知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ぼんやり魂の話

 「魂」「霊」「精神」「心」「命」「気力」などなど、生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると人間が考えた事を言葉にしたものです。過去から人間は、肉体を支配するものにこだわってきました。そして、それは不滅にあるものだと、見えないけれどあるものだと考え、それを表現する言葉を考えてきました。例えば「霊(れい)」は、人間だけでなく、肉体を持つすべての生物に宿るとして、肉体の死後も、肉体から離れさらに活動を続けていくことのできるものとまでしています。それが、輪廻転生という事にもなるのですが、死後の世界から戻ってきた人はいませんから本当のところはわかりません。そして、日本人は、宗教だけでなく、文武から文化・技能に至るまで修行すれば「魂」が肉体に取り込まれると考えますから、「入魂」という事が好きです。その為「一寸の虫にも5分の魂」として、なんでも「魂」を付けたがります。サムライ魂、ヤマト魂、町人魂、学生魂、会社魂、云々とどこでも見られます。ところがそれは一体何かと言うと、勝ち抜く程度の精神力や戦い抜く気力程度のホラの様なものでしかありません。踏まれても、踏まれても立ち上がっていく様を「雑草魂」っていう事があるのですが、この場合でも実態は、「踏まれた雑草は立ち上がらない」が真実だと言われています。実際人間が歩いた後に道が出来るというのは、雑草が立ち上がって復元しないからにすぎません。踏まれた雑草は、傷を修復して横へ伸びてから太陽に向かいます。人に踏まれたならなにくそと立ち上がる雑草などいないという事は明らかで、雑草が繁茂するのは、世代を超えて繁殖を繰り返しているというだけにすぎません。人間の生き方について、人間は自然界の状態を教訓に利用しようとすることが沢山ありますが意外とその中身は間違えていることも多くあります。ですから、ぼんやりとしているとなんにでも「魂」がつけられて、がんばれがんばれという事になります。しかし、雑草は、自分が生きることよりも種を残すこと、次の世代を残すことが優先ですから、人間が希望するように踏まれても踏まれても立ち上がろうという努力はしません。つまり、人間の意地みたいなものや見栄や格好には全く関係なく雑草の魂は、目指すべき種の継続に向けて対応していて、人間が望むような、無理して頑張ってはくれないのです。肉体は「魂」の支配下にあるのだから魂の修練をすれば強くなれると魂があれば修行が出来ると励まされますが、逆にそんな簡単に魂が変えられるものなら人間はもっと誰かれなく偉大になっているはずですが、みんな普通です。墓や仏具を使用する前に僧侶が読経して、「魂入れ(こんいれ)」をする様に、目に見えず、「これがそうだ」と言い切ることができないにもかかわらず、有るかの如く扱われるのが魂です。そんな魂に依存したところで何も変わることなどありません。時には、ろくでもない習慣や理不尽なルールまでが魂の表現として使われてしまいます。鼓舞するだけなら、それでもいいのですが、そんな魂により、精神や肉体を傷つけられたり、強制や押し付けられて自分の魂が委縮されてしまう方が危険です。「魂」「霊」「精神」「心」「命」「気力」などなど、肉体を超えたところにあるはずの何かを求めてもありません。生きものの体の中に宿っている物質はすべて物質にすぎません。思考さえも電子反応で確実に物質が存在しています。空気を掴もうとするような、魂に頼るのではなく、ぼんやりと自分の魂は、自分と共に歩んでいることを自覚した方がずっと有効だと思うのです。あなたがいるからあなたの魂がある、それはどんな魂より大切であると。

 

トランプ、インチキ老人に騙される貧民の話

 民主主義は、共産主義より優れている。だから冷戦に勝ち、世界に民主主義が広がったと大宣伝し、「アラブの春プラハの春」を強調しましたが、世界のその後の流れを見ると、戦争や内乱がやたらと起きて、政治混乱は、国連の機能を麻痺させてしまい、人が殺されても犯罪にもならない状態が続くことになりました。ベルリンの壁は、逃亡を防ぐためでしたが、今や民衆を閉じ込めるためや移動させないための壁づくりが増えています。民主主義の自由経済に参加する国が増えると貧しい国が無茶苦茶頑張って台頭してきてしまいます。すると、今度は、民主主義対専制主義だと煽り立てて既存利益の保護に向けて動き出します。みんな民主主義になったはずなのに、民主主義の国のように人権が守られていないと難癖をつけて制限しようとします。その混乱が地域の中での戦争を引き起こしてもいます。実は民主主義とは欧米をリーダーとする社会のルールであることが今や明確になってきています。実際、独裁は良くない、専制もよくないと言っているイギリスやアメリカ・フランスは、安全保障理事会で民主主義とは異なる態度を平気で行っています。民主主義の原則の一つに多数決と言うのがありますが国連は多数決制ではなく、専制性です。基本、第二次大戦の主戦戦勝国によって作られていますから、共同の敵に対しての異質な者へ共同で攻撃するというのが基本の連合体です。その連合体に異質な政治経済体制が混ざっていたからそのまま覇権争いが続いて今日の混乱の原因ともなっています。この指止まれと多数派を形成した方が有利になるようにやっているだけでなく、自分たちの利益が侵されないように多数派工作もしますし、国の格付けが変わらぬように貧しい国が這い上がれないようにもします。結果として、参加国の国力によって支配と被支配の関係が続き、生まれた国による人間差別が続くのです。民衆の意見とは関係なく貧富の差のある国家があることで、現在の経済は成立しています。つまり、イギリスと中国のアヘン戦争のように、中国はイギリスから買うものがなく、イギリスは欲しいものばかりで赤字になったから違法にヤクザのごとくアヘンを持ち込んだことが戦争の原因です。それは現代でも変わりません。自国内で貧しくとも幸せだという国が多くなったら貿易なんて成り立ちません。現代の経済は物を動かさなければ成り立たないのです。欲しいものを作り出さなければならないのです。単に衣食住だけの問題なら全人類が暮らせるだけの生産力があるのに、それを偏らせることで成り立っています。つまり、利益を求めるメンバーと利益を確保し続けたいメンバーに、巻き込まれ、振り回され戦争で殺されるのが民衆という事でもあるのです。戦争も消費でしかないのです。そして、民主主義のいいところの「自由」を求めさせることで混乱を長引かせ、増加させてもいます。自由なのだから、民衆が何を選ぼうと勝手という事で、トランプを選ぶ人が大勢います。トランプは、専制の身分に憧れながら、民主主義の選挙でのし上がろうとしています。この手法はよくある手で、ヒットラーだって選挙で選ばれましたし、プーチンだって初めは謙虚に選挙で選ばれています。習も軍事クーデターで権力を握ったわけではありません。ただ、権力を握った後は、その権力を手放さないように制度まで変えてしまうというだけです。トランプは、一方的な物言いをして、自分に不利なことは、フェイクニュースと言い放って支持者以外には攻撃と非難を繰り返しています。その態度を多くの人は、ろくでもない奴と評価していますが、現実には選挙で勝つかもしれません。逆に、宗教もそうですが、信じる者だけが救われるとなれば、誰でもいいとは言え、自分に利益をもたらされそうな人を選ぶことは普通です。そうなるとコアでトラのンプを選ぶ人の利益とは何かという事ですが、基本は、貧しさだという事です。景気が良い時は、世界一と言う漠然とした優越感があり世界から見るなら贅沢な生活を経験した人々は、トランプが4年間で取り戻せもしなかったのに俺なら取り戻せるとささやく声にすがっています。でも、そうして民主主義への加害者になるかもしれない人物を選んでも民主主義は正しいというのです。トランプが感じた権力の座は、嘘を言おうが、民主主義を裏切ろうが関係なく魅力的でおいしい果実だったのです。そんな果実を求めているインチキ老人をアメリカの貧民が騙されているというのが現実だと思うのです。歴史を見ても、貧民は大法螺吹きに騙されやすいことが良くあるのですが、教祖のようなインチキ老人が狙っているのは自分が王になりたいだけだという事が分からないのが残念です。

 

悪役は、なぜ笑わされるのかの話

   表現の方法なのですが、悪役が逆転負けする前に、主役の前で勝ち誇ったように、笑うと言う演出が多くされます。この誇張された演出は、それでいいのですが、クールな悪役が高笑いするというパターンが始まると、いよいよ最終場面に入ってきたという事が明確すぎる合図みたいになっているのは演出としてどうなのかと思うのです。諺として「最後に笑う者が最もよく笑う」というのがイギリスにあるそうなので、演劇的には、主役が最後に笑うための前座として暗示的に使うのもパターとしてはいいのですがネタバレ的な進行になるのはどうかと思うのです。諺では、「早まって喜ぶな」とか「最後まで油断してはいけない」という教訓もあるようですから、経過ではなく結果を確実にしろという意味では日常で使われる言葉と言えます。でも、悪役がここで笑ったことを教訓とするなら演出としては失敗だと思うのです。教訓としては、日本語にも「最後に笑うのは良い笑いをする」ということわざがありますがあまり使われてはいません。むしろ悪役が最後に笑ってからやられてしまうというイメージの方が定着していると思うのです。映画などでは、悪役が画面に登場しないときでも悪役の笑いを流すことで主役を鼓舞する為に使用されたりしています。となると、悪役の笑いは、主役を奮い立たせる切っ掛けとなっているという事ですから、人は笑われることに反発を感じる、あるいは惨めさや悔しさを感じるという事なら、悪役の笑いは嘲笑という事になります。でも、嘲笑の笑いでどれほどの鼓舞効果があるかと言うと、ドラマを見ている観客には悔しいよねとのだめ押しにはなるでしょうがその嘲笑で悪役が主役への攻撃効果を認識できるかとなると全くなく、笑わされるのは観客の為ではないかと思われるのです。例えば、いじめのシーンでいじめる側がみんなで笑っているという演出が多くあります。でも、この演出は見ている人には理不尽だという事と悪い奴らだという効果がありますが、では悪い奴らには勝ち誇ったように、蔑んだように笑ったとして何の意味があるでしょうか。いじめる相手とは、既に力関係はついているのですから勝ち誇る必要もないし今さら蔑んだとしても対していじめ効果はないと思うのです。つまり、悪役が笑わされるのは、悪役と主役を際立たせるのが目的としたとしたのなら、この演出はもう終わりだなと思うのです。確かに最後に笑うものが主役でよかったねと言う演出は諺の教訓としてはハマっていますが、厚みや重みのある感じよりも分かりやすすぎるように思うのです。悪役が最後のシーンで自信たっぷりに主役に向けてあざ笑いだすと、最後の決戦がこの後始まって主役が勝利するという、分かりやすすぎて逆に効果は軽くなると思うのです。ところが、この演出は、漫画やインターネット、ゲーム等でも結構使われています。悪役が決戦前に自信過剰を思わせる嘲笑を主役にする勝利の笑いがなぜ好まれるのかと言うと、自信過剰は油断大敵だという教訓に持っていきたいからだと思うのです。悪役を悪役たるべき人物像にしなければ、憎たらしくしなければ、主役が成敗する根拠が希薄になってしまうという事だと思うのです。どんな決戦であったつて緊張して笑ってられる余裕なんてないというのが普通で、ライバルが側にいるなんてことは現実にはそうありません。悪役が不自然に笑わされるのは演出効果ではあるのですが悪役が軽くなりすぎてしまいます。笑う悪役よりクールな悪役の方が重層感を作りやすいと思うのです。悪役の作りが主役を作っていきますから最後に笑うものの為に不自然な笑いが質を下げることになると思うのです。 

障害者の隔離が進んでいるの話

   会社の事業主が障害者のための特別な配慮をした子会社を設立し、一定の要件を満たす場合には、その子会社に雇用されている障害者を親会社や企業グループ全体で雇用されているものとして算定できることを目的に、設立、経営されている子会社が、特例子会社です。特例子会社は、2020(令和2)年6月1日現在で542社(前年より25社増)、雇用されている障害者は、3万8918.5人(前年は3万6774.5人)と厚労省の資料ではなっています。さらに、厚生労働省は、特例子会社のメリットとして、①障害の特性に配慮した仕事の確保・職場環境の整備が容易となり、これにより障害者の能力を十分に引き出すことができる②職場定着率が高まり、生産性の向上が期待できる③障害者の受け入れに当たっての設備投資を集中化できる④親会社と異なる労働条件の設定が可能となり、弾力的な雇用管理が可能となるとしています。このメリットを障害者側から読むと①´障害者に合わせた仕事があれば本業と関係なくてもいい②´障害者だけなら辞めない③´障害者トイレなど職場に多数作らずに1か所で済む④´親会社との労働条件が全く別でいいという事です。つまり、親会社に就労させずに、障害者だけ集めて、労働条件を下げてもいいですよという事です。こんな都合のいいのが特例子会社です。代行ビジネスと言うのはこの特例子会社を親会社からも分離したものです。十数事業者が各地の計85カ所で事業を展開しているとされ、利用企業は全国で約800社を超え、働く障害者は約5千人に上ると言われています。このビジネスモデルは、障害者雇用を自社でおこなうことが嫌な企業に、代行業者が、障害者が働くための場として農園などの働く場を提供し、就労を希望する障害者も紹介、サポートなどを行なって、利用企業があたかも障害者雇用をしているかの如く偽装するものです。利用企業は、農園で働く障害者を自社の社員としての賃金と、農園の賃貸料、管理費等及び、はじめに採用するときには、人材紹介料を支払う事で、自社には一歩も足を入れさせることなく、障害者雇用率を確保できるというものです。その為、「違法ではないが労働とはいえない」と国会で指摘され、問題視されてはいますが需要があるから伸びています。この代行ビジネスでは、企業の業務とは全く関係のない業務を離れた場所で障害者だけを集めて業務を無理やり作って形だけ整えたものであることは明確です。何故なら、大半の企業の本業は農業とは無関係で、障害者が仕事としている農作物も、社員に無料で配布するケースが多く販売することもないからです。雇用率達成のみを目的とした手段であることは明確なのですが、非正規雇用で障害者だけを企業の事業と分離していることが問題です。特例子会社は、厚労省も推薦する障害者の就労ですが、働く場が障害者にあればいいという考えがあるから、代行ビジネスを生みました。つまり、厚労省の進める障害者の就労が、「障害者を排除した職場」と「障害者だけの職場」を作ることになっているという事です。それは、障害者の生活保障にはなっても「健常者と障害者の共生」にはほど遠くなってしまうという事です。特例子会社も代行ビジネスも障害者と健常者を分離することが基本です。同様に、生活の場であるグループホームでも、日中活動型と言って施設外へ出なくていいグループホームを定員最大40名を建設できるようにしました。かつては山の中に作った隔離施設と言われた障害者施設を、町中に作ることが出来るようにしただけのものがグループホームと名を変えて作られています。少子化で学校の統廃合が進む中、特別支援学校だけが増加しています。これも、分離教育そのものです。かっこよく「インクルーシブ教育」などと言っていますが、少子化なのですから少人数に合わせて混合で教育すればいいだけの事です。子供の時から、障害者だけの分離された環境で教育を受け、職場になっても障害者だけの職場が用意され、隔離された生活の場としてグループホームが用意されているという隔離政策が主流になってきているのです。

引き出し屋と同類の居場所探しの引きこもり対策の話 

   発達障害などの問題で、必ず出てくるのが「居場所がない」とか「生きづらさ」ですがそれって何なのだろうと思うのです。この曖昧な言葉で社会不適応や集団不適応、対人不安が騙されていると思うのです。そして、学者の思い込みとお節介が混乱を大きくしていると思うのです。例えば、「生きづらさ」とは何かと一般的に問うと、人間関係の行き詰まりで自己肯定感の低さや、コミュニケーションの問題とされていますが、そんなことは、普通の人生の悩みでしかないと思うのです。ただの悩みでも理論化なんてことをすれば高尚な悩みへ変身できますが、悩みは成長の糧でもあり、社会性の原点でもあります。「どう対応していいのか分からなかった」「対応に苦慮している」は普通だと思うのです。特に自分の居場所なんて本人以外に感じることは不可能ですから千差万別すぎてまとめることなど出来ないと思うのです。人生充実していたと思われる年寄りだってその人生の中では居場所をずっと確保できて来たのかと言えば、否だと思うのです。むしろ、真剣に自己満足のできる居場所を探し続けていたと思うのです。それは、誰でもが全面的に自分の人生を肯定し、自分の居場所はここだと自信を持って言えないからだと思うのです。そして、それが人間性の本質でもあると思うのです。一つの事に満足する一方で、もしかしたなら他の居場所があるのではないかと想像してしまうのが人間だと思うのです。つまり、人生は複数あると思うことが出来る時代環境の中では、学問的な系統図やチャート図のような理解では平面すぎて三次元の構想として展開できないほどに、人間は全く別の人生を創造できてしまう能力があるという事です。つまり、もてる能力があるから迷いや悩みや意志が個人として生まれるという事です。例えばホームレスの中には、不幸な貧しい人のはずなのに公的機関の援助を拒否してホームレスを選択する人もいます。そこには衣食住が満たされたなら済むという事ではなく本人の意志の何かが関与している事があります。衣食住が満たされていても、満たされない気持ちは過去から人間にはずっとあったもので、よく言う「自分探し」は人間の持つ能力がなせる業そのものと言えると思うのです。他者とどう違うかを比較する事から始まる自己認識は、人間の謎の部分だと思うのです。「唯我独尊」自分が一番かわいいのですから、個人の悩み、迷いは他者との関係のなかで発生と消滅を繰り返すもので、社会として解決できるものとは思えないのです。そして、それは社会が安定している程に多発しその悩みを社会に依存する傾向が高くなるのです。社会への依存を突き放すことも人間の歴史では行ってきましたが今日では、そんな依存さえも社会が受容しようというのが「居場所探し」支援政策だと思うのです。しかもその支援策をみると現場では、ゲームやり放題、漫画見放題、なんでも相談なんてことをして「餌に食いついたら」引っ張り出そうという方法ばかりです。「居場所がない」とか「生きづらさ」に他人が関わって解決するはずなどないと思うのです。「転機」となる機会を提供できると思い込む方が傲慢だと思うのです。何故なら、情報の氾濫と情報収集の簡便さが溢れすぎているからです。少し前までは、情報そのものを得るための活動が必要でしたがネット社会ではそれも簡略化しました。当然処理能力以上の情報があれば情報に踏みにじられてしまう事は当然のことです。過去のように、情報も選択肢もない時代には創造と空想であったことが、多量の情報と選択肢が見えるようになった一方で実はそれが架空であるという事を認識できない人が増えるのです。実態は、膨大な情報はただ川の流れを見ているだけのようなもので流れ去り川に入ればおぼれてしまうし、見える選択肢は、実は制限されていることを知ったとき誰もが見えない幕を感じるのです。そうして殻に閉じこもった人をいきなり悪人のごとく引き出して罰を与えていく「引き出し屋」がいるからと行政がやっている「引きこもり対策」はどっちもどっちだと思うのです。どっちも「寄生虫」扱いでしかないと思うのです。

当事者意識のない管理者こそ問題だろうの話

 社会福祉法人かながわ共同会が運営している津久井やまゆり園(相模原市緑区)では7年前、入所者ら計45人が殺傷される事件が起きました。この法人は、複数の県立障害者施設を運営する県立民営下請け委託法人です。そこの職員による虐待事件が繰り返し報道されることになりました。共同会が運営する障害者施設の一つ、厚木精華園(厚木市)で8月に18年の勤務歴があった、職員による虐待が発覚しました。今度は、愛名やまゆり園の職員で、態勢が手薄になる状況のなかで焦って暴力を振るってしまったという事でした。問題は、山下理事長の発言です。記者団に「支援のやり方も知っていて講習も十分受けている職員による虐待が起きた。見られているという意識がない。悪いことと認識していないのでは」といったことです。この「見られていると言う意識がない」と「悪いことと認識していない」は当事者の管理者として当事者意識があまりにも低いものです。見られているというのは、監視カメラが設置されていて今回の事案が明確に映っていたことを指しますが、「誰が見ている」は指していません。つまり、録画されても誰もモニタリングしていないのです。監視カメラも設置されていたが、抑止力にはならなかったと新聞記事も書いていますが、どんなに記録しても確認する者がいないのなら、意識することなどありません。また、研修であり人材育成の責任者が、新聞沙汰になるような不祥事を起こした自分の部下に「自分の業務の正悪の判断が出来ない」と言うのです。誰が指導しているのですかと厳しく問われなければならない事で、このような管理者に対して本来の報道なら「当事者意識がない」と言うべきです。つまり、加害者が見られているという感覚があるなら見られないところでやればいいだけです。見られているという意識がないのではなく、カメラの映像を見る人がいないから意識されないのです。設置すればそれで抑止効果になるなんてことが機械に任せてしまう無責任な感覚なのです。仮に抜き打ちでカメラ映像確認を管理者が行っていれば誰だって写っていることに気を使います。また、盗みは犯罪ですと子供の時から言われているから人は盗むという事に無意識でも反応します。自分の法人で繰り返し虐待の研修をしていたのなら何が虐待に該当するぐらい誰でもわかるようになります。まして「暴力」ですから認識していないとするならどれほどひどい研修をしていたのかその質が問われなければなりません。ここにも、自分の部下意識がありませんし、管理者として利用者を守るという感覚がありません。監視カメラに任せるのではなく現場を管理者が訪れていればその雰囲気で「力技」が使われているかどうかは分かります。問題のある強度行動障害の支援現場を観察すれば、分かります。管理者が現場に行かないから分からなかっただけの事だと思うのです。管理者は、講演したなら誰もが分かると思っていることが思い上がりだと思うのです。支援の現場はきれいごとでは回っていかないことが理解されていないのはこの管理者そのものだとしか思えません。結局、このような県立民営施設では、偉い人は案外「天下り」同然で数年間して去っていきます。このような大きな組織では、管理者と言いながら、自分の施設を見学さえしたことがない場合まであります。福祉の現場は、正論には絶対に勝てません。しかし、生きている現場は、一秒も待ってはくれず進んでいくのです。その時に「理不尽な利用者の要求」が有ったり「理解不能な行動があったり」「不条理な反発があったり」「無謀な加害行為があったり」しているのです。その時どうしたらいいのか、職員自身も興奮してしまったり、パニックになってしまったり、混乱してしまったりすることが起きるのです。この時の解決は一つで応援が必要なのです。緊急時に駆け付けられる応援が必要なのです。それが管理者でもあるのです。管理者として不適格な、こんな管理者が高給で県立施設の業務委託をしているから起きるのだと思うのです。駆け付けることもできないから管理者として、当事者意識、緊張感もないのです。他人事の見解しか言えないのです。ですから、加害の職員は罰せられるでしょうが、この法人の管理者は罰せられることもなくのうのうと福祉を語り、職員に偉そうな説教だけを語るのです。再発防止委員会の会議しかできず、部下に現場を任せっぱなしの当事者意識のない管理者こそ問題だろうと思うのです。

神仏は祈りを黙過するの話

 戦争が起きて子供が泣き叫び死のうと、民族争いで人が意味もなく殺されようと、祈り続ける弱者が飢え死にしようと、「神仏は黙過する」だけで何もしてくれません。信仰を持つ人は誰でもが祈ります。でもその祈りが神仏に届き手を差し伸べてくれることはありません。時に運よく良いことが起きると信者は神の奇跡と讃えますがそれは偶然にすぎず祈らなくてもその様になりました。所詮祈りは、困ったときの「人間の独り言」にすぎないのです。神仏は、だまって、聞こえないふりをしてそのままにしておくだけです。何故なら、神仏は「判定者」ではないからです。人間の争いは人間性によって行われ、人間の利害で繰り返されます。ですから、歴史を深く知る神仏は、人類の歴史の中でどの民が正当で、どの民が悪いものだなどと、厳正で公平な判断など出来るわけがないのです。そして信者たちの守護神は、信者の人間界の力と同等の力しかなく、信者の力以上のことなどできないのです。万能の神「ゼウス」をもつてしてもギリシャの民がキリスト教になることを阻止できませんでした。神仏の弟子やその信者が人間界でどれほどの力を持っているかで、その威厳を示しますが、弱者の神仏への祈りは、所詮自己満足の範囲でしかありません。どんな神仏も平和を伝えますが、人間界の武力は神仏の全く力の及ばないところで大いに活躍します。ですから武運を神仏が左右することなどありません。勝敗は、武力の質量と戦略と兵站で決まります。そうした武力の勝者が、歴史を綴りますから、そこには神仏の入り込む余地などありません。神仏は、人間界のどんな不正も、不誠実な記録も、是正することなどありません。そして敗者は、ただ、守護神とともに地層の土の一部となって埋もれ遺物一つ残せないのです。そこには、公平であるべき神仏が関与する余地はなく、ただ黙過するだけなのです。そして、人間が創造した神仏は、人間同士の殺戮を止めさせることも、罰することも出来ません。神仏は、地上の生き物と同様に、人間だけを特別に扱う事はありません。その種がなすがままどうなろうと放置するのです。人がどれほど祈ったとしても神仏に助けられることはありません。当然、地獄も天国もありませんから今生の不幸で死する人はただ損をするだけです。神仏のために、殉死したとしても神仏の元へ戻るのではなく、物体として消滅するだけでしかありません。繰り返しですが、神仏は、祈りを黙過するように罰も設定してはいません。