今から約1万6千年前に始まったとされる縄文時代は、約1万年以上続いたとされ、一つの時代がこれほど長く続いたのは世界でも類がないと称賛する声もあります。青森県の北にある大平山元遺跡からは1万6500年前の縄文土器が出土している事からも間違いはないのですが、長く続いた理由は、ユーラシア大陸の東の果ての島には興亡を繰り返す要件は無かっただけだと思うのです。実際に国ではなく民族として同一生活を長期にわたって続けた民族はエスキモーを含めて世界には多数存在します。土器文化は、世界の他の地域でもほぼ同じように発生するのですがいわゆる文明と言われるところは、集団的な組織体制などに移行して、戦いに明け暮れる社会体制に入っていったと為に更なる武器の発明工夫によって他人集団が肥大化したに過ぎません。つまり他人集団は、利害を求めて戦うと言うのが原点で、利害の攻防が可能な地域いがいでは、平和が続くと言うだけの事だと思うのです。実際、渡来人が多く押し寄せる弥生時代には、家族や親族集団程度の縄文人は淘汰されていくのです。生活に必要な衣食住程度しか満たしていなかった孤立的地理条件にあった島は、多民族が押し寄せる要件もなかったのです。その名残を持つ、アイヌが国家を必要としなかった事にも繋がっています。ネアンデルタール人が家族単位で暮らしていたことから、他人の集団の集まりであるクロマニヨンによって吸収されていくように、親族集団の所有観や貧富の差観には比べ物にならないほど、他人集団は人間関係での、凶暴性が強くなっていくのです。アマゾンの少数民族もインカやアステカのような国家を作らなかったことから、今でもジャングルに暮らしていますが、大集団と接点が出来るたびに吸収されて行っています。縄文時代が長く続いたのは他民族による侵略を受けなかったことが大きな要因で、他民族が集団を維持するために必要とされる資源も宝もなかったことによると思うのです。研究者によっては、縄文時代が1万年続いた理由として、狩猟や採集といった自然と共存しながら生活を送り、身分や階級がなかったために最も争いが少なかったと称賛しますが、それは違うと思うのです。母系社会で血縁関係の集団で大きくても500人に満たない集団では、身分制度そのものを必要としないし、生活には困らないが、貯蓄の出来ない生産性では、他民族や集団での奪い合いがなかったからにすぎないと思うのです。旧石器時代との大きな違いは、食糧事情を画期的に向上させた煮炊きが出来る土器だったと思うのです。その、土器の製法も縄文人が開発したのではなく、ユーラシア大陸との交流によって得られ、独自の発展をしただけだと思うのです。縄文土器の作り方の変化から、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分けられますが、そこにも交流があったからの変化と思われます。それは、アイヌであっても独自の文化を継続してはいても交流によって得られた鉄器などを使用している事からも古代の民族はそれほど閉鎖的ではなく、もっと開放的に交流していたと思われるのです。旧石器のように、マンモスなどの大型獣の狩猟で移動していた時代から、集落を形成したとしても農耕のような定住ではなく、周囲にシカやイノシシが不作になれば簡単に移動したと思われます。確かに栗の栽培などの痕跡はありますが、定住する必要などなかったと思われるのです。それは、人口で考えることが出来ます。仮に戦いもなく、生活が安定していたのなら、縄文時代の人口推定も右肩上がりに増加していくはずです。しかし、実際は西には少なく、東には多く、日本列島全体で縄文時代早期の人口が2万人、前期が11万人、中期が26万人、後期が16万人、晩期が8万人と推定されています。西方には人口が少なく、東方に偏っていたのも単なる食糧事情によると思われます。この事からも日本列島は他民族が侵略したくなるような魅力に欠けていたから最果ての地の貧しい縄文人は放置されていただけにすぎないのであって、平和で身分差別のない自然と調和した生活をしていたと言うのは少し違うと思うのです。その人口が、弥生時代には59万人と増加するのは、稲作による食糧事情が改善されたからに過ぎません。日本列島を襲った気候変動期との関係もありますが、総体としては温暖化により氷が解けて、縄文再海進とよばれる海面の上昇があったり、縄文時代晩期の気候寒冷期に入ったりと環境の大きな変化があっても飢えてはいなくとも他者が略奪したい物はなかったと言えます。その結果土地が大事な農耕民の移動によって縄文人は淘汰されていくのです。縄文では、栗の栽培など食物の栽培もしていますが、稲作は灌漑などの工事を伴います。工事は簡単に出来ませんから、出来上がった収量の多い田は守るべき固定された対象となります。より栽培しやすい土地は争奪の対象ともなります。ですから縄文人が平和的で弥生人が戦闘的なのではなく、持ち運べない人工物を守る事が武器と武人を必要としたのです。いつでも移動可能な縄文時代には守るべきは人間そのものですから逃げると言った手段が有効でしたが、工事によって作られた人工物を守るには戦うと言う手段が必然的に必要になったのです。弥生時代の稲作農耕社会によって穀物の貯蔵可能になった事で富が生まれ、貧富の差が生まれたと言う説もありますが、定住によって環境を変えてきた人工物を作る守る事は、集団での行動であり、集団行動の効率的運用は指揮命令系統の確立で、結果として力により統制が普通に必要になったのだと思われます。ですから、縄文時代が1万年も続いたのは、守るべき対象が大きく違ったことだと思うのです。人工物としてクリを栽培していても十年近く成長しないと収穫は望めませんし、何百人もの人間を食料として維持するには栗林は余程大きくなければなりません。親族家族単位だから満足できる程度で、他者が奪い取るだけの価値はありません。対してコメは毎年その田の大きさに比例して収穫できますから、奪い取る価値が十分にあったのです。毛皮やクリなどでの広い範囲での交易の遺物が出ているように縄文人は閉鎖環境ではありませんでしたが、1万年以上続いたのは、辺境の貧しい田舎だっただけだと思うのです。