知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ペットは大事でも家畜は殺される物の話

     犬や猫を家族同然と言う人がいたり、テレビにはペットの動作がかわいいとやたらと出てくる時代です。ですから、動物虐待と言えば、飼い主がペットを虐待した事と誰もが思い浮かべるのですが、実は家畜の方が虐待されているのです。畜産農家や酪農家はとても大事に育てているとテレビには出てきますが、酪農や畜産は、利益が出なければ成り立たない個人や会社組織の営利事業です。家畜は、生活のために行っている事業の動物であって趣味の愛玩動物ではないという事です。動物を生計の糧としているのですから、どんなに大事にしているとしても赤字になるような対応は出来ないという事ですし倒産という事態が発生すれば見捨てられると言うことでもあるのです。動物愛護管理法と言う法律は、ペットの為ではなく家畜を含めた動物全体に対しての法律ですが、動物愛護とついていることからペットの為で家畜は別に法律があると思っている人ばかりです。同法44条1項は、「愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は 5年以下の懲役又は500万円以下の罰金に処する」と規定し、また同2項は、みだりに給餌もしくは給水をやめるなどして愛護動物を衰弱させること等についても、「1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する」と規定しその対象として「牛、馬、豚、めん羊、山羊、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる」が指定されています。ですから、家畜も虐待すれば、罰せられるのですが、家畜にエサや水を与えないことを誰も想定しませんから、牛、豚、鶏などの家畜が虐待されているという事さえ知られてはいないのです。昔は屠畜場が身近にありましたが経営的に集約されて、集中化したことで、一般の人は、屠畜場がある事も知らないし、家畜がどこで殺されて肉になるか知ることも出来なくなりました。さらに言えば生きている家畜と接する事もなくなりました。観光牧場とか観光農場に行ったり、社会科見学で家畜をわざわざ見に行くことをしなければ家畜に出会うこともなくなったのが今日です。車の車窓から家畜が見えれば野生動物に出会ったように喜びカメラを向ける時代でもあるのです。ですから、テレビのニュースで鳥インフルが発生し、何万羽の鳥が殺処分されたと報じられても誰も身近なことと思いません。せいぜいがもったいない程度です。そのため、畜産動物への虐待に対する告発はこれまでもありましたが、起訴されたものなどないといわれています。畜産農家や会社が倒産し経営破綻しているからと餌も与えられずに大量に家畜が餓死したということもあったそうですが、不起訴処分だったということです。しかし、ペットを扱うブリーダーが犬や猫に赤字だからと餌を与えなければ、検察は不起訴処分では済ますことができないぐらい報道されてしまいます。正に一人の殺人は罪に問われ、国の戦争で大勢の戦死者が出ても問われないように、豚コレラが発生したとか、鳥インフルが発生したとして万単位の家畜が殺傷処分されても誰もが畜産者に同情しても、まだ発症していない豚や鳥までが殺されることに同情すらしません。そこには、ペットは殺さないことが前提ですが、畜産動物は殺すことを前提として考えている事が大きな影響を与えているといえます。格好つけて、「いのち」をいただいているなどと野生動物を狩猟している人が言うことに感動する人たちも、家畜の肉も「いのち」をいただいているとの考えには至りません。あえて殺す必要のない野生動物をころすのだからその命は考慮されて、「いつかは殺されて食べられる命」だからその肉は美味しければ良いだけなのです。病気だろうと、倒産だろうと家畜は殺されることが前提なのです。つまり動物の命は常に「人間の選別」の中にあるのです。人間が死んでもいい動物、死ぬことで役立つ動物、死んでほしくない動物、無関心な動物などと「選別」することで動物の命が取り扱われる時代になってしまいました。そして、家畜は人間の経済活動と言う歯車の中で殺されていく時代になりました。