知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

仏法の力はこの程度の話

「残念ながら境内のトイレは撤去することになりました」と言う報道記事が出ました。兵庫県西宮市六甲山の麓にある高野山真言宗鷲林(じゅうりん)寺の境内にある参拝者用トイレを撤去しなければならなくなったのは利用者の一部の不埒な奴がいるからだという事です。住職は、以下の理由を上げて苦渋の決断と言いますが、結果は「撥当たり仏法の敗退」だと思うのです。記事では、同寺は平安時代、833(天長10)年に建立の古刹で、境内のトイレは参拝者用に用意されたものでしたが、ハイキングガイドに登山コース最後のトイレスポットと紹介されてハイカーが多数利用する事になったという事です。その為汚物に汚されトイレ掃除は大変で、SNSにトイレが汚いと投稿されたり、手洗い場の水道の栓を壊されたり、トイレットペーパーを持ち去られたり、トイレットペーパーがないじゃないかと怒鳴られたりと散々な目に遭ってきたという事です。でも、公衆トイレってこれ普通だと思うのです。多くの公共トイレはこれ以上の苦渋を味わいながらもそれこそ頑張って管理していると思うのです。その基本は、9割の善良な使用者の感謝の気持ちに応えたものだと思うのです。どんな集団にも1割は不良分子は紛れ込みます。全員が良い人なんてことはありません。でも、少数の不良分子の行いの為に多数の善良な人たちの利便性まで奪ってしまうと言うのは、仏法者としてあるまじき行為だと思うのです。第一、こんな不良分子にこそ仏法が必要なのでしょうから懐深く受け止めてみるべきだと思うのです。例えば、トイレを有料にすることも出来ますし、トイレットペーパーだけを有料にして清掃管理費用を念出することも出来ます。どんなことでも管理費はかかるのですから利用者が負担するのは当然で何でもタダと言う感覚が間違っています。儲ける必要はありませんが必要経費は負担させること等普通だと思うのです。例えば、トイレの中に簡単に使用できる清掃用具が置かれていたなら入った人が清掃して使用してくれることもあるかもしれません。トイレの清掃用具が盗難にあう事やいたずらされる事で清掃用具は別の鍵付きの中にあったりすれば汚したままで去る事になりますが、簡便にでも清掃用具があれば申し訳ないと言う人もいます。重要なのは、一部の悪人がいる事で善人たちの力を信じない仏法者の情けなさです。寺のトイレであればハイカーの中にも清掃ぐらいしてくれる人は絶対にいます。むしろ、そういう人たちがSNSで自分で清掃するトイレですと広報してくれるかもしれません。自分で清掃した写真付きで。記事の中には、トイレを新しくしたときに、弘法大師の言葉を短冊に書き入れ、トイレの壁面に飾り、『布教もできるトイレ』として完成したという事も書かれていましたが、弘法大師ならもっともっと工夫をして布教の場を自ら減らすようなことはしないと思うのです。住職は、「長きに渡りきれいにお使いいただくよう勧告してきましたが、全く改善されませんでした」と語っていますが、「勧告」するという事がまず間違いだと思うのです。今時は役人でもこんな手段を行いません。相手の自発性を促す様々な対応に社会全体が工夫をしているときに、注意しても聞き入れられない一部の人間がいるから、参拝者が来たとしてもトイレは無いと言う事態にしてしまうのが宗教家なら辞めた方が良いと思うのです。この住職は、古刹の上に胡坐をかいて自分のいう事を聞いてくれる人だけで生活できるから、宗旨が違う人に対しての布教なんて絶対に出来ないし、布教という事も知らないと思うのです。古い宗教がこんな事だからカルト宗教がのさばるのだとも思うのです。人の心、仏の心を説いていくはずの宗教家が排除の論理を掲げて参拝者の不便を押し付けるなんてことは失格としか言えません。「先代の住職夫妻は、こんな山の中に人が来てくれることがうれしい、お寺に関係のない人でもありがたいとずっと言っていました。」の心さえ伝承できない住職では、人間の弱さを非難するだけで救済は出来ないと思うのです。