知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

山に行くのは罰当たりの話

       日本の古来の神は山を住みかとするというか神が宿るのは山であり海であり空であったのです。ですから山は「信仰」の対象というよりも生活の拠り所として崇められてきました。「役行者」が行った山岳信仰というものが始まったとしても、ご神体である山で修業をすることは許される行為であり、神のもとで修行することで神との共食を求めるものとして尊敬もされてきました。仏教的にも、修行は基本ですから山の中で修行することは認められており、自然に溶け込むことで自然の摂理を会得していくものとして「山籠もり」は許されるものでした。有史以来日本では「山に遊びに行く」という事はご法度で霊的な山には女性は足を踏み入れることさえ禁じられていました。それが明治になって外国人が娯楽としての登山を持ち込み、山の神秘性よりも景色を眺める一つの娯楽へと変貌しました。次から次へと初登頂だの最高峰だのと名を売る行為も増えて登山競争が始まってしまいました。戦後は大学の山岳部やワンダーフォーゲル部などによって山登りが宣伝されたり、山男を讃えた歌や登山の歌も流行しました。近年は、山ガールブームがあったりして、今度は高齢者がです。トレッキングなどと言って、高山の麓を歩いて風景などを楽しんだり、長い距離を何日もかけて歩いたりしています。特に低い山なら大丈夫とトレーニングもせずにのこのこと山登りをしています。その一方で自然を大切にの催し物にも出かけるのです。そこでは、山へ行く事そのものが自然破壊の入り口であるという事に結びつかないのです。簡単な事でも、山にはトイレなんかありませんから、当然山小屋や休憩場所での排泄を求めるのですが、その為に自然がどれほど多くの負担をしているかを考えることはありません。山小屋なんてもともとの自然にはなく人間の娯楽のためだけに出来たものですからなくなってもいいものです。山小屋の人は多くの登山客に必要な施設と言い、自然を守る努力もしているといいますが、存在そのものが自然破壊だという事を自覚していません。人間の娯楽のために必要もないのに山に分け入ることは自然からすれば異物の侵入ですから、山小屋がなくなって、登山する人が減ることの方が大事と言えます。登山者の為の登山道そのものが山には必要がありませんし、外来植物を持ち込む登山者は自然破壊の先兵みたいなものと言えます。山登りに「そこに山があるから」と有名な話がありますが、そんなことは無法そのもので人間が踏み荒らしてはならない自然がそこにはあります。一人の一歩の後に何十歩もの足跡が続き道が出来るその道から外来種が繁殖していくという事は尾瀬でも証明されていることです。登山客というように、所詮客商売ですから不埒な客も混入するのは当然で、山道だけでなく入り込んだり、高山植物を盗掘したり、飲食物のごみを捨てたりするのは当たり前のことです。富士山観光で登山者のモラルやルール無視、服装や強行登山を非難する報道もありますが、基本登山道の廃止が本来だと思うのです。富士山の登山客のためにブルドーザーで荷揚げする必要があるとは思えないのです。そして事故です。山での事故が発生し、本人や家族から要請があった場合、警察や消防などが救助・捜索活動を行いますが、費用は基本的に無料です。国内で有料なのはたった一つ、2018年埼玉県内の一部山岳エリアで救助のために防災ヘリが出動した場合は、有料とする条例が施行されているだけです。登山に免許も講習もありません。もちろん料金もありません。自己判断だけで勝手に実行できるのです。つまり娯楽で行って勝手な行動をして事故になれば公費で捜索してもらえるという事です。ですから、警察や消防だけでは出来ないときの民間の救助組織が出動する場合の日当などの費用に対する山岳保険があったとしても事前に保険に加入してまで登山するという事は少ないのです。日本ではご神体として信仰として山を守るという事がありましたが、登山という娯楽によって山を守ることより景観や利便性のために開発という形で山は荒らされているのです。登山道・林道を含めて道が出来ればそれを乱用したり悪用したりするのが人間です。山に行く事は、もう止めるべきだと思うのですそこには熊の生活圏があるのですから。