知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

〝私の〞〝私の〞〝私の〞の欲と呪いと復讐の話

一つの事業開始のために、全権を委任されて二年間に渡って対応してきました。そして、自分の城が出来るまで、あと三か月という所で本部の方が「何してるのだろう」「なんか変だな」て感じさせる言動をしてしまいました。本人は、自分の準備に自信を持っていますから、「間違がっていませんか」などと指摘されることなど想定だにしていませんし、事業では途中の修正もあるという事すら全く眼中にありません。ですからこの期に及んで指摘する相手に対して、「これでいいのにこいつ何を言っているんだ」「日本語を話せ」位にしか受け止めません。目前になっての修正など聞く気もありませんから何度話し合ったって話は噛み合わず、指摘するリスクと問題に対しても始めてしまえば何とかなるとしか返答もしません。事業開始の時間が迫っているからどうしても畳みかける様に働きかけますと、本人の反発は益々ひどくなり、指摘する相手は最低の人間にしか見えてきません。リスク回避のどんな提案さえも選別する事さえ出来なくなり、自分のやってきたことすべてを抱え込んで指一本触れさせたくないと、説明する事よりも守る事だけに専念し始めます。こうなると人の話など何も聞きません。何故なら、聞くことは騙されることと本人は思い込み始めますし、一つでも譲歩すると次々に奪われてしまうと言う被害者意識に覆われていますから、人の意見を聞いて選択するなどという事は出来なくなっているからです。そして、後は全て拒否という手段で、自分が抱え込んでいる全ての事項を防衛バリアーを張って籠ってしまいます。事業を失敗させるわけには行きませんから、一枚ずつ引きはがさなければなりません。すると今度は、手を引くと言う捨て身攻撃を始めます。芸術的な事では創造していく過程で、自分の中での肯定と否定、評価と破壊が繰り返されて昇華していきますが、事業ですから、自分の中で解決する事よりは他者との関りの中で解決しなければならない事が多いのに本人だけが捨て身行動をされても孤立するだけで回りは唖然としてしまいます。しかも、捨て身の最も基本は、自分を必要としている、自分でなければならないと相手が感じているかどうかを推し量ってその度合いに応じて言動しなければ、ご自由にどうぞとなってしまいます。私は辞めますと言った途端に、どうぞと言われる状態なのか、待ってくれと言われる状態なのかは、賭けに近いし、自尊心と業務評価の最終判断そのものとなってしまいます。その事業に自分が必要と思われていれば引き止められますが、不要と思われていたなら丁度良かったという事にしかなりません。そんな重要な言葉を感情的に興奮して発することも3度にもなれば、分かりましたどうぞお引き取り下さい、という事にもなります。でもそんな言動をする人に限って一時間もすれば熱は冷めて、「撤回します。すみません」と謝罪しにきます。一身を掛ける気概がないのに、「うぬぼれちゃいけないよ」とばかりに対応されて初めて「しまった」と思う人の良くある言動とも言えます。事業の展開は「我慢と辛抱」しかありません。出来上がった城に兵糧を入れて入城して門を閉めるまではただただ頭を下げ続けることしかありません。同じ捨て身になるのなら城に入ってから、籠城戦をして負けたとしても自分の好きにさせてもらいますと宣言できるまでは、「我慢と辛抱」を繰り返すしかないのです。事業の展開では、短気は損気と言われ、自分の陣地を築くまでは反撃なんかしていたら一度にひっくり返されてしまいます。堅牢ではなくても自分の陣地が出来るまでは守備一徹、攻撃はひたすら我慢するしかないのです。しかし、この方はそうではなかったのです。方針の修正でさえ反撃するし不貞腐れるし報告はしないし、情報を隠すわと様々な抵抗をするのです。そうなると、任せきっていた業務内容まで確認しなければならなくなり、芋ずる式に不備が見つかりますからどんどん追及と指示命令が細かくなっていきます。そして恨みつらみを満タンにして本当に身を引かなければならない事態を引き起こすのです。こうなると残されている手段は、脅しの呪いと復讐しかなくなって自分が事業を始めたときの高邁な思いよりも破壊の方が強くなってきます。お前たちには、絶対に成功させない、事業そのものが潰れてしまえばいいと言う思いになりますから、何かしら妨害行為が出来ないかと、何でもかんでも思い出すように仕掛けてきます。私の城、私の物、私の職員、私の努力、私の協力者、私の関係者にその不当を訴え少しでも取り戻そうとし、出来ないものは奪われてしまったと風評を流します。何もかも騙されて、私を追い詰めるための罠だったぐらいに言わなければ気が済みませんし、怨念しか残っていないと言う事でもあります。事業の展開は人生ではありませんから修正も回復もやり直しも出来ます。その時は素直に従ってくれれば良かっただけのことが、意地と自己利益ばかりに拘わっているうちに最悪の結果を招きました。何とかしなければならないから、押っ取り刀でその方が、準備してきた事業の蓋を開けてみると、他力に頼った事業であったのに、自己の利益本位に組み立てていた構造も明らかになって、再建する方が新設するより大変だと言う展開になりました。後を引き継いだ者として、いつもなら去った人にでも事業を始める初心に戻って帰ってきたらと声かけるところですが、精査するほど初心から私利私欲だったとしか思われない事業経過に驚いてしまいました。事業の目的よりも自分の利益しか考えていなかったのかと考え込んでしまう状態に悩んでいたのに、「私からここを奪い取った。絶対に許さない」と怒っていると言う伝聞が流れてくると、もともと公的お金が投入されて、他人の褌で事業を始めたのですから、私の物など何もなかったことになぜ気づけないのか不思議です。どんなに苦労しても組織の一員として働いている限り、「私の物」になるはずがないという事すらわからない社会感覚も不思議です。

 

エネオスのガソリンスタンドは、ぼったくるの話

 朝通勤の車に乗ってみるとパンクしていた。女性は、パンク修理の経験など全くないし車を中古車で買った時もスペアータイヤがあるのか工具はあるのかなんて全く気が付くこともなかったから、パンクしたままでも行ける距離にあるエネオスのガソリンスタンドへ行ってパンクしている旨を話した。ピットに入れられた車のタイヤを見れば釘が刺さっていた。そこまでは、普通です。ここで整備士は、釘が刺さったまま車に乗っていたことから破損がひどくタイヤの交換が必要ですと言うと同時に、片方だけが新品になるとタイヤのすりヘリが違いますからバランスがあまりよくありません。雨の日などには左右のブレにもなりますよ軽く脅かします。何を言っているのかと言うと、使い古したタイヤはすり減っており厳密にいえば直径は新品より小さくなっている。だから高速回転すればブレが生ずることになり危ないですと言うのです。それは当然のことで間違いではありません。科学的と言う説明がなくても分かります。しかし、レーシングドライバーならその違いが命取りになりますが、日常町中を乗っているときにどれほど影響がありますかと問われれば、ほとんど影響などありませんと専門家は言いう程度の事です。でも、整備士は、パンク修理が自分では出来ないからきた女性に重大な事の様に繰り返し説明をするのです。結果として2本のタイヤを取り換えた方がいいと言う決論を導き出したら、次は、今セール中で、4本購入するととても安くなっていますと言い出す。これが、自由な身なら、通勤で時間がないから急いでいるので「じゃ次にします」と言えますが、車は、ピットの中のリフトで持ち上がっていておろしてくれなければ発車も出来ません。まるで人質を取られて交渉しているようなものです。仕方がないからセールのタイヤで時間はどれぐらいと聞くと20分と言いいます。早く出たいので交渉も嫌だから、ではやってくれと言うと今度は、エネオスのDr.Drive(ドクタードライブ)が起動します。タイヤ交換などプロなら20分でできますにもかかわらず、頼んでもいない車の点検を行うのです。点検シートを持って来て、バッテリーの比重が下がっていますねと言い出すのです。そんなことは、法定点検でやっているし、今点検など求めていないと言うことなど全くお構いなしに、無料サービスですという恩着せがましい押し売りが始まるのです。もう、車は人質になって、時間がないという事で焦っているのに、次々と商品を売りつけてくるのです。「ガソリンスタンドなんて来なければよかった」と言う顔が見え見えなのに、厚顔を超えてピットから車を出そうともしません。実にあくどい商売だとしか言えません。結局女性は、パンク1つで、10万円弱のお金が掛かってしまうのです。そして、その点検の為に20分と言いながら、1時間もかけるのです。「すごいぞエネオス、ぼったくり商法のモデルケースだ」としか言いようがありません。知識の悪用は金になると言うのが詐欺商法です。一旦玄関に入ってしまえば出ていかないと言うのが押し売りです。修理したい物品を返さずに難癖をつけて値を上げていくのがぼったくり商法です。でも、こんな商法は、今時零細企業だってやりません。ちゃんと見積もりも出しますし、クーリングオフがある事も知っています。しかも使用したものであっても返品が出来ます。一定の契約に限り、一定期間、説明不要で無条件で申込みの撤回または契約を解除できる法制度がある事を知っていますからその場の押し売りでは後で面倒になるそんなことは今時しません。しかし、エネオスは違います。一度売りつけてしまったならもう使用していますから中古品で返品は受け付けないと言うだけでなく、高額の場合は、第三者確認などと言いながら10万円にもなる高額商品を押し売りしていながら、第三者確認などしもしないのです。あくどい手口の原点は、ドクタードライブと称して頼んでもいない点検をして点検シートメニュー表で押し売りをすることです。タイヤのパンク修理で来店しただけなのに、点検なんか依頼していないのに勝手にいじくりまわして、最後にはここが悪いあそこが悪いと言って、バッテリー迄取り換えるのです。急いでいる、車の知識がないをいいことにやりたい放題不要なものの押し売りするのです。やっと解放されて、車に乗ってから大変だったを聞いて、店に直接苦情を伝えると、店長は「ああそうですか」「本人の了解を得ていますから」「ちゃんと説明しました」を繰り返すだけです。第三者確認と言うのなら、部品を変える前に誰かに相談してくださいと言うべきです。キャッチセールス同様に逃げ出せない環境で押し売りするエネオスのガソリンスタンドは危険だなと言うしかありません。説明したことは、嘘ではありませんが、大げさに言う事で脅しており恐喝ですし、詐欺的行為とも言えます。何故なら、タイヤ1本パンク修理で訪れただけで、タイヤ4本取り換え、SDGsなどと言いながら正常なバッテリー迄廃棄させられるのですから安易にガソリンスタンドを頼ったら「ぼったくられますよ」としか言えない出来事でした。

 

鬼門があなただったとはの話

 建物を建てるときに鬼門があるという事は聞いたことがあると思います。今日でも気にしている人はいますが、建物はそう簡単に作れませんからあまり一般的とは言えません。現代では迷信と言われている事でも、その時代では最新の科学であることもあります。現代から見て過去の事は何とでも言えますが、それは後出しじゃんけんと同じです。ただ、その時最新の物もどんどん淘汰されていきますから、その後長く残っていくものにはそれなりの理由と支持する人たちがいるとも言えます。漢方薬などは、経験値の積み重ねで処方したものが、現在の分析器で後追い証明をしているものもありますから何でもかんでも迷信として片づけることは出来ません。ですから、どうしてそうなったのかと言う根拠探しをしてもう一度自分なりに検証し納得いけば信じればいいし、納得いかなければ無視すればいいと言うものでもあります。ただ現実には、隣人がいて友人がいて同僚がいるのですから、そんなことは個人の問題だ、では片付かない事も出てきます。個人が建物を建てるのであれば「お好きに」とどんな言い伝えだろうと信心だろうと反映させればいいのですが、公共の施設を建築しようとなるなら大きな違いとなってしまいます。それは、宗教によっても手段方法は変わりますし、風水だ、方位学だ、易だなどと言い出すと、公的な施設の機能に大きく影響が出てきます。ですから、公的なものを建てるときには、鬼門なんてご遠慮していただきたいのですが、信念のごとく主張されると窓の位置まで影響してしまいます。そこで鬼門と言う言葉の鬼とは何かと問うと、時代や状況で結構変わっているのです。有名なのが、平安時代源頼光の鬼退治です。この鬼退治前までは、鬼の姿かたちは見えない神と同じで自然現象としての風神や雷神、竜などにたとえられるものでした。そこへ仏教が入ってくると、地獄の鬼などが形として現れてきます。この辺から見えない鬼への畏怖や鬼には人間がかなわないと言う怖さが取り外されて、神像に踏みつけられる鬼の形が出来てくるとなんとなく勝てそうだと言う人間が出てきて、それを権力が利用したのが鬼退治です。ここでは、敵対した勢力が鬼になってしまいました。朝廷に敵対した勢力を鬼として「大江山の夷賊追討の勅命」が出て「酒呑童子」を騙し討ちで退治してから、鬼は怖いものではなく退治するものとなったという事です。その後、鬼と悪霊などが合体したり、離れたり時代の都合のいいように解釈されてきましたが、最終的には桃太郎の話だって江戸時代には、鬼は退治するものへと変わっていくのです。鬼門そのものは中国から来たものですが、鬼の姿は時代で大きく変わりますから、鬼門の鬼は、退治の出来ない不吉・不幸をもたらす鬼になっていくのです。ところが、日本列島の地形は北東から南西に傾いています。山も川も傾いていて水利を考えて川沿いに道や家を作れば、開口部は北東か南西、つまり鬼門や裏鬼門の方角を向くようになりかねないのです。そこが中国の事情としての鬼門と大きく違うところです。でも鬼門と言う考え方は好きだったのか今度は日本に合うように解釈を変えてしまうのです。日本のように、自然崇拝と多神教的宗教観の中では、八百万のかみが存在し、神は偉い人ばかりではなく、貧乏神や疫病神などまでいます。下手すると、近所の霊能者や霊媒師までが神の末席にいることにまでなってしまいます。結局、鬼門は「祟り神」の範疇に置かれていくのです。祟り神は、脅しですから祟られないようにするにはどうしたらいいかと言う対策をすればいいという事になります。その一つが鬼門には入り口や窓を作るなという事なのですが、日本的発想では、絶対ダメと言いながら実態に合わせて裏道を必ず作くります。それは、占いで凶が出たなら、それでおしまいではなく凶を吉にするにはどうしたらいいかが示されという方法です。易でも禁忌を守らせることよりも注意事項とすることが多くみられます。つまり、結果が出たらそれで終わりではなく、だから対策をという事なのです。ですから鬼門では、鬼門に窓や入り口を作らざるを得ないなら、鬼門除けをすればいいとなるのです。不吉や不幸をもたらす鬼は何故か、ヒイラギのとげが嫌いで、干支の申も嫌いだそうで入り口や窓に置くと入ってこないという事です。キリスト教では悪魔にニンニクや十字架なんか効くと言っているのと同じレベルの話です。日本では祟り神封じの万能薬に塩と言うのもあって盛り塩は今でもいろいろなところで見られます。ところで、出会った方は、機能よりも鬼門重視の方で頑として譲らず、公的施設なのに、鬼門だと言って必要な窓も作らず、入り口も変えてしまいました。仕方がないから、窓だけでも開口しますと言ったら、呪いの言葉が返ってきました。何とか突破しようと建築現場の監督や設計士に頼み込んで鬼門に窓を開けようと、責任は全て持つからとお願いしましたが、加藤清正の虎退治を自慢する肥後熊本の腰抜けは鬼退治は出来ませんでした。いまだに作れない鬼門の窓を見つめているうちに、思い起こすと、鬼門に窓も戸も絶対に作らないとしていた人が次々と難題に合い離席されることになったのは、あなたが鬼門だったのかと思わざるを得ないことに気づいてしまいました。福祉なんて鬼門を開口して鬼とも仲良くならなかったなら出来ない仕事だったなと思い出し、今だに開けられない鬼門の壁を思いながら、あなたが鬼門だったとは思うのでした。

GoodとBetterとBestはテレビなど放送の使い分けの話

  国が大丈夫と大見得を切っているときや専門家と紹介された人がテレビで大丈夫と言っているときは危険です。裏読みという言葉があるように政治に対しては、日常的に誰でもが裏があって騙されて居るのだろうと気がついていますが、調査するだけの力もないので諦めています。それに、責任回避しかしない国や専門家が大丈夫と言う時に限ってどこかの利権が絡んだ裏があるだろうとも確信しています。時々コメンテーィターが国民はそんなに馬鹿じゃないと言っているのが真実だと思うのです。よく、パニック映画のストーリーなんかでは事実や真実を知った主人公達が活躍するのですがパニックの原因の本当の発表は、国民が疑心暗鬼になって何をするか分からないから、暴動が起きる危険があるからと伏せられます。しかもそんな時は、報道も自主規制なんてことを始めて事実を放送しませんから、報道なんて素直に信用できないと言うのもみんなが知っていることです。それをトランプ氏は逆手にとって大手のテレビはフェイクニュースだと大宣伝をして非難されるどころか賛同されてしまいました。マスコミは報道の正しさなどと言っていますが、案外嘘つきで煽っていることも多くあります。さらに、今日の情報が早く大量に出回る時代では、事実も虚実も混在していて実際誰も確認することが出来なくなりました。コロナウイルスが始まったころ、感染症の専門家はガーゼマスクなど鼻で笑いN95(NIOSH米国労働安全衛生研究所が定めた規格に合格したマスク)でないと無理だと言いました。それは、ウイルスというものを知っている人間としては普通の反応なのでしょうが、マスクが品不足になるに従い何も言わなくなり、ガーゼマスクが配られる頃には、だんまりです。アベノマスクなど効果もないから、税金で買うべきものではないと専門家は主張しないばかりか、手作りマスクでも容認する様な話までします。その結果、今や手作りマスクがどこにでもある世相を迎え、ウレタンマスクが効果は劣るとされても、マスクさえしていれば効果など誰も非難せず、マスクの形さえしていれば、防御効果はないようなものまで出てきたのに専門家は否定すらしません。その言い訳は、GoodとBetterとBestがあるとなるからです。形が整わない、鼻マスクはマスク警察に言いつけられますが、マスクの性能ではなくマスクの掛け方で文句を言われているのです。世界に冠たるコンピューター富岳で息を吐いた時の微粒子の動きを発表したりしていますが、こんなことは科学的なようで全く科学とはかけ離れた実験です。単純にマスクの効果が高ければ、息苦しくて運動などできるわけがありません。マスクは呼吸器前のフィルターですから、精密であるほど空気の流れは難しくなり、使用時間が長いほど詰ってくるし汚染された状態になります。ですから、呼吸が楽で、使い捨てでないマスクなど効果が薄いと警報を鳴らすべきなのです。しかし、毎日テレビでコロナの話をしながら、結局専門家として防御の対応を主張しないばかりか、経済のこともありますしと八方美人のような態度ばかりです。自分たちの役割を考えたとき本当は、国民がパニックを起こそうと経済がどうであろうと正確に言うべきですし、そんな放送をすべきです。知っているフリして知識をさんざんひけらかしているのに、感染が収まらないのは、責任ある発言をしない専門家にも責任の一端はあります。ウイルスを呼び出し変質させたのは、人間です。中国の野生動物を食べる習慣には、家畜ではなく野生の持つパワーを得られると言う考え方があるからです。人の作った野菜より野生の山菜の方が成分が凝縮していると言う漢方薬に通ずる考え方で、中国人は野生種を食することで免疫効果が上がると信じ求めています。その結果が新型コロナウイルスでありサーズだったとしても、気にしていません。同様に世界の開発によって森林の奥に至り深い土壌にいるウイルスが人間と接することになる可能性があると言うのに開発は止まる事はありません。悪役となったウイルスも、安心な宿主を求めて彷徨っているだけで人間を攻撃するために出てきたわけではありません。だから、ウイルスは簡単に変異します。コロナは天災ですか、人災ですかと言ったら、明らかな人災と言えます。現代の専門家・プロと言われる人々が長いものに巻かれるように、GoodとBetterとBestな対応だと言い訳していることが証拠です。

廃仏毀釈が出来る宗教観の話

 明治維新を誉める人は多くいますが、その時見せた日本人の狡さを語る人はあまりいません。中国・朝鮮以外の外国と正面切って対峙したことのない日本は、明治維新と言う表現で都合のいい事ばかりを宣伝して、その狡さを覆い隠したところがあります。特に宗教、信心と言う分野では、自己の利益のために、都合よく捨て去ることも平気でしました。欧米に合わせて作法や礼儀も大幅に切り捨てるのですが、そこにも理由も信念もありません。ただ単に欧米と付き合うためには、なりふり構わず物まねであってもことごとく洋風にすることを優先したのです。通常で考えるなら心の問題でもある宗教では、庶民までもが巻き込むことはなかなか困難なのに、なぜかそんな洋風に応じて廃仏毀釈という事件が起きるのです。絶対神キリスト教は、国家統治にはいちいち政教分離を検討しなくても有効で、イスラム教に至っては祭政一致で不便があっても当然が前提です。宗教としての一神教は、統治者は一人と重ね合わせることのできる思考へと洗脳もできます。ところが、日本的な神仏習合多神教的感覚では、複数の統治者が可能で、天皇と将軍が二人いてもいいし、南北朝のように天皇が二人いてもいいが成り立ってしまいます。そこで1人の天皇のみが統治者とするには、宗教的にも、一つの、神様だけがいいと洋風に伴い考えたのでしょうが、自然崇拝の日本には、神は沢山いすぎました。偉い人たちが論議しても天照大神絶対神にはなかなか成れないのです。突き詰めると天皇家氏神程度になってしまう事もあるぐらいです。明治維新で、王政復古を叫んだ国学者は、日本古来の宗教は神道であって、仏教は外来の宗教であると言っていますから利用したいのですが、排外的・排他的な民族主義者でもあるので、洋風にも反対することになり兼ねません。そこで思いついたのが、過去の役職、「神祇官」です。神祇官を復活させて神道一つにまとめてもらい絶対神としての天照大神をでっちあげようとしたのですが、その狡さが明治元年にいきなり「神仏分離令」がでて、神道を仏教伝来以前の姿にもどすと言う事よりも、仏教破壊テロの合図としてしまうのです。まさか、そんな命令程度で各地で廃仏毀釈が行われる騒動になるとは明治政府は想像もしていなかったと思うのです。当時、仏教は堕落していて国民にとって本当は宗教と言うより搾取勢力だと言う事が武士には理解されていなかったようなのです。江戸時代にはキリスト教の排除のために権力が仏教を悪用しました。仏教は、宗教である前に権力の手先に成り下がりました。権力のやり方は、寺請制度と呼ばれ、寺の周辺の住民はその寺の信者、檀家として登録することを義務付け、その管理簿として、宗門人別帳などをつくり、寺は檀家登録によって、キリスト教徒ではないということを証明する代わりに、冠婚葬祭の全てを寺が取り仕切るという独占企業になりました。そして、寺請制度の会員である檀家に、葬式や法事など様々な場面でお布施という形で金銭要求をすると言う事をしたのです。結果「坊主にくけりゃ袈裟まで憎し」と江戸時代では、幕府の庇護の下、堕落し暴利をむさぼる仏教を信仰の対象と言うよりは、搾取する敵として浸透していったのです。「坊主丸儲け」「地獄の沙汰も金次第」「布施の分だけ経を読む」「経も読まずに布施を取る」とまで揶揄し「くそ坊主」とまで言うほどに宗教者としての威厳も尊敬も失われていたのです。ですから、廃仏毀釈は恨みつらみで行われたという面もあるのです。廃仏毀釈は後々の汚点と言われるのですが、明治政府は神道を国教とし欧米のように一神教の真似をして、祭政一致という方針を取りたかっただけなのです。しかし、庶民に恨まれていた仏教は、あれよあれよという間に、廃仏毀釈という動きに飲み込まれていくのです。明治政府は神仏分離令神道と仏教を分離すると言う宗教改革を試みるのですが、思想が希薄だったために廃仏毀釈などと言う文化破壊だけになってしまうのです。とにかく権力の庇護は、仏教を堕落させ、基本となる庶民に嫌われていたという事です。同じ事が、権力に利用される神道も宗教としての精神を失い、戦後の国民の宗教離れに続いていくとも言えます。この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたとも言われています。それでも、天皇を中心とする国造りをおこなって西洋諸国に追いつこうとして、寺の領地も取り上げたりもしましたから、仏教は経済面から没落もするのです。1868年を明治元年とすると3年後の1871年ごろまで廃仏毀釈は続きました。ここで言えるのは、権力に利用された宗教は必ず腐敗するという事だと思います。国家神道もその後腐敗するのですが、日本人は氏神を含めた小さな宗教感覚を生活に組み込んでいますから、大きな統一した宗教を権力に押し付けられると宗教に危険を感じてしまうのかもしれません。明治維新後、今度は天皇は神で唯一絶対でしたが、その間にも廃仏毀釈を乗り越えた仏教ばかりか、八百万の神たちは生き残り、無宗教と言い放つ現代の日本でも延々と生き続けています。江戸や明示を礼讃することは多くみられますが、日本の宗教と言う面からすると、暗黒の時代とも言えます。宗教が権力と結びつくと結果として庶民の生活は脅かされるという事はこんなことからも分かると思うのです。昨日まで信じてきた寺を壊しに行った罰当たりな庶民が廃仏毀釈をやったのではなく、信心を失わさせた寺が招いた事件だったと言えると思うのです。

上座(かみざ)のマナーで飯を食らう人の話

 日本では、無礼講という飲み会でさえ、上座と下座が問われます。とにかく、偉い人は少しでも高い席に座ると言うのが常識で、儀式での席次は、イコール権力の段階を示すものとなっています。これは、中国の教えでもあり、ランク付けが気になる日本人の社会構造ランク付けの原点でもあります。日本では、厩戸王が制定したと言われる冠位十二階などから始まって順位はとても重要になりました。時代劇では、殿様が家来より一段上の席に着くのも、ひな祭りが段飾りなのも、そのせいです。元々、上座は、寝殿造りなどの建築物の、床の間や神棚があった部屋に座るときの作法から始まったとされています。ですから、一つの礼節としては伝統であり生活文化なのですが、住居がこれだけ変化し社会が大きく変わったのに、尺貫法よりも古い物差しを今でも持ち歩いて近代の乗り物にまで適合させようとするマナー専門家がいるから大変です。確かに、自分より偉い人だと思う人には、お茶を出すだけでも出入りする入口よりは、部屋の奥にお通しした方が、自然な心配りとして十分理解できます。しかし、床の間もない洋室や、現代の会議室、タクシーからエレベーターにまでマナーとして応用しようと言うのは、飯の種として文化を悪用して騙している人がいるとしか思えません。要するに、原点は、来客を初めとして偉い人への配慮という事ですから、礼を尽くすという事が大事で形ではありません。にもかかわらず、社会人のマナーですと言い出す人がいると、 まるでそれが常識かの如く襲い掛かります。図解入りでエレベーターの上座と下座を明示する本までありますが、他の客が乗っている場合はどうするのから、エスカレーターはどうするまで全く非常識なことまでがマナーになってしまいます。通常の会議室なら、トップが端に座り左右に部下を並べますが、来客の場合は、長い机に片側3名以上で座る場合は、中央の席が上座となるケースもありますなどと言い出します。「下座」「上座」の原点は、失礼にならない事ですし、気配りの範囲で、日本家屋文化の独特な考え方で世界的に見ても珍しいとされています。洋風住宅の中では、床の間を作らない事の方が多いし、上役や偉い人が個人宅へ訪問することも減少しています。床の間がある家を持っていて偉い人が来ることもあるような社会的地位にある方たち同士の、個人的な訪問での受け入れのマナーならいいのですが、下々の者までが、生活に適合させようと無理やり解釈することが間違っていると思うのです。生活用品などはどんどん合理的に変化しているのですから、精神風土も合理的な変化が必要です。成育経験の中で経験してもいないような事は、自然と消滅しても誰も困らないのですが、飯のタネにしたい人があたかも重要なことのようにいう事が問題です。例えば、包む・運搬するに便利だった、風呂敷は、すでに生活の中から失われ、その包み方や縛り方は知らない人の方が多くなっています。同様に、生活の中にあった様々な結びと言う文化もなくなり、ちょうちょう結びが出来なくても恥ではありません。第一、着物を着ていることもなくなり、帯を結ぶことも出来なくなっています。ましてや袴なんて履いたこともない日本人が大多数です。下駄を履いてまちを歩くとタイル張りの床など今日の建築材では滑りやすく歩くのも大変です。だから、席次は、ビジネスマナーと偉そうに語る知ったかぶりこそ、無作法な人と思うのです。そんな人たちは、作法を知っていると言うより、作法を飯の種にしているだけの人と思うのです。元来日本の作法は神への畏敬の念から始まっていて自己の利益のために形を整えるという事ではなく、尊敬できるからこそ礼を尽くそうと言うものだったはずです。ですから、マナーは形ではなく生活の中で常に変化し合理化されていくもので儀礼とは違います。逆に儀礼は形が大事で合理性は追及されません。儀礼では上座どころか順位制を含めたとっても面倒くさく細部に亘る仕切りが重要です。生活の場面では合理性が追及されて変化に合わせたマナーこそ必要で、上座など気にするより話の内容に重点を置くべきです。

 

宝塚音楽学校、形から入る形が歪まぬのを願う話

「先輩が利用する阪急電車への一礼、先輩の前での決まった表情、先輩への過度な提出物―。タカラジェンヌを養成する宝塚音楽学校兵庫県宝塚市)が、生徒間に受け継がれてきた不文律をなくした。上級生が下級生を一対一で指導する『伝統』もあったが、下級生に負担が生じていたとして廃止に踏み切った。」という記事が新聞に載りました。一見なんだこれ的な内容で、宝塚に興味のない人からすると何が起きているのかと思う記事です。宝塚歌劇団は有名で、誰もが知っていて、その歌劇団に入るには相当の競争率を勝ち抜いてこの音楽学校に入学しなければならないと言われています。ようやく入った学校でこうしなければ退学だと言われればもう何でもするしかない環境で洗脳されていますから内部告発が原因とも思えません。それに、まず形から入って心を育成するという日本的な育成方法もあり、伝統としての教育方法が一概に悪いとも言えません。職人芸のように、見て覚えろ、技を盗むという事も芸能ではありますから、寮生活で生活の方法などを先輩が後輩に一対一で教えるというシステムの方が、まだ親切だとも言えます。調べると、宝塚音楽学校は2年制で各学年に40人在籍するという小さな集団環境で、ほとんどの人が寮生活者という事ですから、対人関係は相当濃厚で制度の長所と短所が両極端に表れると言うのも当然で、先輩が教え後輩が従うという規律なら、感情的不適合があれば、一対一の上下関係は、ボスと子分並みになってしまう危惧は確かにあります。「学校側は上級生の指導に行き過ぎたところがあったとして、一対一の指導も昨年春に廃止した」という事ですが、伝統としていた柱となる教育方法は、外から批判もされても、当人たちには誇りである場合もあります。他と違うという事とこれがあるから自分たちがあると言う感覚の持ち主たちには、逆に自分たちが否定されていると受け止めかねない対応とも言えます。案外外部からの批判で変更されると、否定された伝統が、変形して陰で陰湿に残っていくこともあります。何故なら、それが宝塚らしさを積み上げていく方法であり、その方法だから出来上がっていた組織だとする自負や自尊心を持つ人からするなら宝塚でなくなると言う危機感と、壊されてしまうと言う被害者意識によってより強固な伝統を守ろうという意識が醸成されてしまうからです。そして、形は同じでも中身が違う組織になってしまうと言う不安と大事なことが継承されなくなると言う危機感にもなります。学校は、「舞台人を目指す同校の生徒としての姿勢や規律を、先輩が後輩へ教え伝えてきたが、近年、部活動などでの行きすぎた指導や、ハラスメント(嫌がらせ)に対する社会の目は厳しくなっている。」「子どもたちの気質も変わっており、生徒の自主性を尊重しつつ、時代にあわせて改善を進めている」と建前としての説明をしていますが、寮生活も、宝塚歌劇団への道もなくなったわけではありません。ですから、その伝統で育った集団に後から入っていかなければならない、今の学生にとってこの伝統を知らないという事は、その伝統で育った宝塚歌劇団に入っていくことは恐怖でしかないと思うのです。先輩と後輩の関係など教員が教えることなど出来ません。形から入っていく組織では、本質を理解させることはとても難しくて育成方法もその組織ならではという事も珍しくはありません。そ結果として時代遅れと言われることもあります。しかし、その組織に参加する人間の時代背景に応じた成育歴が組織の伝統になじまないという事はあまり関係ないと思うのです。違う環境育ちだからそれが新鮮に感じ、本質へと向かわせることが出来るという事も言えます。洗脳という言葉があって宗教などでも悪い意味に使われますが、社会の隅々の組織は、洗脳によって成り立っています。民主主義だって一種の洗脳であって、未来により進んだ社会になれば否定される事だってあります。ですから、その組織を第三者が見て異様であっても、そこに参加する者が、適合できているなら一概におかしいとは言えません。例えば、高野山奥之院の御廟には空海が今もなおそこに生き続けていると信じられ、1日2回食事を届けています。1200年もの間。誰が考えても、1200歳になる人間はいませんし、ご飯を食べるわけなどないのに大人が真面目な顔で粛々と食事を運ぶことはおかしなことです。しかし、信者にとっては大事な事であり普通のことです。それだけでなく、自慢であるという事でもあります。宝塚音楽学校が、何を変えたかったのか、この記事ではわかりませんが、時代に合わせると言っても、変えてはならない形を変えてしまうと歪んだ形のままに保存されそれが変質してしまう事もあります。その時代の世相に合わせるのもその一つの方法ですが、間違えると退廃的になってしまうこともあります。時代が変わっても変えないことで、飛躍できる事業を潰してしまう事もあります。宝塚音楽学校のことなど全く知らなかった素人の知ったかぶりとはなりましたが、組織を変質なく世代交代していくことは、本当に難しいことだと思うのです。