディアによる政治的ネガキャンだと主張しオクラホマ州民のために闘うことをやめるつもりはない」と宣言したとするのです。これは明らかに自己肯定感ではなく、競争社会の弊害です。自己肯定感が他者攻撃になるのは欧米人でも否定する事だと思うのですが、子供の教育は、大人社会でのルールを教えるものですからその社会を反映しているという事は正しいと思うのです。ですから、自己主張が強く育てられた子が大人になって武器を持たされたら必ずしも自己主張の為に武器を使用するとは限りませんが、好戦的にはなることは考えられます。今の世界情勢で考えてみるなら、欧米の教育が、世界の戦争の原因の一つであることは間違いなく、欧米の教育に憧れる日本人には、世界の平和の為なら、自分勝手な自己主張は未熟者のすることとみなされる日本人の教育の方が寄与できると思うのです。

 

承認要求で犯罪を解説しても実行犯は反省しないの話

 心理学を学べばすぐに出てくる人間の要求論で上位に承認要求があるのですが、犯罪があるときにその心理として承認要求を持ち出して犯罪者の心理を説明することが多くなりました。しかし、私は、犯罪者の犯罪動機の深層に承認要求を利用する事は間違いだと思っています。何故なら、承認要求は誰にでもある基本的な事でその要求と犯罪が結びついているのは極まれな事でしかないからです。しかも、その承認要求の深層に社会からの被害者であることを理由づけるのは、最も避けるべきことだと思うのです。過去の様々な事件でも、社会の差別や貧困が動機の一つと主張されることが幾度となく繰り返されていますが、誰にでもある心理要素を使って、あたかも犯罪の原因の要素であるかのような解説は間違いだと思うのです。3歳児を8日間放置し虐待衰弱死させた、梯被告に、裁判官は過去の成育歴状の虐待が影響しているとして刑量を加減しました。本人は、小学生のころに両親から包丁で刺されたり風呂に沈められたりしたほか、体を縛られてゴミ袋に入れられ食事もないまま数日間放置されるなどの虐待を受け、両親は保護責任者遺棄容疑などで逮捕されたといいます。だから、わが娘を8日間も放置し死亡させたとしても刑量を軽減する理由にするのは間違っていると思うのです。裁判官が、虐待を受けた事で、①人を信頼できない②相手に本心を伝えられない③相手の要求に過剰に応えようとするなどの性格傾向になったことが複雑に影響を及ぼしているとして一定程度考慮されるべきと認定したのは明らかに間違いと思います。この三点はまさに承認要求を指すものでそんな理由で減刑されたら、被害者にとっては理不尽以外の何物でもありません。飼育している動物だってホテルがある時代です、他人にも頼めたし、施設に預けてしまう事でも救えたのです。男の要求には過剰に応えて、子供の要求には拒否できるなんて矛盾はありません。判決後に会見した裁判員の20代女性は「自分から支援を求められない人にこそ、支援が必要だと感じた。」と記事にありましたが、支援が必要だとさえ思っていないから犯罪に至るのです。犯罪になると思う事、感じることが出来たなら、虐待死なんてことにはなりません。本人に同情すべきは、出所後に更生できるほどに娘の死を受け止められたかという事ですが、残念ながらそれは出来なかったと思うのです。何故なら、娘の死に立ち会っていないから実感として苦しみも痛みも分かるはずがないという事です。自分が食事を得られないまま何日も放置された経験があれば空腹や虚脱感などを覚えているなら他人であっても実施しません。まして自分の子の苦痛と男とを選択肢に乗せる事などしません。虐待の経験は、それぐらいでは死なないと言う経験にしかなっていなかったのです。つまり、自分の虐待から学んだことは、それほどにされても子供は死なないし何とかなる程度の認識だったのです。その証明として、3歳児を数日閉じ込めたままにすることが繰り返されていたのです。死ぬはずがなかったのが死んだだけとしか思っていないと思うのです。所詮虐待を受けていたは、言い訳の部類だと思うのです。虐待を受けた人は沢山いて、人生に影響を与えることは確かですが、犯罪に至るのは言い訳にすぎません。まして、自分の辛い経験を他者に押し付けることをしても自分自身さえ溜飲が落ちる事などある訳がありません。承認要求の強い人の特徴の一つとして、「寂しがり屋で孤独に弱い」とか「愛されたい」「1人は嫌だ」という事がありますが、親からすればうっとおしくて虐待に至る場合もあります。異性との関係でも相手に認めてほしいと言う関係が最も重要ですから、母親としての立場は圏外に置かれます。つまり、3歳まで生きられたのも奇跡であり、3歳後に子供が嫌いな「雄」が入り込むことになったらもっと酷い虐待にあっただけだと思うのです。そのような危険な承認要求によって引き起こされた犯罪の被害者に対して「本人も可哀そうなんだから」減刑しますは納得できるものではありません。減刑というのは、更生の可能性が高いからすべきで、可哀そうな私は社会の被害者になり切ってしまい、再び違う形での被害者を作り出す可能性が高いとしか考えられません。犯罪が起きると何故と言う疑問に心理学者が説明する事が多いのですが、承認要求で犯罪を解説しても実行犯は反省なんかより、被害者意識が高まるだけだと思うのです。