知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

悪役は、なぜ笑わされるのかの話

   表現の方法なのですが、悪役が逆転負けする前に、主役の前で勝ち誇ったように、笑うと言う演出が多くされます。この誇張された演出は、それでいいのですが、クールな悪役が高笑いするというパターンが始まると、いよいよ最終場面に入ってきたという事が明確すぎる合図みたいになっているのは演出としてどうなのかと思うのです。諺として「最後に笑う者が最もよく笑う」というのがイギリスにあるそうなので、演劇的には、主役が最後に笑うための前座として暗示的に使うのもパターとしてはいいのですがネタバレ的な進行になるのはどうかと思うのです。諺では、「早まって喜ぶな」とか「最後まで油断してはいけない」という教訓もあるようですから、経過ではなく結果を確実にしろという意味では日常で使われる言葉と言えます。でも、悪役がここで笑ったことを教訓とするなら演出としては失敗だと思うのです。教訓としては、日本語にも「最後に笑うのは良い笑いをする」ということわざがありますがあまり使われてはいません。むしろ悪役が最後に笑ってからやられてしまうというイメージの方が定着していると思うのです。映画などでは、悪役が画面に登場しないときでも悪役の笑いを流すことで主役を鼓舞する為に使用されたりしています。となると、悪役の笑いは、主役を奮い立たせる切っ掛けとなっているという事ですから、人は笑われることに反発を感じる、あるいは惨めさや悔しさを感じるという事なら、悪役の笑いは嘲笑という事になります。でも、嘲笑の笑いでどれほどの鼓舞効果があるかと言うと、ドラマを見ている観客には悔しいよねとのだめ押しにはなるでしょうがその嘲笑で悪役が主役への攻撃効果を認識できるかとなると全くなく、笑わされるのは観客の為ではないかと思われるのです。例えば、いじめのシーンでいじめる側がみんなで笑っているという演出が多くあります。でも、この演出は見ている人には理不尽だという事と悪い奴らだという効果がありますが、では悪い奴らには勝ち誇ったように、蔑んだように笑ったとして何の意味があるでしょうか。いじめる相手とは、既に力関係はついているのですから勝ち誇る必要もないし今さら蔑んだとしても対していじめ効果はないと思うのです。つまり、悪役が笑わされるのは、悪役と主役を際立たせるのが目的としたとしたのなら、この演出はもう終わりだなと思うのです。確かに最後に笑うものが主役でよかったねと言う演出は諺の教訓としてはハマっていますが、厚みや重みのある感じよりも分かりやすすぎるように思うのです。悪役が最後のシーンで自信たっぷりに主役に向けてあざ笑いだすと、最後の決戦がこの後始まって主役が勝利するという、分かりやすすぎて逆に効果は軽くなると思うのです。ところが、この演出は、漫画やインターネット、ゲーム等でも結構使われています。悪役が決戦前に自信過剰を思わせる嘲笑を主役にする勝利の笑いがなぜ好まれるのかと言うと、自信過剰は油断大敵だという教訓に持っていきたいからだと思うのです。悪役を悪役たるべき人物像にしなければ、憎たらしくしなければ、主役が成敗する根拠が希薄になってしまうという事だと思うのです。どんな決戦であったつて緊張して笑ってられる余裕なんてないというのが普通で、ライバルが側にいるなんてことは現実にはそうありません。悪役が不自然に笑わされるのは演出効果ではあるのですが悪役が軽くなりすぎてしまいます。笑う悪役よりクールな悪役の方が重層感を作りやすいと思うのです。悪役の作りが主役を作っていきますから最後に笑うものの為に不自然な笑いが質を下げることになると思うのです。