知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

スポーツだけではなく指導者の暴力は続くの話

 指導者の体罰・暴力が繰り返し噴き出てくるのは特別な事例ではなくそんな指導者の方が潜在的に多いということです。そして、体罰的・暴力的指導者は、反省は出来ないし後戻りもしないから何かの切っ掛けさえあればすぐに表ざたにされやすいのです。暴力否定の世間の風潮は今に始まったものではありません。暴力や体罰問題で何人もの指導者がその地位も身分も失っている現在にあっても、自分流の解釈で自分は指摘されないと思いこんでいる体罰・暴力指導者が多いから、告発は続くのです。これだけ視覚的な証拠が残せる時代に、言葉ではなく、映像でこんなことをしていた、これは体罰です、暴力です、暴言ですと流されている放送を見て自分の指導時の対応と比較すれば誰だってすぐに分かることです。しかし、体罰・暴力指導者は、告発されたのは特殊な事例で自分の方法は安全圏だと考え、告発した人間が指導を理解していないクレーマーで騒ぎ立てるマスコミにも問題があると思っています。その根拠は、あんな程度はどこでもやっているという自信です。例えば、子供の場合、俺の指導法に親は納得してこのチームに入っているんだ、親も認めているんだ程度で、社会的にも容認されていると誤解しているからです。確かに、子供たちに体罰をしても、親はそれで強くなるならと容認しているという現状はあります。しかし、親は指導法に賛意を示しているよりは、自分の子に栄冠がという利益がもたらされるならばという利害条件で、親はこっちの味方だ、大丈夫と思うこともまた過信でしかありません。親が容認している体罰は、利害との取引の上に成り立っていますから、少しでも自分の子が不利になれば、手のひらを返したように訴えてくると知るべきです。それは、教えてもらった恩をあだで返すということではなく、教え方が悪いから自分の子が伸びないということになるからです。厳しくても実績さえ残せば、どんな方法も認められるという過去のスポーツ界の悪習としての常識から抜け出すことのできない指導者の方が多いから次々と指摘が続くのです。今日では、ルールなき成績は評価されないという事すら指導者として知らないことに問題がありますが、優勝すれば手のひら返しをするマスコミもこの様な指導者を作り続けている原因の一つでもあります。現代では、会社の営業でもルールの中でなければ認められませんし過去のサラ金の様な夜討ち朝駆けなんて方法は認められていません。勝てば官軍だなどと、優勝さえできれば自分の指導方法が評価されると思いこんでいたなら大間違いの時代だということが理解されていません。体罰がひどくても実績さえ上げていれば厳しい監督で済んだ経歴を持っている人は、半面で子供は、優しくするとつけあがるという不安を強く抱いています。厳しい人の核心は、優しくするとなめられてしまうという恐怖が厳しさを支えているのです。なぜなら、現代の様な情報社会では指導方法に関しても、基礎体力作りから、ストレッチ、技能の科学性など理論とか方法について子供たちの方が遙かに情報を得ていて、自己主張も批判も出来るからです。心の中では、出来もしないのに口だけは一人前なんて子供が増えれば、言うことを聞かなくなるという恐怖を抱いてしまいます。それを打ち消す一番の近道が、体罰であり暴力なのです。つまり、自己の理論や技能を持った、経験者であっても、指導法ということを学習していないと、誰でも出来る、体罰や暴力による指導に依存していくのです。指導するということは、自己主張だけでなく、比較検討された他の理論や技能との違いを説明できることであり、実践の中で相手を理解させる手段方法を知っていることであり、批判に応えられる知見を持っていることです。しかし、日本には、比較検討による独自指導法を確立する慣習が実は薄いのです。これは、日本の負の文化でもあるのです。日本の芸能だけでなく、武術にもそれぞれに流派があり、家元制度があります。そこでは俺が一番として、他派の研究はしませんし、奥義書は絶対に公開されるものでもありません。技能でも一子相伝などと言う考え方があって、すべて非公開で自我流に拘りそれが最高であるとして他者の研究など絶対にしません。日本の流派は、こだわりの塊です。同様に、そのやり方に拘れるから流派が作れるのです。多様な方法の研究・工夫の上に流派があるのではなく、個人崇拝のように流派はあるのです。ですから、少しでも力があると言われた指導者は、自分の名を冠した、何々流といわれるだけでも得意になってしまうのです。そして、職人芸などと言われることに憧れるような環境にあるのです。他者と比較するという今日では当たり前のことが出来るような指導者層が増えなければ、いつまでも体罰や暴力指導はなくならないと思うのです。