知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

生から死まで不平等に生き、公平を求めて争うの話

 平等という言葉に色々な意見はありますが、私は、人生は不平等の中でもがき、せめて公平であってほしいと不平を言い続けているのが現実だと思っています。なぜなら、人は生まれた時から、どの家に生まれたかで、もう社会的にも金銭的にも平等ではないのです。そして、生まれた時の体、容姿、持ってきた能力、なに一つとっても、平等な人はいず、人生は不平等に始まって、不平等のままに終えていくものだと思うのです。例えば、散々周りに迷惑を掛けて自分勝手に生きていたとしても長生きが出来る人と、酒もたばこも飲まず真面目な人が疾病で早死ぬするなんてことは、不平等の極みだと思うのです。人生という生の中で、目には見えない最も重要な時間の長さが一人一人違うのは不平等そのものだと思うのです。一日24時間は誰にも平等に見えますが、100年生きられた方と80年生きられた方と50年生きられた方では、その一日の価値は大きく違うと思うのです。そして、同じ年齢で死んでも、長く闘病した人と、健康で「ピンピンコロリ」で死ぬ人では同じ与えられた時間ですが平等ではありません。中には、長くても薄いより短くても濃い方がいいなどと言う人もいますが、その時間の過ごし方がどうこうという前に、生きる時間が平等ではないということです。時間が平等なら生き方も絶対に違います。もしも能力が平等なら競争は起きません。相手と違うから、挑んでみたいし優劣を付け事もようとするのです。平等に同じ能力を授かっていたなら争ってみる価値はありません。もっと言えば、同じ能力を授かっても、国による環境が違えばその能力を生かせるチャンスは平等にはありません。特に女性は学習の機会さえない場合もあります。さらに、食物などの物は平等に分けられると思うかもしれませんが、身体が違えばエネルギーの摂取という意味では決して平等ではありません。家族でケーキを分けたとしても、均等に割ったとしたら見た目ではみんな平等です。でも摂取量で言えば、子供と大人が同量というのは明らかに平等ではありません。つまり、個性があるというのは、平等ではないからです。不平等だから個性があって、その不平等を知恵によって補正しようというのが公平と云うことだと思うのです。不平等は人類の歴史が作った遺産ですが、この遺産が行き過ぎないように歯止めとしたのが公平という思考だと思うのです。不平等にあふれた社会を納得させたり、観念させたりする仕組みが、人生観ということだったり、宗教だったりしているのだと思うのです。生まれた時からの不平等をどのように理解させるのか、納得させるかが社会の仕組みだと思うのです。人は平等ではない人間社会に生まれるのです。そして、その不平等に対して、補正するのが公平という感覚だと思うのです。だから、平等と公平がセットのように語られるのだと思うのです。

 個性を考え、一人一人違うということを認めるならば、継続する社会に生まれ参加することは不平等の中に入っていくことそのものだと思うのです。だからそこには差別や偏見も派生するでしょうし争い事も発生すると思います。社会の末端組織であっても、公平に意見を言える環境があっても、決定権ということでは平等に与えられることはないのです。基本多数決が優先するような仕組みでの一票は公平に与えられますが、多数を得るための条件は平等ではありません。選ぶ側には公平に一票という権利を付与しますが、選ばれる側に立つためには資金だけでなく様々な条件が必要で誰もが公平に条件を持ち合わせてはいません。公平な選挙で選ばれた人は、権力という決定権を持ちますが公平を強調することで平等に見せかけているだけです。同様に、不平等をすり替えるために宗教は来世という平等社会を持ちだしますし、不平等の苦しみや不平を神の前での公平という言い方で慰めます。それは、不平等が現実であり、平等ではないことを認知していることでもあると思うのです。平等などと言う幻想に惑わされず、公平などと言う誤魔化しにも負けず、不平等な中でも、底辺が少しでも浮上することが大切と思うのです。