知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

上座(かみざ)のマナーで飯を食らう人の話

 日本では、無礼講という飲み会でさえ、上座と下座が問われます。とにかく、偉い人は少しでも高い席に座ると言うのが常識で、儀式での席次は、イコール権力の段階を示すものとなっています。これは、中国の教えでもあり、ランク付けが気になる日本人の社会構造ランク付けの原点でもあります。日本では、厩戸王が制定したと言われる冠位十二階などから始まって順位はとても重要になりました。時代劇では、殿様が家来より一段上の席に着くのも、ひな祭りが段飾りなのも、そのせいです。元々、上座は、寝殿造りなどの建築物の、床の間や神棚があった部屋に座るときの作法から始まったとされています。ですから、一つの礼節としては伝統であり生活文化なのですが、住居がこれだけ変化し社会が大きく変わったのに、尺貫法よりも古い物差しを今でも持ち歩いて近代の乗り物にまで適合させようとするマナー専門家がいるから大変です。確かに、自分より偉い人だと思う人には、お茶を出すだけでも出入りする入口よりは、部屋の奥にお通しした方が、自然な心配りとして十分理解できます。しかし、床の間もない洋室や、現代の会議室、タクシーからエレベーターにまでマナーとして応用しようと言うのは、飯の種として文化を悪用して騙している人がいるとしか思えません。要するに、原点は、来客を初めとして偉い人への配慮という事ですから、礼を尽くすという事が大事で形ではありません。にもかかわらず、社会人のマナーですと言い出す人がいると、 まるでそれが常識かの如く襲い掛かります。図解入りでエレベーターの上座と下座を明示する本までありますが、他の客が乗っている場合はどうするのから、エスカレーターはどうするまで全く非常識なことまでがマナーになってしまいます。通常の会議室なら、トップが端に座り左右に部下を並べますが、来客の場合は、長い机に片側3名以上で座る場合は、中央の席が上座となるケースもありますなどと言い出します。「下座」「上座」の原点は、失礼にならない事ですし、気配りの範囲で、日本家屋文化の独特な考え方で世界的に見ても珍しいとされています。洋風住宅の中では、床の間を作らない事の方が多いし、上役や偉い人が個人宅へ訪問することも減少しています。床の間がある家を持っていて偉い人が来ることもあるような社会的地位にある方たち同士の、個人的な訪問での受け入れのマナーならいいのですが、下々の者までが、生活に適合させようと無理やり解釈することが間違っていると思うのです。生活用品などはどんどん合理的に変化しているのですから、精神風土も合理的な変化が必要です。成育経験の中で経験してもいないような事は、自然と消滅しても誰も困らないのですが、飯のタネにしたい人があたかも重要なことのようにいう事が問題です。例えば、包む・運搬するに便利だった、風呂敷は、すでに生活の中から失われ、その包み方や縛り方は知らない人の方が多くなっています。同様に、生活の中にあった様々な結びと言う文化もなくなり、ちょうちょう結びが出来なくても恥ではありません。第一、着物を着ていることもなくなり、帯を結ぶことも出来なくなっています。ましてや袴なんて履いたこともない日本人が大多数です。下駄を履いてまちを歩くとタイル張りの床など今日の建築材では滑りやすく歩くのも大変です。だから、席次は、ビジネスマナーと偉そうに語る知ったかぶりこそ、無作法な人と思うのです。そんな人たちは、作法を知っていると言うより、作法を飯の種にしているだけの人と思うのです。元来日本の作法は神への畏敬の念から始まっていて自己の利益のために形を整えるという事ではなく、尊敬できるからこそ礼を尽くそうと言うものだったはずです。ですから、マナーは形ではなく生活の中で常に変化し合理化されていくもので儀礼とは違います。逆に儀礼は形が大事で合理性は追及されません。儀礼では上座どころか順位制を含めたとっても面倒くさく細部に亘る仕切りが重要です。生活の場面では合理性が追及されて変化に合わせたマナーこそ必要で、上座など気にするより話の内容に重点を置くべきです。