知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

「形は変われども心を繋ぐ」が伝統と言うものではありませんかの話

  信濃の国御柱祭(おんばしらさい)は7年目毎、寅と申の年に行われ樹齢200年程の樅(もみ)の巨木を曳建てる日本でも有名な諏訪大社の最大の神事です。その始まりは、804年の頃からとされていますから、1200年にも及ぶ歴史があり伝統と言う名にふさわしい神事でもあります。特に「御柱」と言われる大木は、直径約1m、長さ約17m、重さ10tにもなる巨木が使用され、大切に守っている山から8本切り出し、上社は約20km、下社は約12kmの街道を、木遣りに合わせて人力のみで曳き、各お宮の四隅に建てるもので日本古来からの山や巨木信仰そのものです。中でも、巨木を山の上から落とす時に人が乗る神事は誰もが知ると言われるほど有名です。そんな、ゆるぎない古来からの由緒正しい神事さえも新型コロナの為に、1200年の歴史で初めて、通常の3日間かける「山出し」と言う作法を1日に短縮したり、最重要な「木落し」の神事を中止し、「川越し」と言う神事も形式を変更したという事です。市民がお祭りとして楽しみの氏子の人力による曳行(えいこう)さえ断念してトレーラーで搬送するなど「形を変えて」神事を執行しているという事です。この「形は変われども心を繋ぐ」と言うことが、伝統の神髄だと思うのです。神は時代が変わろうと人間の社会が変わろうと「神」として存在し、その神を恐れ讃える為に人間が作った作法の形などどのように変遷したとしても心が繋がり続けているなら問題ないという事が信仰心の強さだと思うのです。信じるものが強ければ強いほど、人間が作った形よりも神が望むだろう行いの方がはるかに大事な事と決断出来るのだと思うのです。今度の新型コロナウイルスによって、随分何十年もやっているという行事が中止になったり、縮小となったりしましたが、それで神の怒りが起きるはずもありません。逆に、教育では、集団活動やコミュニケーションが成長と発達には絶対必要だとこだわる人たちによって今の学校制度改革が遅々として進まず、適応できない生徒は落ちこぼれであり特別な子供だと自閉症症候群にして特学へ追いやったりしていましたが、みんなが登校できなくても教育学者が大騒ぎするほどの弊害など起きませんでした。新型コロナと言う大義名分があらゆることを飲み込んでしまいました。ですから、様々な問題や課題に、強力に言い続けた人も何も言わないし、強引に進めていた人も責任をとりません。結局集団研修も、グループワークもしなくても問題はない事が明確になりましたがそんなことで飯を食べていた人が、危機だと大騒ぎもしません。明確になったのは、心を繋ぐのは、人間の作った作法ではないことです。伝統の作法は神に対して失礼が無いように人間が一生懸命考えたもので、神の望みではありません。人間の作った作法だから変える事も可能だという事が明確になった事だと思うのです。そして、人間の世界では、作法だけでなく価値観までが大きく変わるときが歴史の中で繰り返されてきました。例えば、毛皮です。人間の歴史の中では、毛皮は有史前より衣類としての役割を果たしてきました。近代でも、富の象徴であった時代もあります。しかし、動物保護という視点から非難を受けて衰退しました。その結果、養殖しているミンクもだめとなり、毛皮のコートを着ていることそのものが非難されるような時代となりました。衣類の原点である毛皮を着用する時代にはもう戻れない情勢ともなってきました。化学繊維に対して畏敬の念など持ちませんから、動物の毛皮を着ていた時の有難味はすでになく、大量に生産し大量に廃棄する事への罪悪感もありません。そこには、身にまとうものへの心は繋がっていないのです。化学繊維と言っても元は石油であり、石油は生物の死骸であり自然の遺産でもあります。感謝してと言う心が繋がっていれば大切に扱う事になるはずなのです。つまり、どんな神なのかは知らなくても、自然を人間に提供し続けている事は事実なのですから、その神を恐れ讃える心を繋ぐことが伝統であると思うのです。礼儀作法で飯を食っている講師がテレビに出てその内容で非難されていましたが、心が繋がらなければ作法なんて飯のタネにはなっても、神への配慮にはならない事が明白なのです。