知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

操られてきた昔話は娯楽の範囲での話

 案外、昔話を教訓か道徳の様に使いたがる人がいますが、昔話は、話す人の都合のいいように操られながら残ってきた話で、そこから教訓を導き出そうとすると、騙されてしまうと思うのです。例えば、桃太郎、悪人は鬼で、正義は桃太郎なのだから突然に襲撃して財産没収をしても良いと言うことになります。自分たちから鬼だと言う事などないのは、戦争中日本が、鬼畜米英と言った事例からも分かるように、勝手に勝者が言い出すことです。この時も鬼からしたなら突然襲ってきた強盗と認識していたかも知れません。武力の時代は、力の強い者が弱い物を服従させると言うことは通常の考え方ですが、それなりの大義名分が必要でした。つまりその地方の支配者であっても税金が高くて取り立てが厳しければ鬼なのです。鬼のような取り立てに正義の味方気取りで攻め込んで、罰として、領地没収、資産没収しただけだったのかも知れません。神話では、政権の正当性を語ります。伝説では英雄を語ります。昔話や伝承、説話では、「罰」や「ばち」「禁止」を時代背景を背負って語ります。ですから、舌切り雀でも、おむすびころりんでも、同じ老夫婦で隣同士なのに、良い夫婦と悪い夫婦が出てきて、悪い夫婦はばちが当たるのです。もし、本当に良い夫婦なら、隣の夫婦にも分け与えていれば悪い夫婦が欲しがることも無かったのかも知れません。昔話では、主人公が独り占めして幸せになる話は多いのです。夜に口笛を吹くと泥棒が来るのたぐいの昔話は、禁止のための不安を煽る話です。このため内容は時代や地域で都合良く変えられてもいます。

 子どもに本をと思ったとき、「為になる物」と誰もが思い、昔話なんて無難じゃ無いかと思うのですが、案外危ないのです。テレビのアニメーションは娯楽のつもり程度でいるのに本となった途端に教養となり安全な昔話でと思うと危険なのです。昔話は、案外考え方が一方的で、差別的で、懲罰的で、意地悪で、独りよがりなところが一杯出てきます。現代の子どもは、以外と本質を見抜いてしまうことが鋭くて、人間とは何かを考えるなら良い教材と言う事もいえますが、それなら中・高生でないと難しすぎます。花咲爺だって、犬と一緒に意地悪じいさんにも宝が当たるようにしてあげれば犬も殺されなかったかも知れませんと考えていくと勧善懲悪の話として悪い爺と言いながら長年お隣で暮らしてきた隣人なのに嫉妬させうらやましがらせて、最後には罰が当たるまで追い込んだという見方だって出来るのです。昔話から、教訓を探すのでは無く、暇つぶしの娯楽話だ程度で楽しむほうがいいと思うのです。