知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

外交なんて復讐法の実践の話

 外交では、自国の外交官がスパイの疑いで国外退去となると、その同数の相手国の外交官を国外退去にすると言うのが普通のやり方です。「やられたら倍返し」なんてことはなく意外と同等の対応をすると言うものですが、それが復讐法そのものなのです。つまり、外交は、復讐法の如く対抗して相手より少しでも力が大きいとみると、脅しや脅迫まがいの態度で友好国にとって不利益でも自国の利益さえ守れればいいと言うものでもあります。ですから、力が均等でない時は一方的にやられてしまいます。例えば、経済封鎖とか経済制裁なんてことは、「困らせて言うことを聞かせようと言う」古くからの制裁法以外の何物でもありません。村八分にして懲らしめようと言う目論見です。外交などと格好つけてもやっている事は自国の利益の為に相手を威嚇したり脅したり最後は力任せに言うことをきかせるというのが外交の心髄でしかありません。日本は外交力が弱いという事が聞かれますがそれは、「やられたらやり返す」だけの手段を持っていないと言うだけです。平和外交などと良いように言っても軍事的にも経済的にも圧倒的に強くないので誰も言う事など聞いてくれないから弱腰と非難されるのを恐れて平和外交と言っいるに過ぎません。ですから、平和外交の成果なんて佐藤栄作氏がノーベル平和賞を取ったにもかかわらず国民が熱狂せずなんでと言う疑問を抱いただけで終了してしまったことでもわかります。外交は、自国に有利でなければ喧嘩を売ったって当然と言うのが世界の常識です。戦力が不足するなら経済、経済が不足するなら、貧者の脅しが大事です。とにかく、相手国の弱みを探り当てられないなら「なめられている」と思われるような状態になるのです。法治と言うのは人間社会の論理で真理ではありません。悪法も法と言うように法そのものが強いものに有利に出来ています。例えば国連の安全保障理事会の「拒否権」なんて差別そのものです。でも一回握ったなら「法治」の名のもと利権を放棄する事も改善する事もありません。復讐法として有名なのは、ハンムラビ法典ですが、この法典には「倍返し」はありません。「目には目を、歯には歯を」とは、それしか駄目だと言う制限法でもあります。復讐が倍々に成ったら集団としての損失が大きくなることに配慮したもので感情的になっても、一人殺されたら、一人しか殺せないという事で、復讐によって出来る連鎖の停止でもあります。それが誤解される原因となったのがキリスト教の二枚舌です。ここで有名なのが右のほほを殴られたら左のほほを出せと言う旧約新書マタイ伝5章38~40節の記述にあります。「目には目を、歯には歯をといえることあるを聞けり。されど、汝らに告ぐ。悪しき者に手向かうな。人もし右の頬をうたば左を向けよ。」という事で批判しているのですがでも条件として「悪人には手向かってはならない」と言っているのに、キリスト教徒は、「復讐を肯定」するユダヤ教とは違い「罪を許す」愛の宗教であると誇大宣伝して、ハンムラビ法典は復讐法だと誤認させたのです。ところがテレビの影響もあって、現代では「やられたら、倍返しの勢いで復讐する」に使われたりしてしまっているだけなのです。現代でもキリスト教を標榜する国はあっても、外交では基本「やられたらやり返す」が普通です。ですから、日本の国力では外国に「やり返される」危険があってとても強いこと等言えないという事なのです。例えば国後・択捉などの四島だってソビエトの偉い人が沖縄返還後平和条約後に返すと言ったのですから約束不履行で抗議すればいいし世界の法治に訴えなければならないのにいつも低姿勢で相手の様子ばかり伺っているのです。竹島尖閣なども揉めると外交では対応できないから上段の構えにしないのです。法治国家と標榜する国は、ハンムラビ法典のような野蛮な「復讐法」など使用しませんと国内では否定していますが、外交では主流の手段だという事は世界の常識です。だから、日本の外務省は何もできないし、相手の好意を待っているだけなのです。それほど日本には外交なんて軽いのです。

高齢者は行儀が悪いの話

 現代では、100歳以上の方が9万人を超える長生きの時代になりました。ですから70歳以上の高齢者などどこにでもいる時代です。そして、この70歳から80歳の高齢者こそ曲者で行儀が一番悪いと言えるのです。この辺の高齢者は、実は総じて面白い時代を生きた世代でもあるのです。確かに一人一人は大変な事や苦労も沢山あったのですが、全体としての世代では正にスリルとサスペンス冒険の時代でもあったと言えるのです。何故なら、戦前の酷い時代を知らず、戦後の貧しい時代から高度成長期とバブルによって派手な成金時代を経験して、社会的規範に捕らわれない我儘な生き方がまかり通ってきた世代なのです。日本の儒教的家父長制や権威、制度を壊すことがかっこいいと思われた時代で、日本古来からの伝統的社会規範を破壊した世代ですから、行儀見習いをしたことがないのです。基本単位の家族制についても「家付き、カー付き、ばばあ抜き」と嫁と姑の確執が社会問題として襲い掛かる前に、核家族化と言う家族単位での生活を可能にする時代に入り、伝統的な「家制度」は崩れていったのです。そして、「断絶時代」とまで言われた世代間の価値観の違いが、大きな社会問題化のように騒がれながらも、経済の発展がそんなことさえも丸ごと飲み込んでいきました。西洋のような宗教的バックボーンを持たない民主主義は、個人主義も利己主義も混濁して成立し、期待される人間像に反するような、競争社会では、受験戦争、交通戦争と言うように制度や体制が追いついていかない前のめりに拡大し、現状の方が空中浮遊するのを法規制が追いかけていくと言う構図が青春時代に出現していたのです。日本古来の保守的社会制度を批判する事が最新であると期待されたこの世代は、ベトナム戦争、公害、沖縄返還と学生・市民運動と言う中で、価値観の空洞化を招きながら、高度経済成長と言う中で、自己主張が何かを実現していくような、それでいて政治的には何も変わらないと言う虚無的な中で走り続けたのです。そこには沢山の犠牲者も飲み込まれましたが、乞食がいなくなったように、飢餓で亡くなる人がいなくなり社会の片隅でも生活は成り立つような時代でもあったのです。飢えと貧困に戦う労働者群像とは違い意見はバラバラで統一性がないのになぜか押し上げられていくのです。やってきたバブルも、望みでもなく、成果でもなく、海面上昇の如く飲み込まれただけですが、普段は出来ないような良い思いをした人もたくさんいた時代でもあるのです。ジャパンイズナンバーワンなどと世界に雄たけびを上げていながら後ろめたい猜疑心を持ち、今日の繁栄は俺たちが作ってきたんだと言う根拠の薄いプライドに乗っかってもいるのです。まだまだ働けるという事と次の世代に渡していかなければならない作法を知らないだけに政治でも、経済でも思い上がった権力を握りしめている世代なのです。今日の少子化の原因でもありながら、老害なんてことに自分ではないと言い切れる身勝手な人たちの群れでもあるのです。つまり、行儀作法としての「引き際の美学」なんてことも習っていませんから往生際が悪いなんてことは「恥」とも思っていません。ですから、多少の不祥事を起こしても権力や利益にしがみ付いて離さないと言うのもこの世代の特徴です。では、行儀がいいとは何かというと歳を取ったら自分の利益の為でなく社会の為に「正論を吐く」事なのだと思うのです。組織やしがらみ、保身の為に言えなかった、正論を吐いて嫌がられる事だと思うのです。学生運動市民運動なんかにちょっぴりでも関りながら結局は長いものに撒かれて大きなうねりに身を任せていた世代でもあります。行儀が悪い世代ですから晩年は次の世代が暮らしやすいように最後は立て付いてもいいのではないかと思うのです社会に向けて、そうでないとただの、怒りっぽい老人でしかなくなりますから。 

nhkの悪事は続くの続編の話

   NHKは(2021年6月)宛名を書かずに住所だけで送れる日本郵便の新たな郵便サービス「特別あて所配達郵便」を、受信料徴収業務に導入することを明らかにしました。この郵便物の方法は、郵政事業が公共と言う看板を下ろしてチラシ配布と同じレベルになった事を証明するものですが、目的は、NHKの受信料徴取の手段として使用する為だけのものと言われても仕方がないような駄策です。このひどさは、条件の第一が「受取人の氏名が記載されていないこと」なのです。つまり、相手が誰かは分からないのに送り付けることが出来ると言うものです。普通、郵便は、相手に届けるものですから、相手が不明なら返送されますがこの郵便は返送もされないのです。とにかく郵便なのに、住所だけしか書けないと言うものですから、将来詐欺などの犯罪に利用されかねないとも言える奇怪な郵便なのです。NHKは、受信契約がない方に家庭訪問をしていましたがトラブルも多くこれを止めて、この郵便を使って、引っ越しなどで移動した方を含めて、チラシの如く一斉に網をかける様にやろうと言うことで既に受信料支払い契約書の発送もしています。NHKの2021年度末の受信料支払率は、全国値、前年度より0・1ポイント低い78・9%でした。中でも、大阪府(65・2%)、東京都(67・3%)などの、大都市圏では、転居世帯や単身世帯が多く、受信契約の確認が困難な場合が多い一方、空き地なく建物がありそのアパートや建物は分かっていますから、名前を書かなくてもいい「特別あて所配達郵便」の威力が発揮されると見込んでいるのです。しかも、今年度の放送法と電波法の改正法により、正当な理由なく受信料を支払わない世帯への割増金の徴収も可能となるようにしましたから、払わないと罰則があるぞと脅しも添えることが出来るのです。つまり、個人を特定する名前なんか無視してそこに住んでいると言うだけの住人に受信料払えと言う契約書を配達させることで、案内をしたし請求もしたと言うアリバイを積み上げて裁判も辞さないと言う脅しを広報しようとするものなのです。個人を特定できなくても契約の強制や支払い請求が出来るなんてことは法治国家のする事ではありません。その一方で、NHKは、昨年末に放送したBS番組「河瀬直美が見つめた東京五輪」で取材を受けた男性が、オリンピック反対のデモに参加したことがないにもかかわらず、「金銭で動員された」という事実ではない字幕を付け「重大な放送倫理違反」と指摘されています。しかも、取材したディレクターは、男性の発言が別のデモについてのものとわかっていながら、五輪反対デモにすり替えるという、「捏造」「故意」を行っていたのです。現場にも、NHK本体にも、順法精神がないから、「重大な放送倫理違反」程度は何とも思わない体質なのです。和歌山県高野町世界遺産・高野参詣道女人道がNHKの工事で和歌山県高野町から文化財保護法と自然公園法に違反すると指摘されて技術局の局長ら職員4人を減給の懲戒処分としましたが、減給の額や期間は発表しないと言う本当に処罰されたのかさえ不明な対応なのです。公共放送として民間のように広告営業で頭を下げることのないNHKは、倒産の心配もなく、総務省をバックに郵政省迄巻き込んで、準税金だとばかりに受信料を確保するために郵政事業をチラシ配達にまで落とし込んでも掻き集めようとしているのです。つまり、NHKが権力のご用達である限り、悪法を作ってでも悪事は続くという事なのです。

生まれながらの不平等に憧れる人々の話

 イギリスのエリザベス襄王の死で、王室がきらびやかに広報されていますが、生まれながらにして不平等の象徴である王室を美化するのはほどほどにすべきだと思うのです。実際エリザベス女王の時代にも、植民地への過酷な対応や醜聞が山ほどあった事は事実です。従妹には知的障害者がいて施設に入所させ隠していたと言うのも日本ではあまり知られていません。元々、日本でも行われていましたが、血の濃さを守るとして近親婚を含めた婚姻が高貴な人たちの間では普通に行われて、身分差別的な特別な集団であることは間違いないのです。庶民的と思われていますが、ダイアナ妃も名門貴族スペンサー伯爵家の出身貴族です。つまり「何とか家のお嬢様」なのです。自称愛の神と誤解されがちなキリスト教では、一人一人が不平等な環境であることも是認し、現世での不公平で不平等な扱いがあるからこそ宗教としての価値を説いています。みんなが公平で平等なら助けも神もいらないという事です。一方民主主義と言う幻覚でも、「生まれながらにして平等」様に言いますが、実際は階級社会を認めているのです。ですから、民主主義の本場西欧にこそ沢山の王族や貴族がいます。そこには、日本でも公家や大名の子孫と言うだけで特別な人として見られ、今でも出身はどこがついて回っている様に出自が重要視される環境があるのです。ですから、下層民とされた部落問題は決して他人事でもないし、過去の事でもありません。身分制は、インドを含めて未だに生まれ素性が社会では大きな要素になっています。福祉でも教育でもヨーロッパを称賛し日本を非難する人たちがいますが、今でも王族だけでも30近くいるヨーロッパこそ身分制の現存する社会であるのです。デンマーク立憲君主の王国です。そのデンマークの上級民が通うエリート校での醜聞が報道されました。内容は「上級生が下級生を殴る儀式がある」「性暴力やレイプ被害も」と言うものでした。同校は、1565年開校のデンマーク最古の寄宿学校と言うだけでなく、貴族の子女たちが通う学校として設立されたエリート校として、デンマークで唯一、制服の着用を義務化しているほか、生徒たちはデンマーク語をベースにした独自の単語を使用することで知られているとされています。この報道により、通学していた王子は転校、王女は入学を取り消したと言いますが、この様な学校がある事自体をみても身分社会が温存されている事の証拠です。何故なら、デンマーク王国は、ノルディックモデルの高福祉高負担国家であり、OECD各国中で最も個人所得税の高い国であり、市民の生活満足度は世界最高クラス、2014年の国連世界幸福度報告では幸福度第1位なのです。さらに、世界で最も腐敗が少なく、男女の賃金差はOECD中最小であり、社会はグローバル化とデジタル化が進み、欧州において最もデジタル化された社会であると評価されているとされた国なのにも関わらず、貴族がいて王族がいるという事だからです。生まれながらにして、身分が違うほんの一握りの人々が国家の税金を得ながら暮らせる環境が容認されているという事なのです。そんな貴族の子弟は、長年、同校の文化や習慣でもある暴力の温床の中で暮らしそれを伝統として否定しない意識しか持たないのですから、生まれながらの身分の違いを是認し民主主義で言う、平等と共存できると確信しているのです。政府の教育機関も、同校で暴力などの違法行為が行われてきたと認定し、同校に支払われた助成金の返還と、上級生に特権を与えるような慣習を廃止するよう求めていますが、ヨーロッパにはこのようなエリート校が多数存在して、民主主義を大声で叫びながら、生まれながらの不平等に憧れる人々と共に出生による差別を温存しているのです。ここに、ヨーロッパのダブルスタンダードが日常にあり且つ世界の政治を混乱させる原因があるのです。つまり、生まれながらにして人間は平等であることを右手に掲げながら、左手に王様万歳を叫ぶことが出来ると言う感覚です。それは、常に王を含めた権力統治とキリスト教と言う宗教統治を融合させる長い歴史の中ではぐくまれたものでもあったのです。王族がいること自体が、生まれながらにして不平等なのに、その血族に憧れて維持しようと言う力が今も働いている事が本当は問題だと思うのです。

突然草取りをしていい気分の人の話

 先日職場の小さな花壇を見てがっかりしました。この小さな花壇は、幅30センチ、長さ1メートル20㎝程度で正門の横に体裁程度についているものです。この職場の99%の職員は自家用自動車通勤ですから道路から正門へ入るときに前後の車に気を付けても花壇がある事さえ気が付かないようなものです。帰りは門のコンクリート塀の道路側ですから見つけることも出来ません。ですから、そこに花が咲いていようと雑草が生えて居ようと気にかけるにはよほどの関心がなければならない環境なのです。事実この3年間でこの花壇の雑草取りを私以外に行った形跡など一度も確認したことがないのです。そんなことで私の独占物のような気持ちで雑草ばかり育てながらも時にはチューリップなどの花を植えていました。最近は、一鉢120円のシルバーリーフを購入して、出入口に近い側と真ん中に植えて、その間に、マツバギクを頂いてきて差し芽をしていました。さらに、近所で咲いていた百日草の種を昨年とっておいたので、シルバーリーフ・マツバギク・シルバーリーフ・百日草と並んだ状態で夏を終えようとしていたのです。差し芽のマツバギクは、夏の暑い中雑草に埋もれたせいか確かに根がついて新しい目と葉が雑草の中に結構見えて安堵していました。百日草は、大きな1本が雑草の中で立ち上がり蕾が見えました。それがある日突然に、抜かれた雑草と共に端に小山と積みあがっていたのです。流石にシルバーリーフは花と思ってくれたのか抜かずに残っていましたが他はすべて雑草と分類されたのか完全に横になってしおれていました。小さな墓標のような山を崩すとマツバギクがへなへなにはなっていましたが、葉にはまだ緑が残っています。もう一度同じ場所に植え替えです。さきそうだった大きい百日草はとても駄目だと思いましたが、小さな百日草は何とかならないかと兎に角土の中へ。きっと本人は、「正面門の横の花壇、誰も管理していないようだし正面でみっともない」とボランティアの気持ちで「雑草を取り」をしてくれたんだと思うのです。そして、すがすがしい気持ちで立ち去ったと思うのです。でも、私の中では、昔風に言うなら「小さな親切、余計なお世話」そのものなのです。普段気にもかけていないのに何で断りもなく余計な事をするのかと恨めしくなってしまいました。でも、こんなことは仕事場では、よくある事だと思い出しました。突然に「書庫整理しておきました」と報告されてどこに何があるか分からなくなったり、知らぬ間に倉庫の整理がされて必要なものが廃棄されてしまったり、職場では何かの拍子で業務に空白が出来たとき職員を遊ばせてはならないと懸命に考えて、突然思い立ったような整理をするってことがあるのです断りもなく。そっちは暇でもこっちは忙しくて立ち会えないと言うのに「仕事しました」と言う顔で得意に報告する場面に何度か会ったことを思い出しました。大概の場合は、整理などを命じられても「嫌々仕事」としか思っていないので普通はお茶を濁した程度で済みますし、業務で草取りしろと言われたなら「避けたい仕事」ですから、被害は最小限で済むものです。特に清掃なんかは、罰かの如く指示されますから、これでも清掃したのと言いたくなるような出来が業務の場合です。しかし、善意の自発ほど怖いものはありません。驚くほど丁寧な仕事で、これだけの仕事をして呉れたらどんなに評価が上がるか分からないと思われる内容なのです。逆に、犯人探しをしても誰も親身になって情報もくれませんし、折角やってくれたんだから感謝すべき程度の反応です。二週間もしないうちにマツバギクの根が付いていました。小さかった百日草がダイダイの花を咲かせました。でも気づいてくれてはいないと思うのです。何故なら、この花壇に関心があるなら、自分が折角除草した後がその後植え直されて戻っている事に気が付くはずだからです。その時だけ「いい事をやった気持になる」のもいいのですが、その花壇に思いを寄せている奴が他にもいるかもしれないという事ぐらい想像力を持ってもらうと助かると言うのが感想です。ボランティア・。ゴミ拾い永続性が難しいんですよね

 

「SDGs」賛成、でも「落ち葉は嫌い」の話

     産経新聞に「羽州街道古道のケヤキ並木伐採で歴史的景観が一変」と言う記事が掲載されました。内容は、奈良~平安時代の地方官庁・秋田城と関係が深い秋田市寺内地区の羽州街道古道の東門院跡のケヤキ並木の大きいもので高さ約30メートル以上、幹回りは3メートルを超え、樹齢は100年以の10本約80メートルにわたりすべて伐採されてしまったと言うのです。そしてその、理由は、近隣の一部の人から落ち葉が屋根に積もって大変だと、ケヤキ伐採を要求され続けたからと言うものです。苦情を言った住民は、よく言う「たかが枯葉、されど枯葉」的な言い方をするかもしれませんが、樹木の葉は、光合成により二酸化炭素を吸収し、枯葉になってからは土に還る事で表土となり植物の栄養となって環境保全に人間より役に立っています。落ち葉が屋根に積もる程度で苦情を言うような「エゴ」によって切られてしまう事の方が社会的には大きな損害です。実際「SDGs」が流行の今日、大木十本の働きの方が、この樹木の周囲に住む人間の「SDGs」への貢献よりはるかに大きいと思うのです。過去には、ケヤキの枯葉は腐葉土として農業には欠かせない資源でしたしたが、誰もが「化成」などと気軽に使用している化成肥料の手軽さに取って代わられました。しかし、化学肥料(⾼度化成肥料)の原料となる、リン酸アンモニウムと塩化カリウムのほぼ全量、尿素の大半は日本にはなく輸入しているのです。その為、化成肥料によって収量を上げた日本の農業は、土地の有機物を失いどんどん痩せていく一方で、化成肥料を買わなければ化成を使用していなかった前の収穫も出来ない位土地は痩せてしまったのです。化成肥料の製造コストの約6割は原材料費ですから、使用すれは私用するほど、生産コストは上昇して、粗利益さえも幅が少なくなっていくと言う、日本の農業を経営として成り立たなくした元凶でもあるのです。狭い農地で収量を上げるために原料輸入加工された化学肥料を撒き散らした農業と枯葉を腐葉土として肥料として再生土壌に寄与した農業を比べたなら、「SDGs」への貢献は明確なのです。枯葉は秋にしか出来ないのですから、屋根に積もった枯葉を数回に分けて、集めてまとめて積んでおけば堆肥が出来るのです。しかも積んでおけばカブトムシの幼虫がわさわさ出てくるぐらいです。更に、いま日本では、草を燃やすことも禁じられています。畑で草などを燃やす「たき火」までがいくつかの法令等により、禁止や制限されています。消防は、平常の気象状況下なら火災予防上の措置をするなら、違法性はないと言いますが、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」では、例外を除き、野焼きは原則禁止されています。ダイオキシンに始まる低温度での焼却に関する誤解、近所の苦情、地球温暖化二酸化炭素との関り、煙が上がるのが気にくわんによって、出来なくなったのです。例外として、田・畑の草を刈ったあと、現地で野焼きすることは、廃棄物の野焼き禁止の例外となっていますが、近隣に住宅が迫っていると、白煙が発生して苦情となることから簡単には出来ないのです。雑草でさえも燃やして草木灰にすれば、異なりますが、一般的には「リン酸3〜4%・カリ7〜8%・石灰11%」ほどが出来ます。しかも、草木灰アルカリ性ですので、土がアルカリ性になると、虫がよりつきにくくなったり、モンシロチョウは草木灰のニオイを嫌う等もあります。これまでも、日本の土壌の多くのが酸性に傾いていくことに、草木灰を土壌にすきこんで、土壌の酸度調整をすることをしてきました。草木灰は、有機物で肥料にもなりますが、さらに、土の構造を改善して、土の物理性(団粒構造)、化学性(CEC)をよくしてくれます。これこそが循環型の生産で、「SDGs」の基本だと思うのです。ところが、地主は、「また落ち葉で苦情を受けることになる。費用は数百万円に上り」と言う理由で伐採してしまったのです。今日の地球環境の問題の中心原因は人間による開発行為が一番大きいとされています。アマゾンの樹木伐採に反対と言いながら、自分の家の屋根に落ち葉が積もると言うだけで大木さえも切ってしまえと言うエゴに政治も行政も企業も戦うことが出来ずに「SDGs」の看板ばかり並べているのが日本の現状だと思うのです。全国各地の自治体では歴史ある樹木を守る取り組みは行われていますが、指定されるほどに成長していなければ伐採されています。つまり、何かの指定する理由が見つからなければ伐採は簡単に行われているという事です。樹木は、「歴史のある樹木、美観上優れた樹木または貴重な樹木」などと人間の価値観で決められるものではなく、幼木から始まって大木迄、みんな光合成の為に二酸化炭素を消費し、土壌を作り、再生循環しています。「SDGs」などと大見えを切る前に身近な「緑を守る」ことさえ出来ていない事を知るべきだと思うのです。

 

ゆらぎが自然崇拝の原点の話

       日本古来の楽器に、尺八があるのですが、なんでこんな楽器が定着したのかを考えてみると意外と面白かったと言う話です。色んなことに日本風という事が出てくるのですが、日本風って何、西洋風でも中華風でもないってどんなことと問われると意外にこうだと言う特徴を語るのは難しいと思うのです。実際、中華風と言っても時代で大きく変わっています。唐や漢などと言う時代には男性も長く髪を伸ばしていますが、清の時代は辮髪と言う独特のものです。西洋風と言ってもイギリス風もフランス風もドイツ風もイタリヤ風もと言われたら何が西洋風なのか結局ぼんやりとしか分からないという事もあります。ところが、この尺八の歩みを見ると日本風の傾向が見えてくるように思えるのです。尺八は管楽器に現代では仕分けられます。尺八と同じ管楽器はフルートとなりますがこの違いを見ると実に分かりやすいのです。西洋の笛の原点は、動物の骨と言われています。骨の空洞を利用して遊んだのだと言われ、穴の開いた動物の骨も遺物として発見されています。さらに、骨だけでなく、リコーダーとして植物の葦を利用したり、オカリナのような形状の石笛(いわぶえ)や土笛もあったそうです。東洋では、竹がありましたから、楽器としては簡便な竹の活用が多く見られます。陶器は、東西でも楽器としては大きな発展をしませんでした。日本でも、竹がありましたから骨を使用する事はありませんでした。ここで日本が独自になっていくのは、西洋が、全音であれ半音であれ、一つ一つの音が正確に出るための工夫を追及していったという事です。音を正確に出すための穴の数も直指だけでは出来ない穴を器具によって可能にする工夫が進むのです。始まりの、フルートの穴は、5~7個から始まるのですが、どんどんと増えていき穴を制御するためのキーがどんどん増えて今のフルートのようになっていったという事です。一方尺八は、中国の唐から雅楽の楽器として奈良時代に日本に伝来しました。正倉院には当時の尺八が残されています。この頃の尺八の手孔は6つで、現在の尺八より1つ多くあったのです。複数の音を出す為には、穴の数は重要です。少ない穴では、押さえる指先で微妙な調整が必要になりますから、よほど熟練しないと音の調整が難しくなります。にもかかわらず尺八は、穴を一つ減らしてしまうのです。つまり、音が不安定になるにもかかわらず敢えて不安定の中に音を見つけようとするのです。その求めた音が「ゆらぎ」というのだそうです。この「ゆらぎ」は日本独特の感性だと言われ、日本風そのものだという事が出来るという事です。「ゆらぎ」と言うのは、ある量の平均値からの変動をいうという事で、簡単に理解するとドの音の周辺もドに含まれると考える事だといわれます。ですから正確なドではないという事です。当然不正確な音が含まれているのですから音は濁った状態になります。一音だけならそれもいいでしょうが和音としてドミソが一時に流れればいわゆる汚い音になるという事です。ではどんな事が「ゆらぎ」なのかと調べると、星の瞬き、ろうそくの炎の揺れ、川のせせらぎ、木漏れ日、蛍が放つ光、小鳥のさえずり、 心臓の鼓動規則正しさの中にある若干の不規則さ、 この両方があってゆらぎと言えるのだという事です。つまり、正確な音と不規則な音が混ざり合っていながら「きれい」「美しい」と感じることが「ゆらぎ」という事らしいのです。言い方を変えれば、より自然に近い音の追及で、正確な純音は自然にはないと言う考え方かもしれません。これは、とてつもない事です。単音の追及は出来ますが複数音の統合は簡単ではありません。しかも、偶然に出来上がっている、意志をもたずにあっちにこっちに揺れることではなく、意志を持ったうえで統合して自然の物まねではなく、人工音でありながら「きれい」と感じさせることは至難の業としか言いようがありません。私なりの理解では、自然の中には鉄鉱石はあっても鉄は無いと言う考え方だと思うのです。自然の音に近づける努力ではなく、人が出しても自然の物であるという事を実現したいという事だと思うのです。「ゆらぎ」は、自然の物まねではなく、自然と調和するという事ですから、日本風と言うのは、人工物であっても自然と調和する事ではないかと思うのです。ですから、フルートは同じものは作れますが尺八には出来ません。自然には同じものは無い中で、自然に調和する音を出す。これは、崇拝としか言いようがありません。