知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

承認要求で犯罪を解説しても実行犯は反省しないの話

 心理学を学べばすぐに出てくる人間の要求論で上位に承認要求があるのですが、犯罪があるときにその心理として承認要求を持ち出して犯罪者の心理を説明することが多くなりました。しかし、私は、犯罪者の犯罪動機の深層に承認要求を利用する事は間違いだと思っています。何故なら、承認要求は誰にでもある基本的な事でその要求と犯罪が結びついているのは極まれな事でしかないからです。しかも、その承認要求の深層に社会からの被害者であることを理由づけるのは、最も避けるべきことだと思うのです。過去の様々な事件でも、社会の差別や貧困が動機の一つと主張されることが幾度となく繰り返されていますが、誰にでもある心理要素を使って、あたかも犯罪の原因の要素であるかのような解説は間違いだと思うのです。3歳児を8日間放置し虐待衰弱死させた、梯被告に、裁判官は過去の成育歴状の虐待が影響しているとして刑量を加減しました。本人は、小学生のころに両親から包丁で刺されたり風呂に沈められたりしたほか、体を縛られてゴミ袋に入れられ食事もないまま数日間放置されるなどの虐待を受け、両親は保護責任者遺棄容疑などで逮捕されたといいます。だから、わが娘を8日間も放置し死亡させたとしても刑量を軽減する理由にするのは間違っていると思うのです。裁判官が、虐待を受けた事で、①人を信頼できない②相手に本心を伝えられない③相手の要求に過剰に応えようとするなどの性格傾向になったことが複雑に影響を及ぼしているとして一定程度考慮されるべきと認定したのは明らかに間違いと思います。この三点はまさに承認要求を指すものでそんな理由で減刑されたら、被害者にとっては理不尽以外の何物でもありません。飼育している動物だってホテルがある時代です、他人にも頼めたし、施設に預けてしまう事でも救えたのです。男の要求には過剰に応えて、子供の要求には拒否できるなんて矛盾はありません。判決後に会見した裁判員の20代女性は「自分から支援を求められない人にこそ、支援が必要だと感じた。」と記事にありましたが、支援が必要だとさえ思っていないから犯罪に至るのです。犯罪になると思う事、感じることが出来たなら、虐待死なんてことにはなりません。本人に同情すべきは、出所後に更生できるほどに娘の死を受け止められたかという事ですが、残念ながらそれは出来なかったと思うのです。何故なら、娘の死に立ち会っていないから実感として苦しみも痛みも分かるはずがないという事です。自分が食事を得られないまま何日も放置された経験があれば空腹や虚脱感などを覚えているなら他人であっても実施しません。まして自分の子の苦痛と男とを選択肢に乗せる事などしません。虐待の経験は、それぐらいでは死なないと言う経験にしかなっていなかったのです。つまり、自分の虐待から学んだことは、それほどにされても子供は死なないし何とかなる程度の認識だったのです。その証明として、3歳児を数日閉じ込めたままにすることが繰り返されていたのです。死ぬはずがなかったのが死んだだけとしか思っていないと思うのです。所詮虐待を受けていたは、言い訳の部類だと思うのです。虐待を受けた人は沢山いて、人生に影響を与えることは確かですが、犯罪に至るのは言い訳にすぎません。まして、自分の辛い経験を他者に押し付けることをしても自分自身さえ溜飲が落ちる事などある訳がありません。承認要求の強い人の特徴の一つとして、「寂しがり屋で孤独に弱い」とか「愛されたい」「1人は嫌だ」という事がありますが、親からすればうっとおしくて虐待に至る場合もあります。異性との関係でも相手に認めてほしいと言う関係が最も重要ですから、母親としての立場は圏外に置かれます。つまり、3歳まで生きられたのも奇跡であり、3歳後に子供が嫌いな「雄」が入り込むことになったらもっと酷い虐待にあっただけだと思うのです。そのような危険な承認要求によって引き起こされた犯罪の被害者に対して「本人も可哀そうなんだから」減刑しますは納得できるものではありません。減刑というのは、更生の可能性が高いからすべきで、可哀そうな私は社会の被害者になり切ってしまい、再び違う形での被害者を作り出す可能性が高いとしか考えられません。犯罪が起きると何故と言う疑問に心理学者が説明する事が多いのですが、承認要求で犯罪を解説しても実行犯は反省なんかより、被害者意識が高まるだけだと思うのです。