知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

SDGs風呂に入らずにシャワーだけにしようの話

SDGs風呂に入らずにシャワーだけにしようの話

今どきは、湯船に髪の毛が浮いていたり、石鹸カスが白く浮いていたならもうそれだけで「汚い」と騒ぎ立てることになりかねませんが、風呂に髪の毛や石鹼カスが浮いていたのはそんな遠い話ではありません。家庭風呂が流通するには、燃料としてのガスの提供がまず必要で、薪では田舎ならともかく都会では出来ません。田舎の薪窯も五右衛門ぶろの世界と大して変わりはなく、湯船はあってもお湯の出てくる水道はありません。ガスが重要なのは「洗い場」のお湯の確保のためです。洗い場にお湯が出る設備が出来る前までは、湯船のお湯を汲んで、洗髪から洗体をしていました。家族であっても四五人入れば結構汚れていますし、湯船の水も減っていますから、水を追加して追い炊きをして髪の毛や石鹼カスをとりながら入ったものです。ですから、当時の日本の入浴方法に対して、外国からお尻まで入った湯船で顔を洗うのは汚いと非難されたりもしました。銭湯に行かなければ洗い場にお湯は、出ていなかったのです。夏なら水道水で体を洗えても冬場は大変です。湯船のお湯を汲み上げた分の水を足すために水栓はありましたがお湯が出る水栓はなかったのです。さらに、風呂の発達には、上下水道の整備も必要で、下水の処理が出来なければ各家庭から風呂の水を流したなら排水が家の周りの排水用どぶに一斉に流れ込んで溢れてしまいます。洗濯機の廃液もそうですが水は汚した分の水を流すところがないと大変なのです。50年前の家の横には、今ではコンクリートの蓋やグレーチングが乗っている側溝の排水路があったのです。そこの所々に通路用の木の蓋が掛かっているのをどぶ板と呼んでいたのです。どぶには、茶碗を洗った米粒だったりおかずの端切れだったりだけでなく、洗濯の水なども流れ込んでいて、ミミズなどが住んでいる独特の匂いのするのです。どぶはやがて川に通じていて、雨が降り続くとどぶが溢れたものです。ですから、下水道が整備されないと入浴の終わった風呂の残り湯を流すとどぶの排水量を一時的に超えてしまうのです。水道が完備され、プロパンガスの瞬間湯沸かし器が完備され、下水処理が整備されてやっと家庭風呂が現代に近づくことが出来るようになったのです。今のような風呂がどこにでも見られるようになったのは、1970年代後半で、それでも湯船のお湯は長く洗体等に使われていました。仮に、その時に比べたなら、湯船方式とシャワー方式では水量がどっちが節約できるかという点では湯船と言えます。しかし、今日では、湯船にためる量とシャワーの水量が同じだったら、湯船につかった後シャワーで洗体・洗髪しますから、湯船の水量の分無駄なのです。昔のように湯船のお湯で体を洗う人などいません。湯船は、お湯をためて体を温めるだけです。洗濯に使用した方が良いと言われますがそんなことも今では行いません。つまり、湯船のほかに、シャワーを使用するのですから、どんなに、節水シャワーヘッドを取りつけても、お風呂の水を洗濯に利用しても、お湯がでるまでの間の水は、ためて使い、水を出しっぱなしにしないとしても、シャワーより湯船方式の方が水の節約になると言うのは間違っています。過去に、一番風呂に、憧れたり拘ったりしたのは、一番風呂でないとあの澄み切った風呂には入れず、髪の毛や石鹸カスが浮いていたからです。だから、時には風呂の順番が家庭内の順位だったりもしたのです。生理の女性は最後に入るとか、体をよく洗ってから湯船に入るというルールも、今のように簡単に湯船をきれいにするほどお湯を流せなかったからです。今の日本の家庭風呂は、ぜいたくに水を使いすぎています。シャワー3分で36リットルの水を使いますと言い、日本の風呂の方が効率がいいと広報されていますが、入浴総体としての水の使用量を考えれば完全に湯船方式は水の無駄遣いをしています。SDGsを語るなら自分の身の回りの改善からするべきで、湯船をやめてシャワー浴に変えるべきだと思うのです。