知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

鬼門があなただったとはの話

 建物を建てるときに鬼門があるという事は聞いたことがあると思います。今日でも気にしている人はいますが、建物はそう簡単に作れませんからあまり一般的とは言えません。現代では迷信と言われている事でも、その時代では最新の科学であることもあります。現代から見て過去の事は何とでも言えますが、それは後出しじゃんけんと同じです。ただ、その時最新の物もどんどん淘汰されていきますから、その後長く残っていくものにはそれなりの理由と支持する人たちがいるとも言えます。漢方薬などは、経験値の積み重ねで処方したものが、現在の分析器で後追い証明をしているものもありますから何でもかんでも迷信として片づけることは出来ません。ですから、どうしてそうなったのかと言う根拠探しをしてもう一度自分なりに検証し納得いけば信じればいいし、納得いかなければ無視すればいいと言うものでもあります。ただ現実には、隣人がいて友人がいて同僚がいるのですから、そんなことは個人の問題だ、では片付かない事も出てきます。個人が建物を建てるのであれば「お好きに」とどんな言い伝えだろうと信心だろうと反映させればいいのですが、公共の施設を建築しようとなるなら大きな違いとなってしまいます。それは、宗教によっても手段方法は変わりますし、風水だ、方位学だ、易だなどと言い出すと、公的な施設の機能に大きく影響が出てきます。ですから、公的なものを建てるときには、鬼門なんてご遠慮していただきたいのですが、信念のごとく主張されると窓の位置まで影響してしまいます。そこで鬼門と言う言葉の鬼とは何かと問うと、時代や状況で結構変わっているのです。有名なのが、平安時代源頼光の鬼退治です。この鬼退治前までは、鬼の姿かたちは見えない神と同じで自然現象としての風神や雷神、竜などにたとえられるものでした。そこへ仏教が入ってくると、地獄の鬼などが形として現れてきます。この辺から見えない鬼への畏怖や鬼には人間がかなわないと言う怖さが取り外されて、神像に踏みつけられる鬼の形が出来てくるとなんとなく勝てそうだと言う人間が出てきて、それを権力が利用したのが鬼退治です。ここでは、敵対した勢力が鬼になってしまいました。朝廷に敵対した勢力を鬼として「大江山の夷賊追討の勅命」が出て「酒呑童子」を騙し討ちで退治してから、鬼は怖いものではなく退治するものとなったという事です。その後、鬼と悪霊などが合体したり、離れたり時代の都合のいいように解釈されてきましたが、最終的には桃太郎の話だって江戸時代には、鬼は退治するものへと変わっていくのです。鬼門そのものは中国から来たものですが、鬼の姿は時代で大きく変わりますから、鬼門の鬼は、退治の出来ない不吉・不幸をもたらす鬼になっていくのです。ところが、日本列島の地形は北東から南西に傾いています。山も川も傾いていて水利を考えて川沿いに道や家を作れば、開口部は北東か南西、つまり鬼門や裏鬼門の方角を向くようになりかねないのです。そこが中国の事情としての鬼門と大きく違うところです。でも鬼門と言う考え方は好きだったのか今度は日本に合うように解釈を変えてしまうのです。日本のように、自然崇拝と多神教的宗教観の中では、八百万のかみが存在し、神は偉い人ばかりではなく、貧乏神や疫病神などまでいます。下手すると、近所の霊能者や霊媒師までが神の末席にいることにまでなってしまいます。結局、鬼門は「祟り神」の範疇に置かれていくのです。祟り神は、脅しですから祟られないようにするにはどうしたらいいかと言う対策をすればいいという事になります。その一つが鬼門には入り口や窓を作るなという事なのですが、日本的発想では、絶対ダメと言いながら実態に合わせて裏道を必ず作くります。それは、占いで凶が出たなら、それでおしまいではなく凶を吉にするにはどうしたらいいかが示されという方法です。易でも禁忌を守らせることよりも注意事項とすることが多くみられます。つまり、結果が出たらそれで終わりではなく、だから対策をという事なのです。ですから鬼門では、鬼門に窓や入り口を作らざるを得ないなら、鬼門除けをすればいいとなるのです。不吉や不幸をもたらす鬼は何故か、ヒイラギのとげが嫌いで、干支の申も嫌いだそうで入り口や窓に置くと入ってこないという事です。キリスト教では悪魔にニンニクや十字架なんか効くと言っているのと同じレベルの話です。日本では祟り神封じの万能薬に塩と言うのもあって盛り塩は今でもいろいろなところで見られます。ところで、出会った方は、機能よりも鬼門重視の方で頑として譲らず、公的施設なのに、鬼門だと言って必要な窓も作らず、入り口も変えてしまいました。仕方がないから、窓だけでも開口しますと言ったら、呪いの言葉が返ってきました。何とか突破しようと建築現場の監督や設計士に頼み込んで鬼門に窓を開けようと、責任は全て持つからとお願いしましたが、加藤清正の虎退治を自慢する肥後熊本の腰抜けは鬼退治は出来ませんでした。いまだに作れない鬼門の窓を見つめているうちに、思い起こすと、鬼門に窓も戸も絶対に作らないとしていた人が次々と難題に合い離席されることになったのは、あなたが鬼門だったのかと思わざるを得ないことに気づいてしまいました。福祉なんて鬼門を開口して鬼とも仲良くならなかったなら出来ない仕事だったなと思い出し、今だに開けられない鬼門の壁を思いながら、あなたが鬼門だったとは思うのでした。