知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

誉めて、励まして、慰めたって辞めてやるの話

 辞めないでいてくれることに感謝の時代になってきました。過去には、奮起させる意味で「辞めてしまえ」と言うことがありましたが、今どき、それを言ったら「はい、さようなら」としかなりません。どこの職場でも人材育成と言いますが、今どきは仕事で失敗をしたときに原因を尋ねると、「教え方が悪くてわからなかった」と言われてしまうような職員がいても不思議ではない時代になりました。育成の前段階で既に辞めようかなと思っている職員に何を育成したいのか分かりませんが事業所に都合のいい人材の育成なんて今日ないという事を知らなければなりません。先輩とか上司からの先生と生徒的な教え方を中心とした育成方法は崩れてお友達感覚の育成方法でさえ、育成すると言う感覚では親の心子知らずと言うことわざの時代に入りました。さらに、蓄積と言う感覚も薄れて、職場の即戦力要求は必要な水準さえ求めない数合わせのような現場の保険のような時代にもなりました。ですから、過去であれは一人前の口を利くのは3年早いなどと揶揄されたりした雰囲気はもうありません。今は、就労して1週間も仕事をしただけで、上司を非難しますし、事業所の文句も言いますし、同僚への愚痴も平然と口にするような職員でも抱えなければならないほどに切迫しています。非難も文句も愚痴もまとめて反論できますが、それを言い出すと辞めますという時代で対話を求めているのではなく、言いたいだけなのです。だからと言って褒めたところで何もしませんし、伸びしろを感じることもないと感じているのが本音でもあると思うのです。今では、あそこが悪い、あのやり方は変だ、私は話を聞いていない、みんなが言っているぐらいの言い訳は新任職員でも言い出します。ではあなたは何ができますかとなると、「止まれ」です。辞めたい職員は、言いたくて、聞いてくれ上司を待っているのですが、逆に上司は、みんな忙しくて、なかなかチャンスが来ません。すると、辞めます。忙しい上司も時間を空けて君が必要だと話さざるを得なくなるのです。「私褒められて伸びるタイプです」と本人から宣言される時代ですから軽率に褒めたとしてもなんら問題もないほど誉め言葉も軽くなりました。そして、褒めても何も努力はしないし、褒めるところが何もない人まで褒めなければならない時代でもあるのです。そんな部下が多くなっても、中間管理者は増え続ける仕事を処理しなければならないので、ついつい怒鳴ったりしてしまうとパワハラだと逆に攻撃されてしまいます。頑張っている重要な中間管理職の支柱が折れかかるのもそんな場面が増え続けているからでもあります。職務上では大嫌いなやつでも猫の手より利用できると割り切って、辞めさせなくてもいつでも辞めるやつだから使えるだけ使えと打算に切り替えて、我慢に我慢を重ねても、結局自分の仕事は増えても任せられない部下の尻ぬぐいをしていると疲れ切ってしまいます。辞めたい職員の履歴を見ると、辞めて次にレベルアップしているわけでもなく、辞め慣れしているのかなと感じることもあります。確かに、就職情報は溢れていて、ウインドーと見た目は、おいしそうに見えるものがずらりと並んでいますが、ご案内通りのはずがありません。人が不足している職場がアピールしている内容と、自分がアピールして職場に向かう内容の差は大きくて、就職すれば本人が期待するものが準備されているなんてことはない事を知るべきですが、結局は、前の方が良かったと感じるからまた辞めたくなるのです。ある人は「もう、あの人とは一緒にやれない」と辞める理由を言いましたが、「あんたあの人と、どれだけ、どんなことを一緒にやったの」と聞きたくなるほどの接点しかない上司との関係を辞める理由に言い出す人もいます。就労して1年も満たないあなたに、上司を選択するほどの人生観あるのかと問いたいぐらいです。職場は、ついていきたいと思う上司に簡単に出会えるほどドラマチックではありませんし、そんな情で務めるところでもありません。お互いに冷めた労務関係の中で、有益ならば続ければいいし、不利益ならば辞めればいい程度の関係の中で就労と離職を繰り返しているあなたが軽々しく「ついていけない」と言ったら「ついて来るな」と言い返されるような評価だという事の自覚もありません。日本の職場は本当に大きく変わりました。務めることよりも辞めることがとても軽い時代になりました。

話したってわからない人ほど話し合いを求めるの話

   相手の話をよく聞こう、聞く耳を持ち、小さな声も聞くべき、と色々な教育者が繰り返し話しますが、ではそう語っている教育者自身が、当事者となったときにはどうするんだろうと誰でもが思います。話し合いで解決できないから司法があるように、話を聞いた後何をするかが問題です。つまり、双方が同意できていることは話し合いなど必要ありません。不同意ですから、話し合ったってどっちかが相手に歩み寄らない限り話し合いでの解決などある訳がないのです。小説ではありませんから正義と悪役が分かるなんてこともありません。どっちも正義ですし、どちらも悪役でしかないのです。ですから、最終的には、力関係で決まるのです。多数決だって多数という力です。軍隊や警察だってただの暴力装置ですし、力そのものです。軍事力の強弱で正義を決めるという事も普通で、軍事クーデターが無くなった世界ではありません。つまり、話し合いは双方が合意できなければ力づくでも押し付けなければ平行線で解決は出来ません。大きな話をするなら世界の情勢なんて軍事力と平行線の話に満ち溢れています。カウンセリングの基本には傾聴が最も大事ともいわれます。でもこの発想は、相談者を下にみてしているからにすぎず、与える側が、教え導くに近く、聞くだけ聞けばストレスが低下する程度の場合の方が多くみられます。つまり、話し合いが必要だという事は対立したものがあるという事ですから、どちらかの意志をくじかなければ決着などするわけがありません。合意していない、不満だという両者を黙らせるか、一方を譲歩させるか、話し合いとはそういうものだと言えます。話し合いをしようと言うのは、譲歩が強いられるということでもあり、話し合わなければならない事があること自体が揉めていることなのです。学校で言う教師の主導する話し合いを話し合いだと勘違いさせている教育が間違えています。そして、多数決に任せる民主主義では、多数の意見が決定の要素になりますから、少数者の意見を尊重しようというのは形式以上に意地悪なのです。つまり少数者の気持ちも組み込んだという証明書が必要だから、話し合いが行われたという事実を必要としますが、初めから少数意見を尊重していたなら話し合いの必要などありません。合意しているのですから。問題は、話し合えば自分の意見が通ると勘違いしている人です。自分の意見は正しくて周りはわからずやばかりだとしか思えない人がいることです。こんな人は、調べるという事が出来ません。調べるときも自分に有利な事しか調べませんし、一点でも自分に有利なことがあるとそこにしがみ付いて広くは調べず、自分に不利なことは認めません。一つでも自分に有利だと思うと、周辺の事項同士を関連付けることはしませんから、9割否定されても1割だけで強気でいられます。しかも又聞き的な推測発言が多く、話した人の真意をその場では確認できないようなことを真実のごとく話します。実行できそうもない事でも、頑張るの一点張りで突破しようとします。その他にも、想定・見込みが出来ませんから論議がかみ合わなくても平気ですし、話がすぐに飛び、枝葉に移って一つの事を集中してまとめるつもりもありません。何でも聞きたがり知りたがるのですが、自分に有利なこと以外は受け止める気など全くありません。そしてこんな人は、依存が当たり前で、依存も権利と勘違いしています。話しても分からない人は、話し合いが自分の主張が理解されて賛同を得るチャンスだと思い込んでいます。だから自己主張はしますが相手の言っていることを聞く気も分かろうとする気持ちもありません。一方通行しかありません。何故なら、話が分からない人が話し合いたいと言うのは、相手にわからせることが目的で、相手を理解しようと言うことなど初めからないのです。当然自己主張に満ち溢れていますから、相手が何を言い出すかの想定なんかしません。自分が言う事だけを繰り返してくるのです。だから、わからないのではなく自分の主張以外は何も受け入れる容量はないのです。そこには、駆け引きも交渉もありません。ことごとく論破されてもそれが理解できません。何故なら自分の主張に問題があるではなく、何度言っても相手が自分の考えが理解できない愚か者であり、わからずやと思い込んでいるからです。そのような状況になると、むしろ被害者意識が高くなって、相手の言葉尻どころか、言葉から連想して事実と反する事さえ妄想して攻撃性が高まります。話せばわかるは幻想で、話したってわからない人は現実にいるのです。そして、話したってわからない人ほど手段になってしまった話し合いを求めるのです。

トラップを仕掛けてでも、仮想敵を作りたい被害妄想の話。

 人間は誰にでも被害妄想はあります。簡単に言えば、他者を「疑る」という事ですし、猜疑心やひがみ、杞憂、嫉妬、錯覚 様々ありますが、そのほとんどは、諦めとか妥協とか、忘却とか何らかの処理方法で埋めてしまうと言うものだと思うのです。ところが現実社会の中で被害妄想に至る事実もないのに自分から仕掛けてでも被害妄想を演じたい人がいるのです。普通、被害妄想だけなら、多くの人が心配事として相談にも乗りますし、応援もしますし、おせっかいもしてくれますが、このタイプの人は、自分で仕掛けてでも相手の言動が自分に対して攻撃的だと訴えるのです。つまり、トラブル状態でないと自分の存在を肯定できない人がいるという事です。そんな人を淋しいからだとか、かまってちゃんだとか承認要求にすぎないとか、知った風の説明をする人もいますが、穏やかな水面に顔を付けて息を吹きかけてでも波を起こしたい人は関わってくれる人が欲しいのではなく自身の気分の高揚を求めているのです。自分の息で波が出来たことで視覚的に自分が作り 出した波だと確信できなければなりませんし、他者にその波が届くことが確認出来る事で自身の気分が高揚するのです。そして、そんな確認の相手に選ばれてしまうのが、とてもいい人で、思いやりのある温かく、且つ気が弱い人なのです。標的にしたとしても反撃して自分へ挑んでくるような人には波は送らないのです。間違えて波が複数に届き、反撃される事があると、真っ先に逃げ出してしまいます。一方、対応してくれる相手には、威勢のいい事、かっこいい事を並べ立てますが、何一つ実行する気などありません。何故なら被害妄想と同様に勇者妄想に突入しているので、現実に自分が実行したこともない「全力を尽くす」や「命を懸けて」などと言う言葉が簡単に吐き出されてくるように本人は現実社会では全力を尽くすとはどんなことかの想定も出来ていないからです。そして、少しばかりの否定を届けると「死」を匂わせます。そんなときも、識者は、自分が存在している事を確認したいだけという事がありますが、人間「死んでやる」と叫ぶ相手程対応が困難なものはありません。自分の一番大切なものを平気で晒し、対人交流のアイテムにすることで自己を有利にしようとするやり方は、相手には響かないだけでなく、交流相手としても危険で避けたい相手と思われるだけです。それだけでなく、人間は社会的で孤独との戦いはつらいと宣伝されていますがそれは正しい認識ではなく、孤独を好む人も多くいる事を知るべきで孤独は人間的でもあるのです。ですから他者と交流すると言うのは、どんな形であれ自立していなければならないという事で、他者に依存するという事ではありません。淋しいにしろ、かまってほしいにしろ他者に自分の感情を癒してほしいと言うのは依存であって依存は生きるために必要ですが、命を担保にして依存してはならないと思うのです。そんなことをすると、周りの好意ある人でさえ出来れば関わりたくない人になってしまいます。すると今度は、無視されたと言う因縁をつけて、自分から被害妄想に至るのです。それだけではありません、たとえば、壊れやすい物、変化があるものを自分の周囲に置きそれらが何かで傷つくと、自分はどれだけ癒されていたかとか、活力を貰っていたのにと被害者になりきります。他人からすると他者と共に仕事や生活をする場に、壊れやすい物を持ち込むこと自体がマナー違反だし、まるでトラップでもあるかのようにしか思えません。孤独を苦としていない人は、防衛を必要とする自分のテリトリーを必要としません。それは、どんなに社会的地位があっても、どんなに腕力が強くても、どんなに戦略が強くても完全な防衛など出来ないし他人と関わらなければならないからです。むしろ他者のテリトリーであろうとふあふぁと通り過ぎながら自己を満足させる見聞を拾い集め自分の世界を楽しむほうが気楽です。しかし、被害妄想のタイプは、他者がいなければ被害者になれませんから、何が何でも他者を巻き込まなければならないのです。敵対的な言葉や自殺的な言葉で刺激してでも巻き込みたいのです。そして、それこそが自身への高揚感になるのです。他者を傷つける事さえも自己の高揚感に結び付いている人がいるのです。人は本来、孤独を楽しむことの出来る動物だという事を知らない人がいるのです。人は、孤独に耐えられないと言う、社会的な動物だと言う嘘の刷り込みから解放されたなら、もっと自由になれるのです。自分の思う世界で自由になれば、他者をトラップ仕掛けで巻き込まなくても自由に息が出来る事を経験したなら被害者意識なんて埋めてしまえるものだと思うのです。

 

天皇家は国家が飼育するの話

 天皇家の在り方を臣民が決めると言うのは、既に天皇家には権限がないという事を証明しています。権力があれば、下々に言われる事などないし、無礼千万の話でしかありません。承久の乱で軍事クーデターを起こした軍部が権力を略取して以来お飾りとされてきた天皇家にとって未だに臣民の籠の鳥にされています。徳川軍事政権は、禁中並びに武家諸法度でお飾りであることを法文化しました。明治の中央集権軍事政権は、王政復古と言いながら、王の権限を取り上げる皇室典範などを作り天皇家が上位にいるような形だけ作って、臣民権力構造を維持しました。それは、戦後にも受け継がれ天皇家の王としての権力を奪うものでした。イギリスの王家と同じように紹介していますが、日本の天皇家は、財政的基盤の所有も自立を認められていません。イギリスの王家は、国家からの支援も受けていますがそれは国王としての義務を果たすことへの謝礼のようなもので、それが無くても生活に全く困らないだけの財産を所有しています。ですから、王家として国民ごときに口出しさせない毅然とした態度も示しているのです。ところが日本の天皇家は、家一軒持っていませんし財政基盤は全くないのです。つまり、国家によって大事に飼育されているのと同じ状態なのです。ですから、今日では、由緒正しい血統などとは関係のない有識者会議などと言う庶民が、皇位継承論議まで出来てしまうのです。例えば新聞等の文面にも見える様に「皇族数の確保を図ることが喫緊の課題だ」などと、無礼にも、皇族を一人二人と頭数で数を数えて「足りない」「増やさなければ」と言っているのですから、飼育している家畜と何ら変わりありません。天皇家に関わらず、自分の家系の事など、一族郎党で決めることで、他の家系の者が口を出すべきものでもありません。まして、検討委員会で女性・女系天皇女性宮家の是非を話し合うなど、非礼極まりない事でもあります。その根拠は、今の天皇家は、税金で賄っているのだから国民が納得するような対応が必要だという事で、それを今日では、誰もが不思議には思っていません。しかし、天皇家の歴史で言えば、自分の所有する直轄地を持っていたにも関わらず、軍事政権によって取り上げられ、蓄積してきた財産も国もものだと取り上げられたというだけの事です。天皇家としてみれば、平氏も源氏も遠い親戚で、本家が挙兵すると言えば兵士を携えて集まると言うのが基本でした。だから軍事政権のように常時軍を配置する必要もなかったし、私兵としての自軍を確保してはいなかったのです。その為、権力を失ってから、天皇家は、武装出来ず軍事政権から権力を取り戻すことは出来なかったのです。明治維新軍閥に良いように利用されたという事が明白です。王家が、祭り上げられ生活費を支給されて生き延びさせられているのは、生まれ素性だけは乗っ取れない為政者の軍事政権にとつて、所有したい生きる金の鳥であるからです。だから、子供を産めなんてことを平気で言うのです。家族をどう作ろうと他人に言われる事じゃないし、誰に家を継がせるかも自分で決めることで法律で決める事でもありません。自立した一族なら、反旗を翻してもいいのですが、家畜の如く従順に振舞うように長く訓練されて来たのが天皇家であると言うのも事実なのです。もっと考えてみると、国家の税金で暮らしているのだから天皇家の事に臣民が関わるのは仕方がないと言うのなら、生活保護や何らかの状況で税金の支援を受けている人々に、子供の事や家族の事であれこれ言われたら人権問題だと言って大騒ぎになると思うのです。ところが天皇家は、国家に言われるままに家族を形成しなければなら無くなってしまっているのです。国家の象徴だろうと、首相だろうと、公務としての仕事があってその報酬として税金が払われていたところで、家族の形成迄、頭数で数えられる必要などないと思うのです。でも、今日では、天皇を敬っていると言う偽の臣民たちは、天皇のいう事を聞かないだけでなく、上様押し込みの如く自分たちの利益の為に天皇家を利用するのです。本来なら偉い人のいう事には「仰せの通り」「御意」で済むことで、ああしろ、こうしろなんて言える立場にないはずの臣民のくせに言うのです。畏れ多くも天皇家の跡継ぎはどうするか話し合うこと自体が、もう悪人なのです。天皇家が権力を掌握していた時代には、時間を決める、名前を与える、官位を与えると言う重要な権威を持っていました。特に官位を頂くことは権力の正当性を証明する根拠に利用されました。軍事政権での頭目たちは氏素性が実はあいまいな連中が多くて、箔を付ける意味で、天皇家からのお墨付きを欲しがったのです。そして、天皇家は、利用されているのも承知の上で、上納金方式での経営を続け、独自の領地や軍事力を抱えてこなかったのです。一方で天皇家は、金のかかる秘儀としての儀式を一子相伝の技法として温め続けてきたのです。この儀式は今も権威を持ち続けそれを権力の正当性に使おうとしているから天皇家が必要なのです。でも、その家族を頭数でどうするか他人が考えなければならない状態なんて「飼育されている家畜」か「絶滅危機にある生物の繁殖計画」ぐらいで特殊とはいえ人間の家庭や家族に当てはめることは、適切だとは思わないのです。

大きい方が素敵に見える感性で習慣がついているの話

 花は、一つ一つを見るなら一輪でも驚くほどきれいです。そんな花でも、1本咲いているより100本咲いている方が誰もが感動します。雑草ばかりであっても、草原となれば雄大と感じます。ススキだって河原に一面咲いていれば評価されます。つまり、きれいな花でも、そこらの雑草でも、同じものが一面に、くまなく何処もかしこも、所嫌わずどこまでも隈なくあっちこっち遍く端から端までなら、人は感動する習慣がついています。それは、小さいものより大きいもの、少数より多数の方を評価する様に感性が育成されているからです。無いより有った方がいい多い方が、大きい方がいいと言う感じ方を繰り返し習熟する様に生活しているから言えます。ですから、人間関係でも自分は多数の側にいると錯覚していますし、多数の側に居たいとも望んでいます。それを人間の社会的行動であると説明したり、集団行動を人間の特性と説明したりもする偉い先生もいますが、それは作られ習慣化されたものであって、人間の行動の本質とは言えません。集団の中が安心するかの如く説明もされますが、実際は家族単位ぐらいしか安心感なんて持てません。それに、集団が個を大切にするなどという事はありません。近代以前の世界の常識は、集団は個人に優先するもので、集団の一部としての個が存在すると言うものですから、身体で言えば細胞の一つが自己主張したとすれば、病気に他ならないと判断されました。細胞としての個人は存在しても、身体としての集団の一部であるから集団の中での役割も所属も決まっており、指や腸や皮膚が独自の行動など出来ないと言うのが常識です。ですから、集団が大きい事は良い事とされても、個が大切にされると言うような感覚など全くありません。むしろ、数が大きくなるほど個は抑圧されてきたのが人間の歴史です。人間は集団に安定を求めているように訓練されているだけで、本質は違うのです。日常的に、繰り返し、小さい集団より大きい集団が良いと訓練され、固定されているにすぎないのです。その結果として、生活のすべてを比較して何事も判断する様になっただけなのです。人間は孤独も小さい事も平気ですし、本来比較ばかりするような本質など持っていないのです。本質にない事をやるから、差別や選別や区別が苦しめる手段になってしまうのです。その感性は、社会に大地の如く定着していて、労働者が少ないとどんなに優秀な企業でも零細企業と言いますし、過疎の村というのは、どんなにすごい事をやっていても衰退して行くと言うマイナスのイメージ表現とするのです。品物でも、1点ものと高額に評価されるものは、多数あるとの反転としての希少価値で、少ない事が評価されているのではなく、希望者は多いが品が少ないという事にすぎません。つまり、希望者が少なければ、1点ものとしての価値もないのです。大は小を兼ねると言うことわざがあるように価値としても大きい方が優で小さい事は劣である事が繰り返されてきました。お金も能力も、風景も自然も大きい方が良いとされる感性が、生まれたときから醸成され続け、大きさや多さでしか判断できない様に脳が固定されているのです。こんな脳の固定を柔軟に出来る人は、歴史の中でも極少数です。人間の理解力は、簡単に時代を超えられませんし、自分の先入観を超えることも非常に大変です。特に先入観は、人間の言動を固定させる大きな力となります。繰り返され順応された先入観は、対人関係において非常に悪い影響を及ぼすことが良くあります。中でも、視覚的先入観はその人の言動を固定させます。ですから、大を評価する感覚の中では、右肩上がりのグラフしか評価されません。しかし、仮に、小さいほうがいいという時代が来て、今の人間が、せめて2分の1スケールになれたのなら、今の地球を苦しめている様々な問題を解決する事も出来るのです。大きさは安心ではありません。集団は安心ではありません。孤独も個性も人間には重要な要素で、大きい方が素敵に見える感性から、抜け出すことが出来れば、見えてくる視界は大きく違ってくるはずです。人間の、大きい方が素敵に見える感性は、地球にとってはガンみたいなものだとも言るのです。

 

事件に遭遇するってこんなことからかなという話

「お前ら どいつも こいつも」という声でそっちを向くと、さっき座るときにちらりとみた、背の高いやせた男が「一人の・・・・・・・」後は聞き取れない言葉を座っていた方に向かい叫びながら左手へと去っていきました。電車の中、長い座席の右手端は、ガタイのいい男がスマホをずっといじっています。その次席がさっき叫んで立ち上がった人が座っていた席。その次は、赤いダウンを着た太っちょの男でスマホに夢中。多分この二人に向かって叫んだと思うのですが、二人は携帯を見ているだけで何の反応もしていません。席の並びでは、赤いダウンの隣は普通の男で、次が自分、声に反応したのは自分と隣の普通の男位で、向かいの座席にも全員が座っているのに誰も何の反応もしていません。ドア側にも立っている人がいますが誰も反応していません。反応と言っても突然の事であり数秒の事ですから何をすると言うよりも声のする方を向いただけなのですが、誰も声の方に眼さえやらないと言う事です。仮にですよ、座っている男が「何だ」と立って喧嘩にでもなったら、最近の流れで火でも放たれたなら何のことかわからずまず目も上げなかった周りの人は、確実にパニックになるしかないのかなと思わずにはいられない状況だなと思いました。これは推測ですが、電車の座席は、座り方が悪かったり、太目ばかりだったりすると空席のはずの一人分の席が結構狭く感じて後から座り込むのは意外と大変なんです。特に冬場は。通勤慣れしているとスッと収まってしまうのですが、慣れない人がやっと見つけた空席に座ろうとしたなら両隣が太いと意外と難しいのです。しかも、どうしてなのか先に座っている方が態度がデカいんです。さも、迷惑そうな顔をする人もいます。以前の電車の長い座席には中間に手すりが無くて7人掛けと言いながら6人で座っているという事がよくあって、一人分を6人で分かち合っていますから、空いている隙間と言うと、20センチも感じられませんそこに座るには端の⒉足りを除いても4人には少しづつ本来の位置にずれて頂かなければなりませんでしたから、割り込むと言う感じになって図々しいぐらいのおばさんやおじさんしか座れなかったものです。最近の座席には両端から2人目に手すりがあって中は三人掛けとなっていてはみ出すことがあまりできなくなっています。思うに、叫んだ男は、端のガタイのいい男と太目の男の間に座っては見たものの、凄く衣服や身体が触れたか居心地が悪かったので怒っていたのかもしれません。普通は迷惑顔をしながらも、少しは座り直してみる位の対応をしますが、何もせずスマホをいじっている事が腹立たしかったのかもしれません。最後の言葉は、もし聞き取れたなら、一人分の席をちゃんと開けろだったかもしれません。周りの人が反応しない叫び声だったから、トラブルにはならなかったし、叫び声だけにして去ってくれたからそれですみましたが、あれで叫び声だけでなく、何らかの行動を起こしていたら、今度は自分は一体どんな行動になったかが頭の中を駆け巡る事になりました。喧嘩にでもなったとしても、老いたる体力ではとても引き離す自信はありません。最近の事例のように、火でも投げつけることになったら、化学繊維しか着ていない自分は簡単に引火してしまいます。この場に居たと言う一番の有利な事は、成り行きを見ていることが出来たので真っ先に逃げ出せば、何も知らずに座ったり立ったりしている人の外側に出ることが出来そうですから、逃げ遅れる人たちを壁にして自分は助かる可能性は高そうです。つまり、混んでいる列車の中では、何が起きているか知る者だけが優先的に逃げられそうですが、どうしたのと問いかけている人は確実に巻き込まれてしまいそうです。電車通勤の最中に身近でトラブルが発生したのは、何年振りかなんですが、昨今のトラブルは死亡事故にまで発展する事が報道されているだけに随分時代は変わったなとも思いながら、結局突然発生する事故に出会ったときは冷静な判断をする情報も何もありませんから、己の自己防衛意識だよりに行動してしまうんだろうなと思い、事件に遭遇するってこんなことからかと思うととにかく事故には遭いたくないと繰り返しているうちに到着となりました。

 

神様は、見てはいけない、聞いてはいけない、話してはならないの話

 日本の神様に対する原点は、「見てはならない」「聞いてはならない」「話してはならない」からはじまります。ですから、仏教以前の古代の神事は、夜、暗闇の中で行われました。まさに草木も眠る丑三つ時に行われていたのです。その事からすれば、今の神様への世間の態度は、失礼極まりないものであることは間違いありません。見たり聞いたり話したりしてもよいのは、人間の政治でこちらは昼間に行われたのですが、その見たい聞きたい話したいに満ち溢れた態度で神の領域にテレビカメラなんかが初潜入などと関わる事を畏れおおいと畏怖しない社会そのものが既に日本の神様への冒涜でもあります。神の儀式は、人間が野次馬の如く参加する行事ではなく、畏れおおい儀式そのものなのです。何故なら、人間が見ただけで「けがれ」てしまうからです。日本の神信仰の原点は、「けがれ」と「はらい」と言われるように、「神の世界」は清いもので一物の汚れたものがあってはならないものなのです。ところが人間はと言えばそうはいかない。人間は「けがれる」から問題が起きるとなるので、その「けがれ」を「はらう」のが神でもあるという事です。「けがれ」てしまったなら儀式は成立しないという事ですから、儀式といいながらもで 「形式」ではなく実質的に清くなければならないのです。日本の神事は、まず「はらい」によって、清められ、清められたことで「けがれ」のない神の領域が出来るという事なのです。ですから、「はらい」を受けていないような「穢れた」人間が参加したならもうその場は「穢れている」のですから神は存在しないのです。「見られると穢れる」といってやり直すといったことがあるほどで、仏教に言う仏の足元に近づいて見て、聞いて、話すと言うこととは全く異質なものなのです。ここに仏教との決定的な違いがあります。仏教は、救いであり導きでありますが、日本の言う神信仰は、神との交信です。世界の宗教 の多くも神との交信であり、その交信者が宗教者でもあるのです。キリスト教であったりイスラム教は、神との交信を宗教者が独占する事で、国家や政治の上に君臨してきたのです。日本では、神との交信を天皇家が独占する事で、権威の裏付けをしてきたとも言えますし、「見せない」「聞かせない」「話させない」事で実態を隠して一部の人間だけの一子相伝にしたのが日本の天皇家と言えます。権力者は、権力者であることを権威づける認証を求めています。それが神からの認証であることは重要なのです。ですから、日本の天皇制は軍事政権であってもその皇統の継続性として利用しなければならなかったのです。最も無礼なのが、1615年に、徳川政権が施行した「禁中並公家諸法度」で、朝廷や公家を廃止するのではなく統制してしまうのです。「禁中」とは皇族のことで、第1条には、天皇がやるべきことは学問だと記し、政治に関わるなと明確に言い、天皇が政治に関われないことが、幕末まで続くから、明治維新が王政復古なのです。政治と宗教が並び立つことを祭礼一致ともいいますが、日本の天皇は、承久の乱以後政治家らは遠ざけられていたとも言えます。今でもイスラムの世界では祭礼一致の国もありますが、どうしても、通常社会は経済や生活が主となりますから宗教と政治が双頭となっていると無理が出てくると言うのは仕方がない事とも言えます。日本の王政復古として明治維新で祭礼一致の体制を試みましたが政治の暴走を止められずに瓦解しました。話を戻して、天皇の権威は、時々政治に加担したことはありますが、承久の乱に見られるように利権が関わってくると、危険だという事になり天皇は、神との交信により時の権力者の承認者と言う地位についていくのです。それが現憲法で言う象徴という事でもあって、首相を選ぶ選挙権もなく儀礼として承認するのです。結局、神との交信術がなかったなら、既に没落していたかもしれないのです。ですから今でも、穢れた人間が、神様を、見てはいけない、聞いてはいけない、話してはならないのです。